あいあいのひとりごと

ローマ在住あいあいの暇つぶし日記。

ペルーのランチ会

2012-11-29 23:49:28 | ローマの休日
私の行っていた(というのは今閉まってしまっていて行かれない)モザイク教室の友達にペルー人の人がいます。私も若くはないけれど、このモザイク教室はお年寄りの人の割合がかなり大きくて、少ない同年代の人ということで仲良くしていましたが、教室で会うだけの間柄でした。ローマの公立学校内に工房を借りていた先生の教室で、校長が変わったことや、イタリア政府の教育関係への予算の削減なども影響しているのか、詳しいことはわかりませんが、突然にして「出て行ってください」を言い渡されたそうです。残念ながら、そこで親しくしてくれていた人たちとの関わりもそこでぷつんと途切れてしまいました。私は父の病気でこの夏日本に帰国し、ローマにいない間に起きたことで、残念と思いながらもなんとなくぼーっといたところに、彼女が電話をくれました。

「元気?」と彼女。「う~ん、最近ぱっとしない、外に出る気もしなくて」と私。そこでペルーの人たちで企画しているチャリティーランチ会に誘ってくれました。10ユーロで飲み物と前菜とメインディッシュなのだそう。集まったお金はペルーの貧しい子供達に送るということでした。私はもう一人ペルー人の友人がいて、ペルー料理は時々食べに行く機会があるのですが、その友人と食べに行くと注文は彼女が仕切るので結局毎回同じものを食べることになるのです。それでも他の国の料理が日本のように簡単に口に入らないローマの生活では、そういうちょっと違う味のものを食べるのは本当に楽しみ、その友達ともしばらく会ってもいなかったので、参加させてもらうことにしました。

私は日本で日本語教師をしていたので、様々な国籍の人に出会いましたが、南米の生徒さんというのは少なく、確かブラジル、コロンビア、メキシコからの生徒さんはいましたが、ペルーの人との関わりはこの友人たちが初めてです。そのためペルーのイメージは「コンドルは飛んでいく」を演奏するポンチョのミュージシャンに限られていたり、勝手に他の南米諸国のイメージとミックスしたりと本当に申し訳ないばかり。このランチ会、100人位のペルー人が集まっていたのは圧巻でした。一般に宣伝していたようですが、イタリア人らしき人は友達のご主人ぐらいでしたね。ましてや私は唯一のアジア代表。

テーブルクロスのかかったテーブルにさらにランチョンマット、天窓のある明るい清潔な食堂にはペルーの音楽も流れ、ペルーの雰囲気満点。
入口で10ユーロを払うと、飲み物、前菜、メインの3色の食券を渡され、テーブルに座って待っていると、お揃いのTシャツを来た若いスタッフがすぐに注文を取りに来ます。イタリア人はこういうシステマチックなことができない。食券なんてこと考えずに、各自が料理を取りに行き、列に並ぶもできないので、いつも混乱が生じる。そんなことをぼーっと考えていると、飲み物のコーラが届きました。

前菜は大量の生の玉ねぎとペルーの巨大なトウモロコシ付きの豚肉のスペアリブのような料理または豚肉(多分)と様々な野菜入りのスープからの選択。私はスープにしました。イタリアで味わうスープよりも日本で飲むスープのような感じでした。メインは鶏肉か山羊の肉。山羊には関心があったのですが、どうも鶏肉の方に魅かれてしまいました。残念ながら料理の名前聞き取れず。

こちらは山羊の料理。日曜日のランチに食べるそうです。





そしてこちらが私が食べた鶏肉。ごはんつき。



何かのソースにつけてあって、それから焼いたものと思われるのですが、これがなかなか美味。どういう味付けなのと聞くと、最後にアジノモトという言葉が出てきました。彼女も「日本語だと思うけれど」という前置きをつけてました。そうですね、ペルーは日系移民が多くいる国でした。今も日本の苗字の人がたくさんいるそうです。そうですね、フジモリ元大統領の国でした。

ペルーの話を聞くなかで、そんな日本とペルーのつながりの話にもなるわけですが、つい最近の話にナポリでマフィアに圧力をかけられている市場の話が出ました。そこには外国人も働いているのですが、誰もが怖くてマフィアのことを当然口にしませんが、あるペルー人が証言をしたのだそうです。そのとき「こんなことをして怖くないのですか」という質問に「私はフジモリ元大統領の政権時代に拷問も受けていますから、いまさら何も怖くない」と言ったそうです。そこで私の友人が手でものを切るようなしぐさをしながら「日本人もね・・・」と言いました。日本人もね残酷なことをするのよね、と言いたかったのでしょうか。

お恥ずかしながら、ペルーのこと、よく知らない私。過去の日本と他の国の関係も、例えばイタリア人となら、第二次世界大戦は日本とイタリアは同盟国で一緒に戦ったんだよねなんて話しても、大半のイタリア人はきょとん、もともと望んでそうなったことではないらしいので、共感はないのでしょう。簡単に外国に行かれるようになり、さまざまな国の人たちと接することができたり、友達関係を持つことのできる世の中になりましたが、お互いの国に対するイメージや感情って私たちが想像しているものと違うことがたくさんあるのだと思います。






