たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

まだ時間が必要かな

2015年04月16日 22時57分17秒 | 日記
今のような状態を消耗症候群というんだそうです。かかりつけの内科の先生が教えてくれました。頭ではわかっていても、私の中で本当に納得できるまでにはまだ時間が必要な感じのこの頃です。

少しずつ、少しずつ、整理中。
嫌な書類を廃棄しながら整理中。
怒り、苦しい、悲しい・・・。
ネガティブ感情に無理に蓋をしないで、しばらくその中につかってみる。
そういう時間も大切。なかったことにはできない。
無理に前向きに考え方を変えなければと思うと、自分を鼓舞しようとすると今はとても苦しい。
人に話してしまうと、いつまでもそんなことしていないで、何をやっているの、となってしまうので話すのが今は少しこわい。
ネガティブ感情と向き合う時間も許される社会であってほしいですが、なかなか理解されず、むずかしいですね。

月曜日に訪ねた公的機関の人には、どうして無理に動こうとするの?先のことを考えようとするの?今は新しいことを始められる時ではないでしょ、と叱られてしまいました。以前に「信じようよ」と言ってくれた方でした。
自分を信じる気持ちを失っていることが一番つらくて、肯定してほしくて会いにいったのだけれど肯定はしてくれませんでした。自分で肯定するしかありません。

本当にこれでいいのかわかりませんが、もう少し整理を続けてみようと思います。
心を満たそうとルーブル美術館展を観に行ったのでそのことも書きたいです。書きたいこといろいろありますが、またあす以降にします。


秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ホーム

2015年04月15日 23時05分00秒 | プリンスエドワード島への旅
モンゴメリさんが『赤毛のアン』を書いた家の跡のお庭から。

プリンス・エドワード島の10月の半ばは日本の12月ぐらいの寒さでしたが、本当にきれいでした。
モンゴメリさんほどこの島を愛し、その美しさを言葉で表現できた人はいないのかもしれません。

ここに佇んでいるとモンゴメリさんがきいたのと同じ風の音が今も聞こえてきます。
ざわざわ、ざわざわ・・・、プリンス・エドワード島は風の島。


こんな本読んでみようかな

2015年04月14日 22時30分11秒 | 本あれこれ
落ち着かない季節の変わり目、雨の日、すっかり葉桜になったのに寒い日。
元職場の人に結果を伝えるメールを送ったら返事がきて、一度しっかり落ち込んで、涙が枯れるまで泣いたら、しばらく休んで気持ちを戻してください、とありました。
なぜだか安心感、私が毎日一生懸命に働いていた姿を知っていて、信頼関係があった方からのことばがあったかく感じられます。
私が去った後、ますます大変な状況になっているようです。
もう私が心配することではありませんが、ずっと長い間母のようにみんなことを心配し、
お世話してきたので、こんなことになってもまだひきずっています。
自分でも笑ってしまいます。
こうなったら開き直ってしまって、とことん落ち込んで、また這い上がっていけばいいのかなと思えてきました。
この時点ですでにもう少し先に進めているのかもしれませんね。
ためこんだまま整理しきれていないものをまだまだ整理中、
もう一度目の前に広げ直して整理中、苦しむためではなく気持ちを整理して
先へ進んでいくために整理中です。次のゴールがみえなくって、私が私を肯定することができていないからすごく苦しいんだと気がつきました。だから、私が私自身を信じる気持ちを取り戻していくために整理中です。人によってはそんなことやめなさいよ、ということですが自分を信じてもう少し続けてみます。中途半端はよくないので、やるなら自分で納得できるところまでやろうと決めました。

もうすぐ定年のこの方は、最近『里山資本主義』という本を読んだそうです。
レビューを読むと、必ずしも手放しで賛成できるという内容ではないようですが、
いろいろと考えるヒントを与えてはくれそうです。
社会がどんどんおかしなことになってきていることに気づくと、手を伸ばしたくなる
タイトルかもしれません。
積読も、読みたい本もたくさんあるので、たどりつくのはまだ先になりそうですが、
読んでみようかな。

