小学生の頃の宿題に「教科書写し」というのがあった。教科書○ページから△ページまでを国語のノートに一マス一マス丁寧に書き写すというもの。先生がどういう意図をもってこの宿題を出していたのかなど考えてみたこともなかったが、結構面倒な宿題であった記憶である。一マス一マス丁寧にどころか、とにかく写し終えて宿題終了に至ることだけが目的だったから、字がマスからはみでていようが、間違えがきれいに消せていなくてもお構いなし。写していた文章がはてさて頭の中で意味をなしていたのだろうか、疑問である。今、姪の宿題を見ながら、「もう少しきれいに書いたら」などと言っているが、本当は人のことを言える立場ではない。
この間日本に帰国した際に、久し振りに日本の新聞を手にとって読むことの心地良さをおぼえた。ローマでは海外版の日本の新聞をとることも可能だが、インターネットでも十分に日本のニュースが手に入るご時世とあっては、どうも購読料をケチってしまう。おまけに動画ニュースで済ましている始末だ。読む労力すらケチっているというところだろうが、新聞を読むことの新鮮な面白さを久し振りに味わい、最近オンライン新聞に目を通すようになった。そこで朝日新聞を眺めていると、たまたま天声人語書き写しノートなるものがあることを発見した。天声人語の603字分を写すためのマス目と感想や言葉の意味などを書くメモスペースのあるノートのようだ。
天声人語と言えば、昔、受験勉強でお世話になった。なんでも入試に出るとか、最新のニュースを取り扱うので時事問題の知識増強にもいいとか。切り取ってノートに貼り、知らない言葉や漢字に線を引いたり、要約文を書く練習をしようと試みた。実際は母が律儀に毎日切り取ってくれた細長い短冊のような天声人語が溜まりに溜まり、私ではなく、面白がって読んでいた母の方の知識が増えたという結果だったようにも思うが、大学入試のときの小論文の模擬テストはなぜか得意だった。
さて、この書き写しノートも発行当初は反響を得るものと予測されてはいなかったとのことだが、天声人語の記事を何年にも渡って書き写している人が実は多くいるらしい。今でも受験用に使われているかどうかはわからないが、学校で取り入れているところ、写経気分で精神修行にする主婦、認知症予防のための高齢者たちと年齢もまちまちとのことだ。
私は日本語を教える仕事をしていることから、日本語上級学習者にも使えるのではと思い、まずは自分自身で初めてみることにした。別に例のそれ専用のノートなどは必要ないので、普通のA4サイズのノートを購入した。もちろん原稿用紙のようなマス目のあるノートは手に入らないが、マス目である必要もない。時間がかかってもなるべく丁寧に一字一字書き写す。小学生の頃に苦手だったこの作業が、なんと非常に面白い。漢字を一画一画丁寧に書くことで、なんといい加減な漢字を書いてきたことかと思い知らされる。もはや見なければ書けないだろうという漢字も次々と発見される。日本語を教える身としてはなんともお恥ずかしい次第だ。記事の内容には癒されたり、なるほどと思わされたり、そんな人がいるのかと驚いたり、知らなかったことを知る喜びを味わったり、なかなかこれが楽しいのだ。
さて、最近の天声人語に7月16日に東京の代々木公園で行われた「さようなら原発」の集会のことが取り上げられていた。最近、脱原発への運動が高まっているニュースをよく目にするが、こういう大規模な集会は日本ではあまり行われることがなかった。ただ悲しいのは、福島のような大悲劇が起こらないとここまでの大勢の人が立ち上がることがないということである。この天声人語の中で高木仁三郎という一人の反原発の科学者の言葉が取り上げられている。「実際に生きている人間の直感の方が化学的知を超えて物事の本質に迫る瞬間がある」と言ったそうだが、原発の研究をしてきた科学者自身がその恐ろしさとその間違いを声を張り上げ訴えていたとき、多くの人は耳を貸していなかったのだ。
恥ずかしいことだが、私はこの反原発のカリスマと呼ばれる高木氏のことを知らなかった。高木氏はチェルノブイリの事故よりも、そしてスリーマイル島の事故よりもずっと以前から反原発を訴えていたそうである。そしてなんと16年前に福島第一のまさに「想定外」の事態への警告もしていたのだそうだ。警告が実際になることを望んではおられなかっただろうが、こうなって初めてどこかで誰かが言っていたことが本当になったと人々は気づく。
私は科学者でもなく、政治家でもなく、学者でもないし、そして世の中のことを正しく見極める能力も持ち合わせた一市民でもないため、反原発の話を聞けばなるほど、原発擁護の話を聞けばそれもなるほどと思ってしまう。だから何が正しいのかということがわからないというのが正直なところであるが、宮沢賢治を愛し、宮沢賢治のように弱い市民の立場にたった科学者でいることを貫き、癌による短い人生の最期までを反原発運動に捧げた高木仁三郎氏の言葉やその生き方によって示されたことには強い説得力を感じる。
