◇◇ 今季は大鳴沢源頭雪渓下端に出来る垂直の積雪壁がない ◇◇
(今日の写真は、厳冬期の大鳴沢源頭部雪渓下端に出来ている垂直の積雪の壁である。これは今から10年以上も前の、ある年の2月に撮ったものだ。
このように、大鳴沢源頭付近には毎年、巨大な吹き溜まりが出来るのである。そして、厳冬期にはその高さは10mを越えることもあり、それが垂直の壁になっているのだ。
そして、例年この「垂直の壁」は、低くはなるが6月中旬までは消えずに残っているのである。
ところが、5月30日に確認したところ、この「壁」がどこにもないのである。「壁」というがここは沢であり、この「壁」の下部は対岸のように向かって右側に傾斜をなしている。30日に視認したこの場所は、ただ単に積雪に埋まった「沢」であったのだ。
それでは、何故この場所にこのような「雪の絶壁」が出来るのだろう。それは、降雪と吹き溜まり、それに強い季節風の吹き出しがあるからだ。
この場所には、厳冬期に北西から吹きつける季節風によって、岩木山山頂からその下部に広がる斜面に「溜まる」べき雪が運ばれてきて巨大な「吹き溜まり」が出来るのである。その吹き溜まりの厚さは優に10mを越えるし、膨大な量の積雪となる。だから、この場所の雪が完全に解けてしまうのは、8月の下旬から9月の上旬になるのだ。
だが、ただ「吹き溜ま」だけでは、このような「垂直に近い」壁を形成することはない。これは、岩木山にぶつかった北西の季節風が大鳴沢に収斂して、エネルギーを巨大化させて、一気にこの場所で「爆発」することによる。
「季節風」というが、これは冬場に「家」をも揺らすほどに吹く、吹雪混じりの風のことだ。ちょっとした台風よりも強いものだ。それが、「収斂」されているのだから、この場所の風速は「50m」を越えているはずである。その猛烈な風が、「積雪」を含めたすべての「雪」を剥ぎ取ってしまうのである。
風という巨大な「ロータリー除雪車」がこの場所の積雪を穿って、「回廊」的な垂直の壁を造っているのである。だが、この壁は5月30日には、まったくなかったのである。
雪が消えたからではない。明日は、その訳を2005年5月20日に撮った同じ場所の写真を掲示しながら説明しよう。
なお、このことについては、昨日6月1日付の東奥日報夕刊にも掲載されている。だが、詳細に欠けるのでこちらを併せて読んでいただきたい。)
◇◇「事務局長退任」は承認ならず(4)◇◇
(承前)…だが、その三上さんが亡くなって事務局長を引き受けた私には、何一つ臨機応変な「機動力(移動の手段)」はなかった。私が持つ「機動力(移動の手段)」は「徒歩」、「自転車」、路線バスのあるところは「バス」だけであったのだ。これだと何かことある時に「直ちに」現場に駆けつけることは出来ない。
「会をとりまとめ、会の活動をリード」する立場の者は「どこへ」でも直ぐ行ける人でなければいけなかったのである。
私を「事務局長」に推した人たちもこの「機動力(移動の手段)」が無いということがどれほど「事務局長」の行動と活動を阻み、狭窄にするかには思い至らなかったようだ。
ところが、年を追うごとに「直ぐ調査しなければいけないこと」や事前調査や野外での活動、行政との話し合いなどで出向くことなどが増えていった。「徒歩と自転車、バス」しか移動手段のない私にとって、これは大変辛いものであった。
幹事の中で自動車を持っていない者は会長と事務局長だけなのだ。ただ、会長は奥さんが会員で自家用車を持っていたから、観察会など一緒に参加出来る時は同乗して来ていた。だが、私の連れ合いも会員だが自動車を持ってはいない。
最初の頃は、幹事会でも、そのような「実情」を話した。それを受けて、幹事の中にも、「そのような時は言って下さい。一緒に行きますから」という人もいた。
しかし、私の都合がその人の都合と合致するということは殆どない。私の都合は、順当なものでも、頼まれた相手には「突発的」なものであることが多い。
そのような時に、頼まれた相手は、非常に「申し訳ない」という言葉で、しかも辛そうに断るのであった。私は頼んだ相手を「困らせ」ているのだ。「迷惑をかけている」のであった。
ある時の観察会、集合場所は鰺ヶ沢スキー場駐車場である。私はある幹事に同乗さえて欲しいと頼み、彼は拙宅まで迎えに来てくれると約束をしてくれた。だが、その日の朝、集合時間に限りなく近づいても、彼は現れなかった。これは彼の「善意の勘違い」が原因だった。
その時はタクシーを使い、鰺ヶ沢スキー場駐車場に行ったが、時間には遅れた。「観察会」を取り仕切る「事務局長」が遅れたのである。その後も、タクシーを使い、現場付近まで出向いたことは何回かあった。
この「機動力」のなさは、今でも私の活動と行動を縛り上げているのである。
「事務局長」は、もっと機動力を持っている人でなければいけない。これは、ずっと考えてきたことであり、幹事会でも何回かは言ったことである。
この8年間、機動力のない私に、もっとも機動力を与えてくれたのは、S幹事である。最近は、S幹事に加え「山行」持の相棒であるT会員が私に「機動力」を与えてくれているのだ。この2人には心から感謝をしている。(明日に続く)
