私の行っていた(というのは今閉まってしまっていて行かれない)モザイク教室の友達にペルー人の人がいます。私も若くはないけれど、このモザイク教室はお年寄りの人の割合がかなり大きくて、少ない同年代の人ということで仲良くしていましたが、教室で会うだけの間柄でした。ローマの公立学校内に工房を借りていた先生の教室で、校長が変わったことや、イタリア政府の教育関係への予算の削減なども影響しているのか、詳しいことはわかりませんが、突然にして「出て行ってください」を言い渡されたそうです。残念ながら、そこで親しくしてくれていた人たちとの関わりもそこでぷつんと途切れてしまいました。私は父の病気でこの夏日本に帰国し、ローマにいない間に起きたことで、残念と思いながらもなんとなくぼーっといたところに、彼女が電話をくれました。
「元気?」と彼女。「う~ん、最近ぱっとしない、外に出る気もしなくて」と私。そこでペルーの人たちで企画しているチャリティーランチ会に誘ってくれました。10ユーロで飲み物と前菜とメインディッシュなのだそう。集まったお金はペルーの貧しい子供達に送るということでした。私はもう一人ペルー人の友人がいて、ペルー料理は時々食べに行く機会があるのですが、その友人と食べに行くと注文は彼女が仕切るので結局毎回同じものを食べることになるのです。それでも他の国の料理が日本のように簡単に口に入らないローマの生活では、そういうちょっと違う味のものを食べるのは本当に楽しみ、その友達ともしばらく会ってもいなかったので、参加させてもらうことにしました。
私は日本で日本語教師をしていたので、様々な国籍の人に出会いましたが、南米の生徒さんというのは少なく、確かブラジル、コロンビア、メキシコからの生徒さんはいましたが、ペルーの人との関わりはこの友人たちが初めてです。そのためペルーのイメージは「コンドルは飛んでいく」を演奏するポンチョのミュージシャンに限られていたり、勝手に他の南米諸国のイメージとミックスしたりと本当に申し訳ないばかり。このランチ会、100人位のペルー人が集まっていたのは圧巻でした。一般に宣伝していたようですが、イタリア人らしき人は友達のご主人ぐらいでしたね。ましてや私は唯一のアジア代表。
テーブルクロスのかかったテーブルにさらにランチョンマット、天窓のある明るい清潔な食堂にはペルーの音楽も流れ、ペルーの雰囲気満点。
入口で10ユーロを払うと、飲み物、前菜、メインの3色の食券を渡され、テーブルに座って待っていると、お揃いのTシャツを来た若いスタッフがすぐに注文を取りに来ます。イタリア人はこういうシステマチックなことができない。食券なんてこと考えずに、各自が料理を取りに行き、列に並ぶもできないので、いつも混乱が生じる。そんなことをぼーっと考えていると、飲み物のコーラが届きました。
前菜は大量の生の玉ねぎとペルーの巨大なトウモロコシ付きの豚肉のスペアリブのような料理または豚肉(多分)と様々な野菜入りのスープからの選択。私はスープにしました。イタリアで味わうスープよりも日本で飲むスープのような感じでした。メインは鶏肉か山羊の肉。山羊には関心があったのですが、どうも鶏肉の方に魅かれてしまいました。残念ながら料理の名前聞き取れず。
こちらは山羊の料理。日曜日のランチに食べるそうです。
そしてこちらが私が食べた鶏肉。ごはんつき。
何かのソースにつけてあって、それから焼いたものと思われるのですが、これがなかなか美味。どういう味付けなのと聞くと、最後にアジノモトという言葉が出てきました。彼女も「日本語だと思うけれど」という前置きをつけてました。そうですね、ペルーは日系移民が多くいる国でした。今も日本の苗字の人がたくさんいるそうです。そうですね、フジモリ元大統領の国でした。
ペルーの話を聞くなかで、そんな日本とペルーのつながりの話にもなるわけですが、つい最近の話にナポリでマフィアに圧力をかけられている市場の話が出ました。そこには外国人も働いているのですが、誰もが怖くてマフィアのことを当然口にしませんが、あるペルー人が証言をしたのだそうです。そのとき「こんなことをして怖くないのですか」という質問に「私はフジモリ元大統領の政権時代に拷問も受けていますから、いまさら何も怖くない」と言ったそうです。そこで私の友人が手でものを切るようなしぐさをしながら「日本人もね・・・」と言いました。日本人もね残酷なことをするのよね、と言いたかったのでしょうか。
お恥ずかしながら、ペルーのこと、よく知らない私。過去の日本と他の国の関係も、例えばイタリア人となら、第二次世界大戦は日本とイタリアは同盟国で一緒に戦ったんだよねなんて話しても、大半のイタリア人はきょとん、もともと望んでそうなったことではないらしいので、共感はないのでしょう。簡単に外国に行かれるようになり、さまざまな国の人たちと接することができたり、友達関係を持つことのできる世の中になりましたが、お互いの国に対するイメージや感情って私たちが想像しているものと違うことがたくさんあるのだと思います。