なんと4時間もテーブルでおしゃべりをしてしまいました。外へでるともう暗い。その後行ったナボナ広場。恒例のクリスマス市が始まってました。


80歳のファントッツィ

2012-11-18 19:49:13 | イタリア(人物)
無料で映画や芝居を見に行くチャンスを見つけるのが得意な夫ダニィのお蔭で以前は週に何度も出かけていましたが、最近はインターネットなどのお蔭で在宅映画会が増えてしまい、以前に比べるとうちにいることが増えていました。それでもほとんど第二の仕事化しているダニィのイベント探しは続いていて、今回はテアトロのチケットが入ったよと言う。テアトロというと、お芝居だったり、トークショーだったり、ダンスだったり・・・と劇場で開かれる何かのショーのことを指すようです。コンサート的なものや、数人で行われるお芝居だったり、マジックショーとか言葉理解があまり関係のない場合はいいのですが、一人の人が語るだけのトークショー的なものは正直私には疲れるだけで、最近は「友だちと行って来れば」的な冷たい反応の私です。つまり2時間のイタリア語の授業を聞いているようなものですから。

というわけで、今回のはそのイタリア語の授業系とのこと。パオロ・ヴィラッジョという俳優が自分の俳優歴やベルルスコーニ元首相がショーマンをやってた頃一緒に働いた思い出や歌手Fabrizio de Andre’との友情のことなどを語るというものらしい。私はその俳優も知らないしなと思っていたら、「ファントッツィを演じた俳優だよ」と言われ、心が動いてしまいました。ファントッツィというのは、きっとイタリア人なら誰でも知っている喜劇映画です。この俳優演じるウゴ・ファントッツィが主人公で、この俳優の演じる代表的な作品なんじゃないでしょうか。ファントッツィは大会社で働く会計士なのですが、同僚や彼の家族と繰り広げられるドタバタ喜劇は、言葉理解を超える全世界共通の笑いのつぼを刺激してくれます。日本でもありますよね、痛そ~なんだけれど、笑ってしまうというお笑いショー。そのタイプです。

一部をどうぞご覧ください。





この作品、1975年と言うから今から37年前です。当時中年サラリーマンだったファントッツィも今は80歳のおじいさんです。下の写真が私たちが観に行ったステージです。





話し方もちょっと聞きづらくて、私は一割もわからなかったという悲しい結果ですが、なんだか最初の方にジャッポーネ(日本)、ジャッポーネと連発していたので、ちょっと集中して聞いていたら、第二次世界大戦のイタリアとドイツと日本が同盟を組んでいた話のようで、戦争の敗戦国にもかかわらず、戦後の経済大国の2位から4位までは日本、ドイツ、イタリアになったという話でした。(イタリアが4位って本当?)どういう関連かわかりませんが、日本人がイタリアに来ると、トイレの汚さに嘆くというイタリアはけしからんという話にもなっていて、どうやら日本を良く思っているらしいと良い印象は持ちました。やはりちょっとボケも入ってきているのか、最後の方は面白くない歌を披露したがったりしていたようです。


イタリア映画ファントッツィ(Fantozzi)お薦めです。イタリア語を勉強中の人なんかにも良いと思います。

辛かった今年の夏

2012-11-06 18:22:26 | 日本はいつも休日
ブログを60日更新しないとテンプレートが変わってしまうんですね。実は7月末に実家の父に大病が二つも見つかり、この夏はずっと東京にいました。こういうことって、歳をとるにつれ経験することになっている事件なのでしょうが、ついこの間までは本当に他人事でした。実はそのほんの少し前、5月から6月にかけてもイタリアから友人を連れて日本に行っていたのですが、父も元気でしたし、その時にはまさか2か月後にはこんなことが起きるなんて思ってみませんでしたから。イタリア人たちとの日本珍道中も書きたかったのですが、そんなわけでブログを書く心の余裕もなく、この夏は実家のために尽し、父母のこと、人生のこと、健康のこと色々と考えた夏でした。父もきっといろんなことを伝えておきたかったのか、父の今迄の人生の話、祖父の話、いろんな話を聞きました。そんなことがあったなんてという話がたくさんあって、父のことをどれだけ知らなかったのかと思わされました。いままでのほほんと暮らしてこられたのは父のお蔭と本当に感謝しました。

病気が発覚してから毎日、父と家族のためにお祈りを続けたおかげか手術は成功、でも手術前もそれはそれは色んなことがあり、これは何を意味しているのだろうと不安に苦しむ毎日でした。幸いにも私の嫌な予感は当たらないということを学んだ結果になりましたが、今迄の人生走りに走ってきた父は、人生のゴール前に色々なことを中途半端に挫折しなければならないかもしれない恐怖感から心まで病んでしまい、今も以前の心を取り戻せずにいます。

数年前、父は千葉に土地と古家を買いました。都会からの避難所として、そして私たち娘や孫たちがどんな世の中になっても食べていかれるように畑を残したいとの考えからのようです。この夏、でもどうして千葉なのか、そのわけが少しわかりました。双子の兄の方だった父は、身体が弱い弟の面倒を死ぬまでみようと決めていたそうです。それで結婚もせず千葉で農業でもやりながら弟と生きようと考えていたのだそうですが、弟の方が学生の時に事故で亡くなってしまいました。その思いが今もあるのかもしれません。千葉の畑、家族一つになって実現したいと思います。今まで父は一人で頑張ってきたけれど、今度はみんなで頑張りたい。お父さん、早く元気になってください。お祈り続けます。



千葉の田園風景。正面の里山に畑を作ります。影は撮影者の私。あまりに陽射しが強くて日傘を指しながらのシルエット。


ブログのテンプレート、取り戻せたかな。またローマの話も続けたいと思います。