農業体験に申し込んでみようかなとふと思いました。
子どもの頃、おばあちゃんの家の田んぼで稲刈りしたり、小学校の授業では田植えもしたので
すでに体験しているといえばいえるのですが、小学生の頃の話、遠い昔のこと。
大人になってからは手伝ったことがありません。
ようやく今までと違うことをやってみようと思えたこと今の私には大切です。
地図を見ながら知らない場所に行くことに疲れ果ててしまっているので、実現するとしても
まだ少し先の話です。


里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)
藻谷 浩介,NHK広島取材班
角川書店

もやもやっとした春の日

2015年04月12日 22時13分18秒 | 日記
寒暖の差が激しい季節の変わり目、なんとなく気持ちも落ち着かず、心身共にこたえる感じがあります。
新しい生命が芽生えるこの時期、草木が人間のエネルギーを吸い取っているという話もあるとか、この時期を過ぎて落ち着いてきたらきっといいこともありますよ、って一昨日訪れた眼科の人が言ってくれました。一年あまり混乱の大変な時を過ごしてきたので、交感神経ばっかり働いていて自分でも辛いですと話したら、苦しくなったらまたきてくださいね、と見送ってくれました。ありがたいです。
きっといろんな人の支えがあって、こうしてどうにかこうにか今ここにいることができているんだろうと思います。

普通に生きることがいちばんむずかしいんだなあとあらためて思うこの頃です。
正解のない答えを求めて手探りしながら生きていくって大変。
すり減ってしまって、社会への怒りが全身にたまった状態でどこにいけばいいのかまだわからないでうろうろしている私がいます。この二週間ぐらいこんなにへばっているんだと自覚させられることがいくつかありました。気づくことができてよかったのかな。

そんなことしていないで、さっさと気持ちを切り替えて、忘れて次に進みなさと叱られたりしますが、混乱の前の自分に戻ることはもうできない、知ったこと見たことに全部蓋をして、心の中にしまいこんで、何事もなかったようにこれから生きていくことはできない、ちょっと横に一時置きして忘れることも今はできない。
ずっと全身で緊張し続けた状態から、自分を解放してあげるのはかんたんではありません。
さてどうするのか、どっかに希望があると信じたい、今はその気持ちだけ・・・。
やってきたことにはちゃんと意味があるんだ、無駄じゃなかった、そう思わないといられません。本当に自分が納得できて、周囲も認めてくれるのはこれから次第なんだろうと思います。

弟が映画音楽のコンサートに誘ってくれたので、少し息抜きできました。
オーケストラの生演奏に、新妻聖子さんと中川晃教さんの歌。
魂を込めた言葉をメロディに乗せるミュージカル俳優さんはすごいとあらためて思いました。

久しぶりの生の舞台、しかも席が舞台から近かったのでエネルギーをもらえました。
ミュージカルコンサートに何度か行っていますが、間近で拝見するとまた格別でした。
感謝・・・。

明日から始まる『レ・ミゼラブル』、今年はおあずけにしようと思っていますが、夏の『エリザベート』は抽選予約があたったので、花ちゃんシシィに井上さんトートが、今からすごく楽しみです。今はそこまでがんばってみようと思います。

一路さん、花ちゃん、香寿さん、宝塚の舞台で何十回も拝見してきた人たちが、変わることなく、いやより成長して舞台で活躍されているのを拝見するのは励みになります。

『レディ・ベス』でアスカム先生の低音を聴かせてくれた石丸さんは、劇団四季退団後一年ぐらいは動くことができず、公園を散歩するところからリハビリして舞台に復帰されたとか。
人にはそんな時期もある。ひたすら走り続けてきた人にはそんな時も訪れる。
あれほど働いていた私が今は・・・と思うと辛くなるけれど、公園を散歩するところからまた始めてみればいい、きっと大丈夫。