(今日の写真は、厳冬期の大鳴沢源頭部雪渓下端に出来ている垂直の積雪の壁である。これは今から10年以上も前の、ある年の2月に撮ったものだ。
このように、大鳴沢源頭付近には毎年、巨大な吹き溜まりが出来るのである。そして、厳冬期にはその高さは10mを越えることもあり、それが垂直の壁になっているのだ。
そして、例年この「垂直の壁」は、低くはなるが6月中旬までは消えずに残っているのである。
ところが、5月30日に確認したところ、この「壁」がどこにもないのである。「壁」というがここは沢であり、この「壁」の下部は対岸のように向かって右側に傾斜をなしている。30日に視認したこの場所は、ただ単に積雪に埋まった「沢」であったのだ。
それでは、何故この場所にこのような「雪の絶壁」が出来るのだろう。それは、降雪と吹き溜まり、それに強い季節風の吹き出しがあるからだ。
この場所には、厳冬期に北西から吹きつける季節風によって、岩木山山頂からその下部に広がる斜面に「溜まる」べき雪が運ばれてきて巨大な「吹き溜まり」が出来るのである。その吹き溜まりの厚さは優に10mを越えるし、膨大な量の積雪となる。だから、この場所の雪が完全に解けてしまうのは、8月の下旬から9月の上旬になるのだ。
だが、ただ「吹き溜ま」だけでは、このような「垂直に近い」壁を形成することはない。これは、岩木山にぶつかった北西の季節風が大鳴沢に収斂して、エネルギーを巨大化させて、一気にこの場所で「爆発」することによる。
「季節風」というが、これは冬場に「家」をも揺らすほどに吹く、吹雪混じりの風のことだ。ちょっとした台風よりも強いものだ。それが、「収斂」されているのだから、この場所の風速は「50m」を越えているはずである。その猛烈な風が、「積雪」を含めたすべての「雪」を剥ぎ取ってしまうのである。
風という巨大な「ロータリー除雪車」がこの場所の積雪を穿って、「回廊」的な垂直の壁を造っているのである。だが、この壁は5月30日には、まったくなかったのである。
雪が消えたからではない。明日は、その訳を2005年5月20日に撮った同じ場所の写真を掲示しながら説明しよう。
なお、このことについては、昨日6月1日付の東奥日報夕刊にも掲載されている。だが、詳細に欠けるのでこちらを併せて読んでいただきたい。)
◇◇「事務局長退任」は承認ならず(4)◇◇
(承前)…だが、その三上さんが亡くなって事務局長を引き受けた私には、何一つ臨機応変な「機動力(移動の手段)」はなかった。私が持つ「機動力(移動の手段)」は「徒歩」、「自転車」、路線バスのあるところは「バス」だけであったのだ。これだと何かことある時に「直ちに」現場に駆けつけることは出来ない。
「会をとりまとめ、会の活動をリード」する立場の者は「どこへ」でも直ぐ行ける人でなければいけなかったのである。
私を「事務局長」に推した人たちもこの「機動力(移動の手段)」が無いということがどれほど「事務局長」の行動と活動を阻み、狭窄にするかには思い至らなかったようだ。
ところが、年を追うごとに「直ぐ調査しなければいけないこと」や事前調査や野外での活動、行政との話し合いなどで出向くことなどが増えていった。「徒歩と自転車、バス」しか移動手段のない私にとって、これは大変辛いものであった。
幹事の中で自動車を持っていない者は会長と事務局長だけなのだ。ただ、会長は奥さんが会員で自家用車を持っていたから、観察会など一緒に参加出来る時は同乗して来ていた。だが、私の連れ合いも会員だが自動車を持ってはいない。
最初の頃は、幹事会でも、そのような「実情」を話した。それを受けて、幹事の中にも、「そのような時は言って下さい。一緒に行きますから」という人もいた。
しかし、私の都合がその人の都合と合致するということは殆どない。私の都合は、順当なものでも、頼まれた相手には「突発的」なものであることが多い。
そのような時に、頼まれた相手は、非常に「申し訳ない」という言葉で、しかも辛そうに断るのであった。私は頼んだ相手を「困らせ」ているのだ。「迷惑をかけている」のであった。
ある時の観察会、集合場所は鰺ヶ沢スキー場駐車場である。私はある幹事に同乗さえて欲しいと頼み、彼は拙宅まで迎えに来てくれると約束をしてくれた。だが、その日の朝、集合時間に限りなく近づいても、彼は現れなかった。これは彼の「善意の勘違い」が原因だった。
その時はタクシーを使い、鰺ヶ沢スキー場駐車場に行ったが、時間には遅れた。「観察会」を取り仕切る「事務局長」が遅れたのである。その後も、タクシーを使い、現場付近まで出向いたことは何回かあった。
この「機動力」のなさは、今でも私の活動と行動を縛り上げているのである。
「事務局長」は、もっと機動力を持っている人でなければいけない。これは、ずっと考えてきたことであり、幹事会でも何回かは言ったことである。
この8年間、機動力のない私に、もっとも機動力を与えてくれたのは、S幹事である。最近は、S幹事に加え「山行」持の相棒であるT会員が私に「機動力」を与えてくれているのだ。この2人には心から感謝をしている。(明日に続く)