高木仁三郎氏を取り上げた番組の動画 こちら1 2
高木仁三郎の部屋
この間日本に帰国した際に、久し振りに日本の新聞を手にとって読むことの心地良さをおぼえた。ローマでは海外版の日本の新聞をとることも可能だが、インターネットでも十分に日本のニュースが手に入るご時世とあっては、どうも購読料をケチってしまう。おまけに動画ニュースで済ましている始末だ。読む労力すらケチっているというところだろうが、新聞を読むことの新鮮な面白さを久し振りに味わい、最近オンライン新聞に目を通すようになった。そこで朝日新聞を眺めていると、たまたま天声人語書き写しノートなるものがあることを発見した。天声人語の603字分を写すためのマス目と感想や言葉の意味などを書くメモスペースのあるノートのようだ。
天声人語と言えば、昔、受験勉強でお世話になった。なんでも入試に出るとか、最新のニュースを取り扱うので時事問題の知識増強にもいいとか。切り取ってノートに貼り、知らない言葉や漢字に線を引いたり、要約文を書く練習をしようと試みた。実際は母が律儀に毎日切り取ってくれた細長い短冊のような天声人語が溜まりに溜まり、私ではなく、面白がって読んでいた母の方の知識が増えたという結果だったようにも思うが、大学入試のときの小論文の模擬テストはなぜか得意だった。
さて、この書き写しノートも発行当初は反響を得るものと予測されてはいなかったとのことだが、天声人語の記事を何年にも渡って書き写している人が実は多くいるらしい。今でも受験用に使われているかどうかはわからないが、学校で取り入れているところ、写経気分で精神修行にする主婦、認知症予防のための高齢者たちと年齢もまちまちとのことだ。
私は日本語を教える仕事をしていることから、日本語上級学習者にも使えるのではと思い、まずは自分自身で初めてみることにした。別に例のそれ専用のノートなどは必要ないので、普通のA4サイズのノートを購入した。もちろん原稿用紙のようなマス目のあるノートは手に入らないが、マス目である必要もない。時間がかかってもなるべく丁寧に一字一字書き写す。小学生の頃に苦手だったこの作業が、なんと非常に面白い。漢字を一画一画丁寧に書くことで、なんといい加減な漢字を書いてきたことかと思い知らされる。もはや見なければ書けないだろうという漢字も次々と発見される。日本語を教える身としてはなんともお恥ずかしい次第だ。記事の内容には癒されたり、なるほどと思わされたり、そんな人がいるのかと驚いたり、知らなかったことを知る喜びを味わったり、なかなかこれが楽しいのだ。
さて、最近の天声人語に7月16日に東京の代々木公園で行われた「さようなら原発」の集会のことが取り上げられていた。最近、脱原発への運動が高まっているニュースをよく目にするが、こういう大規模な集会は日本ではあまり行われることがなかった。ただ悲しいのは、福島のような大悲劇が起こらないとここまでの大勢の人が立ち上がることがないということである。この天声人語の中で高木仁三郎という一人の反原発の科学者の言葉が取り上げられている。「実際に生きている人間の直感の方が化学的知を超えて物事の本質に迫る瞬間がある」と言ったそうだが、原発の研究をしてきた科学者自身がその恐ろしさとその間違いを声を張り上げ訴えていたとき、多くの人は耳を貸していなかったのだ。
恥ずかしいことだが、私はこの反原発のカリスマと呼ばれる高木氏のことを知らなかった。高木氏はチェルノブイリの事故よりも、そしてスリーマイル島の事故よりもずっと以前から反原発を訴えていたそうである。そしてなんと16年前に福島第一のまさに「想定外」の事態への警告もしていたのだそうだ。警告が実際になることを望んではおられなかっただろうが、こうなって初めてどこかで誰かが言っていたことが本当になったと人々は気づく。
私は科学者でもなく、政治家でもなく、学者でもないし、そして世の中のことを正しく見極める能力も持ち合わせた一市民でもないため、反原発の話を聞けばなるほど、原発擁護の話を聞けばそれもなるほどと思ってしまう。だから何が正しいのかということがわからないというのが正直なところであるが、宮沢賢治を愛し、宮沢賢治のように弱い市民の立場にたった科学者でいることを貫き、癌による短い人生の最期までを反原発運動に捧げた高木仁三郎氏の言葉やその生き方によって示されたことには強い説得力を感じる。
高木仁三郎氏を取り上げた番組の動画 こちら1 2
高木仁三郎の部屋