とりとめもなくまた長くなってしまいました。

春のプリンス・エドワード島の曇り空の写真を選んでみました。
吉村さんがいい写真を撮ることができるのは、晴天ではなく曇りや雨の日という話を
講演会でされたことがあったと思います。






『ちひろのアンデルセン』より『おやゆびひめ』

2015年04月11日 23時13分47秒 | いわさきちひろさん
「わたしは、仕事の性質上、たくさんの童話を読むけれど、わたしの好きな童話というのは、あくまでも自分の絵に都合よくできているものばかりである。詩のようにことばの短く、うつくしく、いろいろなことを思いうかべることのできる、そんなものが好きである。

 たとえ(文章で)克明に書いてあってもなお、わたしが描きよいものに、アンデルセンの童話のいくつかがある。「マッチ売りの少女」とか、いろいろなおひめさま、また魔女たちに、わたしは、それぞれのイメージをつくり、それをすこしずつ発展させながら、なんかいかいたことだろう。なんかいかいても、なお工夫するたのしさを、わたしはいまだに失わないでいる。

                               ちひろ、1964年」

(いわさきちひろ絵本美術館編『ちひろのアンデルセン』1994年4月25日、講談社文庫より)

ちひろさんが好んだ作品の一つが『おやゆびひめ』だったそうです。
私の手元にある、昭和59年発行の「おはなしえほん」はすでに絶版で、2005年に「名作えほん」のシリーズとしてあらたに出版されているようです。

疲れた頭を休めたくて、夕方外で食事をしたあとで久しぶりにゆっくりと開いてみました。
本を開いたときのにおい、ちひろさんの絵の美しさ、子供はもちろんですが、
大人にこそ必要な本かなと思います。
こういうものを上に立つ人たちこそ手にとってくれればいいのに、そういうことは
ないんでしょうね。

交感神経ばっかり働き続けているのが眼にも現れていることが眼科に行ってわかりました。
沈静化までにはまだ時間とプロセスが必要なんだとあらためて思っています。

立原えりかさんのプロフィール紹介に、立原さんが高校時代から童話を書き始めて、
20歳頃自費出版したのにあこがれて、自分も21歳の時に自分の本がほしくてたまらず
つたない童話集を自費出版したことを思い出しました。


おやゆびひめ (いわさきちひろ・おはなしえほん (1))
立原 えりか
講談社



秋のプリンス・エドワード島への旅_グリーン・ゲイブルズの窓辺

2015年04月10日 23時21分07秒 | プリンスエドワード島への旅
秋はすごくさみしい感じもありましたが、旅日記を読み返してみると、ほんとうに楽しくて幸せな時間を過ごしていました。

グリーン・ゲイブルズの、2階にマリラの部屋がある北側の写真を選んでみました。


下の写真は、台所のゼラニウムのある窓辺に灯りがともっている様子。
案内係のお姉さんの人なつっこい笑顔を思い出します。
わたしのように英語がおぼつかない人にも一生懸命に話しかけてくれます。
島の人たちの笑顔はほんとうに人なつっこい。
これから歩こうとしていたホンテッド・ウッド(お化けの森)がすごくきれいよ、
って言ってくれて静かに心がはずんだことも思い出します。
グリーン・ゲイブルズは国立公園なので案内係の人たちは公務員だと、松本侑子先生が
著書の中で書かれていたと思います。
日本でイメージする公務員という雰囲気は全くありませんでした。




私の心、なかなか沈静化できずでことばが口からでませんが、かげでたくさんの人にささえられていることに感謝しています。口にだすことができずに申し訳なく思っています。


新緑の季節へのうつろい

2015年04月09日 22時21分10秒 | 日記
一つの終わりの日、慣れ親しんできたところからの本当のお別れの日。
いまだに実感がなく信じられないですが現実。
今は虚しく悲しいばかりなり・・・。