なんと4時間もテーブルでおしゃべりをしてしまいました。外へでるともう暗い。その後行ったナボナ広場。恒例のクリスマス市が始まってました。
「元気?」と彼女。「う~ん、最近ぱっとしない、外に出る気もしなくて」と私。そこでペルーの人たちで企画しているチャリティーランチ会に誘ってくれました。10ユーロで飲み物と前菜とメインディッシュなのだそう。集まったお金はペルーの貧しい子供達に送るということでした。私はもう一人ペルー人の友人がいて、ペルー料理は時々食べに行く機会があるのですが、その友人と食べに行くと注文は彼女が仕切るので結局毎回同じものを食べることになるのです。それでも他の国の料理が日本のように簡単に口に入らないローマの生活では、そういうちょっと違う味のものを食べるのは本当に楽しみ、その友達ともしばらく会ってもいなかったので、参加させてもらうことにしました。
私は日本で日本語教師をしていたので、様々な国籍の人に出会いましたが、南米の生徒さんというのは少なく、確かブラジル、コロンビア、メキシコからの生徒さんはいましたが、ペルーの人との関わりはこの友人たちが初めてです。そのためペルーのイメージは「コンドルは飛んでいく」を演奏するポンチョのミュージシャンに限られていたり、勝手に他の南米諸国のイメージとミックスしたりと本当に申し訳ないばかり。このランチ会、100人位のペルー人が集まっていたのは圧巻でした。一般に宣伝していたようですが、イタリア人らしき人は友達のご主人ぐらいでしたね。ましてや私は唯一のアジア代表。
テーブルクロスのかかったテーブルにさらにランチョンマット、天窓のある明るい清潔な食堂にはペルーの音楽も流れ、ペルーの雰囲気満点。
入口で10ユーロを払うと、飲み物、前菜、メインの3色の食券を渡され、テーブルに座って待っていると、お揃いのTシャツを来た若いスタッフがすぐに注文を取りに来ます。イタリア人はこういうシステマチックなことができない。食券なんてこと考えずに、各自が料理を取りに行き、列に並ぶもできないので、いつも混乱が生じる。そんなことをぼーっと考えていると、飲み物のコーラが届きました。
前菜は大量の生の玉ねぎとペルーの巨大なトウモロコシ付きの豚肉のスペアリブのような料理または豚肉(多分)と様々な野菜入りのスープからの選択。私はスープにしました。イタリアで味わうスープよりも日本で飲むスープのような感じでした。メインは鶏肉か山羊の肉。山羊には関心があったのですが、どうも鶏肉の方に魅かれてしまいました。残念ながら料理の名前聞き取れず。
こちらは山羊の料理。日曜日のランチに食べるそうです。
そしてこちらが私が食べた鶏肉。ごはんつき。
何かのソースにつけてあって、それから焼いたものと思われるのですが、これがなかなか美味。どういう味付けなのと聞くと、最後にアジノモトという言葉が出てきました。彼女も「日本語だと思うけれど」という前置きをつけてました。そうですね、ペルーは日系移民が多くいる国でした。今も日本の苗字の人がたくさんいるそうです。そうですね、フジモリ元大統領の国でした。
ペルーの話を聞くなかで、そんな日本とペルーのつながりの話にもなるわけですが、つい最近の話にナポリでマフィアに圧力をかけられている市場の話が出ました。そこには外国人も働いているのですが、誰もが怖くてマフィアのことを当然口にしませんが、あるペルー人が証言をしたのだそうです。そのとき「こんなことをして怖くないのですか」という質問に「私はフジモリ元大統領の政権時代に拷問も受けていますから、いまさら何も怖くない」と言ったそうです。そこで私の友人が手でものを切るようなしぐさをしながら「日本人もね・・・」と言いました。日本人もね残酷なことをするのよね、と言いたかったのでしょうか。
お恥ずかしながら、ペルーのこと、よく知らない私。過去の日本と他の国の関係も、例えばイタリア人となら、第二次世界大戦は日本とイタリアは同盟国で一緒に戦ったんだよねなんて話しても、大半のイタリア人はきょとん、もともと望んでそうなったことではないらしいので、共感はないのでしょう。簡単に外国に行かれるようになり、さまざまな国の人たちと接することができたり、友達関係を持つことのできる世の中になりましたが、お互いの国に対するイメージや感情って私たちが想像しているものと違うことがたくさんあるのだと思います。
なんと4時間もテーブルでおしゃべりをしてしまいました。外へでるともう暗い。その後行ったナボナ広場。恒例のクリスマス市が始まってました。