11月23日はダニィの誕生日。夜の10時ちょうどに生まれたとのことで、じゃあたったの2時間の誕生日か、などと冗談を言っていたものの、何歳になってもやはり誕生日は祝いたいものと思うので、一日ダニィの好きなことをすることにしました。とはいえ、あまり希望ってもののないらしい本人は、仕事の休みをとったものの、いつもの通り朝から2時間ジムに行き(今腰を痛めているので、お年寄り向けストレッチングコース 笑)、お昼は日本食レストランのランチメニューで大好きな天ぷらうどん食べ(折角誕生日なのだからと思うのに、いつも天ぷらうどん)、その後は映画オタクのダニィのこと、今やっているMEDFILM FESTIVALという映画祭に行くと実はもう前から決めていたようです。MedfilmとうのはMediterraneoから、つまり地中海地域の国の映画を対象としたフェスティバル。
ダニィは3本見る予定にしていました。普通に映画館に行くと、大概は吹き替えですが、普通フェスティバルの映画は字幕です。こういうフェスティバルは興行成績とは結びつかない映画が多く選ばれて上映されるので、この機会だけのために吹き替えを作らないのは当然ですが、3本もの映画を日本語ならともかく、イタリア語や英語で読み続けるのはかなり疲れますよ。まあ誕生日だから我慢我慢。
さて、見た映画の話も面白いのですが、ここでお話したいのは映画とは関係ありません。まあ、いつもの愚痴というか、呆れというか、よくあるイタリアの日常シーンのお話です。
映画を鑑賞するにあたって、無料だからか、入場券や整理券などを配っていません。最初についた人が時間がきたら先に入り席をとる。まあこれが問題なく機能する日本のような国もあるでしょう。ローマでも人気のないような映画は席の争奪がないので一応何事もなく進みます。そして1本目の映画は運良くそんな状況でした。映画はかなり興味深いものでしたが、お仕事のある人には無理な時間帯だったこともあるでしょうね。私たちはこの映画の後に始まる映画も観る予定でした。映画が終了するとその映画の監督のお話などがあって、それを聞いていると予定の時間を超過することがあります。そして、次の映画も同じところで上映されるはずでも、一旦外にでなければなりません。ずっと同じ人が居残れば他の人が鑑賞できないという平等の観点からすれば、私も100%納得です。
出口は入口のある部分とは全く反対側で、建物をぐるっと回って入口に戻るのですが、なんともう長蛇の列が出来あがってました。そして係員の人が、手を広げて、「ここから後ろの方はお待ちいただいてももう入場できません」と叫んでいます。ダニィはまず、前の映画を観た人は自動的にもう次の映画を観ることができないというシステムに怒りを表していました。なんで先に整理券を受け取りに来て、入場を確保するということができないのかという怒りです。
私としては、こういう無料の映画祭、同じ人だけじゃなくて、いろんな人に外国の映画を観る機会を与えるという意味では、こういうことも仕方がないかなあとは思ったのですが、それよりも気になったのは別の点です。イタリア人の列の作り方はもう有名でしょうけれど、まず列を作るための仕切り(というのでしょうか、日本なら普通ありますよね)がありません。つまり、列の太さが横に5人にも6人にもなるわけです。列の形がはっきりもしません。そこへもって「入場できるのはここまでです」と言われたら、どういうことが起きるのか。そこから後ろにいた人が、どうにか前の列の方に割り込めないかという行動に出るということです。入れないのに待っていても無意味だからと係りの人が伝えようとするのは理にかなっていますが、ここローマではもともと割り込みを試みる人が大勢いる中でまともに並んでいた人々までを悪魔化させてしまうということなのです。つまり、入場できるところにいたはずの人々が入れないという結果になるわけです。もちろん、すぐに飽きらめてその場から立ち去るお上品な方々もたくさんいるのも事実です。
さてこの後、席が無くなったところで入口のガラスのドアが閉められ(外からは開けられないようにできている)、長い時間寒い中待っていて理不尽にも入れなかった人々がドアの前に殺到し、ある男性は声を荒げて怒鳴っていました。その方の言い分は、自分は寒い中40分も並んで待っていた、それなのに後から来た人々が自分より前に入場していった、お怒りはごもっとも。私には、いつものシーンか、どうしてこういつも外にでると喧嘩のシーンがもれなくついてくるのだろうと嫌な気分になってきました。ダニィは「彼の言うことは正しいよ」というし、私もそれには同意するけれど、どうして最初から喧嘩調なのかが気に入らない。中には携帯で録画している人もいましたから、今は下手するとYoutubeなんかに載せられちゃいますね。
入口で苦情を訴える人々。
