岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

山頂を目指すだけが「登山」ではない(12)

2009-02-21 05:26:19 | Weblog
 (今日の写真は霧氷である。スカイラインターミナルの下部から少しだけ滑降を続けた辺りで写したものだ。その時はまだ晴れていた。昨日の写真はそれから2時間後のもので、すっかりと雪雲に覆われている。冬季の天気は一端「下り坂」になると、その変化は時を待たない。
 2月12日のブログで私は「霧氷」を、『「白い花を咲かせている」などと表現するが、それは「俗っぽい」ものだ』と書いた。そして、『「それは神に供える麻の布や絹などで造った白い幣「ぬさ」である』とも書き、霧氷の樹列を「白い幣が立ち並ぶ青い参道」とも表現した。
 しかし、今日の写真の「霧氷」に出会った時、それをどうしても「白い幣」と呼ぶことは出来なかった。そして、「俗っぽい」表現と貶(けな)していたが、やはり「白い」花に見えたのである。このブログにアクセスしてくれる皆さんにそう見えないだろうか。
 私には「蒼空の下のタムシバ(匂辛夷)」に見えたのである。それは、たおやかに青空に揺らいでいた。そして、離れて見るとタムシバは蒼い空にも実によく似合うのである。
 だが、この「タムシバ」の仲間には「辛夷」があり、その別名の中には「シデコブシ(幣辛夷)」と呼ばれるものもあるので、私が「霧氷」を「幣」としたこともあながち当を得ていないわけではないだろう。
 となると、さしずめ、「今日の写真」は厳冬期に咲いた岩木山の幣辛夷」とでもなるだろうか。
 そして、実際に春の4月、花が開くと、「毅然として鷹揚な」、「清楚な」、「優雅な」などと、どのようにでも形容・表現出来るという不思議な花が「タムシバ(匂辛夷)」なのである。

 「タムシバ」について書こう。
 …匂辛夷は津軽では一般的にタムシバと呼ばれている。モクレン科モクレン属の落葉小高木であり、春を教えてくれる花の一つでもある。その「冬芽」は、柔らかい羽毛を纏い、すでに大きく膨らんでいる。
 春を告げる花は多いが、残雪を置く藪から抜きん出て咲く姿は異様な神々しさを放つ。山の女神といってもいいかも知れない。
岩木山水無沢沿いの尾根で昨年は4月の初旬に咲いていた。今年は去年以上に暖冬なのでもっと早く咲き出すかも知れない。
 花にも芳香があるが、葉や枝にもあってこれは折ったり噛むといい香りがするのである。これが「噛む」「柴」である。「カムシバ」が転訛して「タムシバ」となったとするのが花名の由来だ。
「ニオイコブシ」の場合は、「微かに」匂うことと「蕾が赤子の拳の形に似ていること」に因るとされている。また、この果実の形が「握り拳」に似ていることが由来だとする説もある。
 別名としては、「辛夷」の場合は、木筆(こぶし)・山木蘭(やまもくれん)・幣辛夷(しでこぶし)・姫辛夷(ひめこぶし)・やまあららぎなどと呼ばれる。
 また、「タムシバ」は「山の磁石の木」といわれている。蕾は確実に南側が太るので北の方向に曲がるのである。つまり、曲がっている方角が北ということになる。「タムシバ」の蕾が膨らんだり、花が咲いている時季に「濃霧」に巻かれて道を失った時などには、方位の確認の助けにはなるだろう。
 よく知られている辛夷(コブシ)とこの「タムシバ」の簡単な見分け方であるが、「花の下に葉がない。葉は薄く裏が白っぽい」である。