この男性が興奮して怒りを表していると、周囲もそうだそうだという雰囲気になり、係員はなんとか説明を試みるけれど、男性も諦めず、そのうちに奥の方から警官が2人現れました。何かとすぐに警官や力に訴えようとするやり方も気に入らないのですが、男性はむしろ「ちょうどいい、警察に訴えてやる。警官と話をさせろ」と怒鳴り始めました。
私たちはもう次の映画を観ることに決めて、その列の方に移動したのですが、そこでもすぐ並ぶ人からの緊張感がひしひしと押し寄せます。全員入れるだろうほどの少人数しかいないのに。ダニィに「こういつも喧嘩のシーンばかりみている日常は本当にストレス。あの怒っている人だって、絶対に後からきて前の方に入り込んだことあるはずだね。うまく行ったときは、ラッキーとか言って舌を出しているに違いない」と言うと、「それはそう思うよ」とあっさり納得してました。そういうダニィもどうも無意識のようなのですが、列の団子状になっているところに向かう傾向ありです。私が気になるところはそこで、他人はぺしゃんこにするぐらい責めるくせに、他の機会にはあなただって同じことしているじゃないかという人が多いことです。問題はどうも本人にその認識がないというところらしいのですが。
そこでこの間似たような話をしていたときに、そういうときはこういうんだと教えられたフレーズを思い出しました。
"Chi e' senza peccato scagli la prima pietra"、」つまりタイトルの「罪なき者、まず石を投げよ」です。
聖書のからの言葉で、ヨハネによる福音書8章にあります。そういえば聞いたことがあったなあ。
姦通の罪で捕えられた女がイエスの前に連れてこられ、モーセの律法によると石打の刑に処せられなければならないのだと、律法学者たちがイエスを試す。そこでイエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」と答えると、一人また一人とその場を立ち去り、その女だけが残ったという話。
自分は人のことを責められるかどうか、ということですね。一人一人が自分は人のこと責められるだけの正しい行動をしていれば、もともとこういう不愉快な事態も起こらないんですけどね。まあ先ほども書いたように、認識のない人々が増えていて、この言葉を向けても気にせず石を投げるというのが今の現実なのかもしれません。
3本目の映画のときも同じ。もう夜遅かったので、列の人も少なかったんですよ。それでも人々の間のピリピリ感は同じ。そんなのがあるから、ぎりぎりまで中にいれてくれず、寒さに耐えなければならない。そこへ働いている係員に宅配ピザなんかが届いたりもする。整理券を配るとか、ちゃんと列をきちんと作れるようなしくみを建物の中にも作って、皆が気持ちよく屋内で待つことができたらいいのに、どうしてそんな事を考えられないのか本当に不思議です。今年初めて開くイベントでもないのに。きっと10年後も20年後も変わりないんじゃないかって、この点ではかなりネガティブな私です。
ダニィは3本見る予定にしていました。普通に映画館に行くと、大概は吹き替えですが、普通フェスティバルの映画は字幕です。こういうフェスティバルは興行成績とは結びつかない映画が多く選ばれて上映されるので、この機会だけのために吹き替えを作らないのは当然ですが、3本もの映画を日本語ならともかく、イタリア語や英語で読み続けるのはかなり疲れますよ。まあ誕生日だから我慢我慢。
さて、見た映画の話も面白いのですが、ここでお話したいのは映画とは関係ありません。まあ、いつもの愚痴というか、呆れというか、よくあるイタリアの日常シーンのお話です。
映画を鑑賞するにあたって、無料だからか、入場券や整理券などを配っていません。最初についた人が時間がきたら先に入り席をとる。まあこれが問題なく機能する日本のような国もあるでしょう。ローマでも人気のないような映画は席の争奪がないので一応何事もなく進みます。そして1本目の映画は運良くそんな状況でした。映画はかなり興味深いものでしたが、お仕事のある人には無理な時間帯だったこともあるでしょうね。私たちはこの映画の後に始まる映画も観る予定でした。映画が終了するとその映画の監督のお話などがあって、それを聞いていると予定の時間を超過することがあります。そして、次の映画も同じところで上映されるはずでも、一旦外にでなければなりません。ずっと同じ人が居残れば他の人が鑑賞できないという平等の観点からすれば、私も100%納得です。
出口は入口のある部分とは全く反対側で、建物をぐるっと回って入口に戻るのですが、なんともう長蛇の列が出来あがってました。そして係員の人が、手を広げて、「ここから後ろの方はお待ちいただいてももう入場できません」と叫んでいます。ダニィはまず、前の映画を観た人は自動的にもう次の映画を観ることができないというシステムに怒りを表していました。なんで先に整理券を受け取りに来て、入場を確保するということができないのかという怒りです。