 私は、この霧氷「幣辛夷」を見ながら…、「木俣修」の短歌「朝空をつづる辛夷の白花のそよぐともなく春はしづけき」を思い出していた。
 2月の9日である。まだまだ厳冬の季節だ。だがここはすでに春の装いだ。明るい朝空の主役はコブシの花だ。日が昇り、明るさをさらにコブシの白さでゆっくりと染め上げていく。緩やかな動きと茫洋と広がる軽快な時間の流れ。しかし、何と静かな春の朝であろう。
 たおやかな白い花びらには強い風は似合わない。花びらは飛び散ってしまうかも知れない。現実的にはこのタムシバの咲く頃はまだ、西からの季節風が周期的に吹き荒れるのだ。それを繰り返しながらいつともなく季節は初夏に向かっていく。
 作者「木俣修」は待ちに待った静かな春の訪れに満足しきっているようだ。鷹揚な外的な風情を承けて、地中では旺盛な生命がまさに「春めいて」息づいていることまで感じさせる歌だと、私には思える。


      山頂を目指すだけが「登山」ではない(12)

(承前)

 不要なものは全部ザックに詰めて、「デポ」をしてから、私たちは「黒森山」山頂を目指して出発したのだが、背中に「重いザック」のない「相棒」の動きはとにかく速い。もちろん、「デポ」地点から二つ目の沢を徒渉するまでは緩やかな「下り」となっている所為もあるのだが、それにしても速い。
 二つ目の沢を渡って細い尾根に出たら、その尾根なりに山頂を目指せばいいのだ。だが、変に尾根から外れると、急峻な登りを余儀なくされてしまう。その尾根に上がると「登り」が始まる。
 登りになっても「相棒」のスピードは落ちないのだ。どんどんと私との距離は離れるばかりだ。私が「遅れる」から「そんな速いスピードで登るな」というわけでは決してない。私には「相棒」に対して暗黙の「願い」があった。それは冬季における「黒森山」に登るルートを確実に把握して欲しいということだった。
 この速い「登り方」では「周囲に気を配りながらルートを確認」することは、普通では無理である。
 「相棒」は先を進みながら「方向はこれでいいですか」などと私に確認はする。しかし、私への確認と併せて「地形や生えている樹木」などの観察を続けて、次に「相棒」が単独で、または複数名でここに来る時に「絶対のルートファインデング」が出来るようになって欲しいと思っているのである。
 山頂に近づくにつれて、斜面はやたらに急になってきた。「直登」は出来ない。「相棒」の踏み跡を丹念に辿り、ジグザグの「登高」を繰り返す。私の視界から「相棒」はすでに消えていた。「相棒」は山頂にいたのだ。
 …遅れること数分、私も山頂に「やっと」辿り着いた。予想したとおり、いや既成の事実として「岩木山」の標高1000m以上の高みは雪雲に覆われていた。
 私にとっては今回もまた「この場所からの岩木山全容」を見ることが出来なかったのだ。ただ、眼下の樹木の切れ間、つまり沢を横切った所には、私たちの「トレース」がくっきりと見えていたし、眼上には「スカイラインの蛇行」がよく見えていた。
 黒森山山頂に「立った」ことを記念して、お互いを「岩木山」をバックにして撮り合って、直ぐに下山を始めた。
 下降時は私が先頭になった。登って来た時の「トレース」を意識的に「外れた」ルート取りをするためである。だが、その「ルート」は登りの時の「トレース」と全く違うというものではなかった。時々「登りの時のトレース」と交差することもあった。私は色々な視点からの「ルート取り」訓練を「相棒」にして欲しかったのである。
 「あっ、沢に出ましたね」とか「この辺りをさっき通りました」と「相棒」は私に追いついてきては言った。これでいいのだ。私の「目論見」を「相棒」は理解している。
 その後、先頭を「相棒」が務めて「デポ」地点に戻ってきたのは、そこを出発してから1時間25分後であった。予定した時間よりも35分も早かったのである。
 私は「相棒」に「今日登ったデポ地点から黒森山山頂までのルートを地図に書き込んで私に提出して欲しい」という課題を与えた。(明日に続く)