私としては、こういう無料の映画祭、同じ人だけじゃなくて、いろんな人に外国の映画を観る機会を与えるという意味では、こういうことも仕方がないかなあとは思ったのですが、それよりも気になったのは別の点です。イタリア人の列の作り方はもう有名でしょうけれど、まず列を作るための仕切り(というのでしょうか、日本なら普通ありますよね)がありません。つまり、列の太さが横に5人にも6人にもなるわけです。列の形がはっきりもしません。そこへもって「入場できるのはここまでです」と言われたら、どういうことが起きるのか。そこから後ろにいた人が、どうにか前の列の方に割り込めないかという行動に出るということです。入れないのに待っていても無意味だからと係りの人が伝えようとするのは理にかなっていますが、ここローマではもともと割り込みを試みる人が大勢いる中でまともに並んでいた人々までを悪魔化させてしまうということなのです。つまり、入場できるところにいたはずの人々が入れないという結果になるわけです。もちろん、すぐに飽きらめてその場から立ち去るお上品な方々もたくさんいるのも事実です。
さてこの後、席が無くなったところで入口のガラスのドアが閉められ(外からは開けられないようにできている)、長い時間寒い中待っていて理不尽にも入れなかった人々がドアの前に殺到し、ある男性は声を荒げて怒鳴っていました。その方の言い分は、自分は寒い中40分も並んで待っていた、それなのに後から来た人々が自分より前に入場していった、お怒りはごもっとも。私には、いつものシーンか、どうしてこういつも外にでると喧嘩のシーンがもれなくついてくるのだろうと嫌な気分になってきました。ダニィは「彼の言うことは正しいよ」というし、私もそれには同意するけれど、どうして最初から喧嘩調なのかが気に入らない。中には携帯で録画している人もいましたから、今は下手するとYoutubeなんかに載せられちゃいますね。
入口で苦情を訴える人々。
この男性が興奮して怒りを表していると、周囲もそうだそうだという雰囲気になり、係員はなんとか説明を試みるけれど、男性も諦めず、そのうちに奥の方から警官が2人現れました。何かとすぐに警官や力に訴えようとするやり方も気に入らないのですが、男性はむしろ「ちょうどいい、警察に訴えてやる。警官と話をさせろ」と怒鳴り始めました。
私たちはもう次の映画を観ることに決めて、その列の方に移動したのですが、そこでもすぐ並ぶ人からの緊張感がひしひしと押し寄せます。全員入れるだろうほどの少人数しかいないのに。ダニィに「こういつも喧嘩のシーンばかりみている日常は本当にストレス。あの怒っている人だって、絶対に後からきて前の方に入り込んだことあるはずだね。うまく行ったときは、ラッキーとか言って舌を出しているに違いない」と言うと、「それはそう思うよ」とあっさり納得してました。そういうダニィもどうも無意識のようなのですが、列の団子状になっているところに向かう傾向ありです。私が気になるところはそこで、他人はぺしゃんこにするぐらい責めるくせに、他の機会にはあなただって同じことしているじゃないかという人が多いことです。問題はどうも本人にその認識がないというところらしいのですが。
そこでこの間似たような話をしていたときに、そういうときはこういうんだと教えられたフレーズを思い出しました。
"Chi e' senza peccato scagli la prima pietra"、」つまりタイトルの「罪なき者、まず石を投げよ」です。
聖書のからの言葉で、ヨハネによる福音書8章にあります。そういえば聞いたことがあったなあ。
姦通の罪で捕えられた女がイエスの前に連れてこられ、モーセの律法によると石打の刑に処せられなければならないのだと、律法学者たちがイエスを試す。そこでイエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」と答えると、一人また一人とその場を立ち去り、その女だけが残ったという話。
自分は人のことを責められるかどうか、ということですね。一人一人が自分は人のこと責められるだけの正しい行動をしていれば、もともとこういう不愉快な事態も起こらないんですけどね。まあ先ほども書いたように、認識のない人々が増えていて、この言葉を向けても気にせず石を投げるというのが今の現実なのかもしれません。
3本目の映画のときも同じ。もう夜遅かったので、列の人も少なかったんですよ。それでも人々の間のピリピリ感は同じ。そんなのがあるから、ぎりぎりまで中にいれてくれず、寒さに耐えなければならない。そこへ働いている係員に宅配ピザなんかが届いたりもする。整理券を配るとか、ちゃんと列をきちんと作れるようなしくみを建物の中にも作って、皆が気持ちよく屋内で待つことができたらいいのに、どうしてそんな事を考えられないのか本当に不思議です。今年初めて開くイベントでもないのに。きっと10年後も20年後も変わりないんじゃないかって、この点ではかなりネガティブな私です。