少しずつ少しずつ新しい扉を開いていけるのかな。

窓の外の大きく枝をひろげた桜の木は、葉桜になりつつあります。
満開の時よりも葉桜のほうが好きだったりします。



心の中にあるぬくもり

2015年04月08日 22時31分16秒 | 日記
朝から雨が降り桜吹雪と木々のみずみずしい緑とがしっくりと溶け合って、
新緑の季節へと移り変わっていこうとしていますが、冬に逆戻りしたような寒い一日でした。相変わらずの浮き草のような日々。
毎日、夜明日はこれをやろう、ここへ行こう、と決めてから眠るようにしています。

4月に入ったのだから何か新しいことをしたい、しなければ・・・と気持ちだけあせって、
先日冷静になれば自分でも信じられないようなつまらないものを一瞬信じて、手を出してしまいました。
幸いすぐに気づいたので軽傷ですみましたが、もう少し手前で気づくことだってできたはずなのに気づきませんでした。心が疲れて冷静な判断力を失っているとき、大きく隙間ができてしまっていました。妹が焦ったってだめだよと、教えてくれたのでしょうか。
私としたことがお恥ずかしいかぎりのことでした。

きっと私を心配して訪問してくださっていると思います。
ありがたいです。ひとりだけどひとりじゃない。
書きたまったきたので一度形にしてみてもいいかなとつらつら思ったりするこの頃。

昨日の夜は、一年ぶりに身体知プログラムに参加しました。
自分の体の声を聴くというセッションで、結果的に2013年6月9日にまっすぐに伸びる木というタイトルで書いたフォーカシング合宿の追体験となりました。
最初はすごく疲れていてきついと感じました。頭が痛くて、目の奥がガンガンしているのを自覚しました。左右ちぐはぐでバランスが悪くって苦しくって仕方なかったです。私裸眼だと左右の視力がかなり違うからなんですが、普段感じているバランスの悪さを一層強く感じました。
自分のことを言葉にして説明するのが辛いと感じました。この一年余り、ややこしい事情を話さなければならない場面が繰り返し繰り返し訪れてその度に心身が擦り減っていく感でした。だから自分のことを説明するのに、すっかり疲れてしまっています。
きつくなったので、坐ってひとり小さく鼻から吸って口から吐くを続けました。
こんなにきついんだとあらためて自覚、また涙が滲んでいます。
このままなのかなあと思いながら目をつぶって呼吸を続けていたら、「大丈夫?」と心配してくれた人が背中をさすって、悪いものが抜けていくようにと魔法をかけてくれました。
そうしたら不思議なことに、あったかい感じになってきて頭の上と体の中にランプがみえてきて、灯りがともっていました。
そのランプの形は、石巻にボランティアで側溝の泥出しに行った時に見た、津波でやられてしまった家の門に残っていた、コテッと横に傾いたランプ。
かつてはあたたかく家族を迎え入れた灯りがともっていたであろうランプの形。
自分の中にエネルギーが戻ってくるのを感じて、また自然と立ち上がることができました。
私、きっと大丈夫・・・。
自分を信じる気持ちを取り戻していこう。
今は大丈夫の確たる根拠がないので不安だけれど、きっと大丈夫・・・。
心の中にともった灯りには、ぬくもりと名づけました。

今感じている怒り、悔しさ、悲しさ等々の感情をないことにはできない。
一瞬横にちょっと置くことならできるかもしれないけれど、わすれることなんてできない。
人によってはそんなばかなことしていないで・・・、っていうことをずっと続けてきたのだけれど、気持ちの切り替えができていないのだけれど、自分の中にちゃんとあるものとして受けとめていこうとしています。受けとめて整理し直しながら、休み休み少しずついくしかない。浄化しながら少しずつ・・・。
ごはん食べていかないといけないのでどうしましょう。
そこを再構築できないかぎり人は認めないだろうし、私自身不安。
なんとかしていくしかないです。何かひとつ決められれば自分にご褒美をあげたいなあ。

文化村の「ボッチチェリとルネッサンス展」のことも書きたいですがまた次回。

心はプリンス・エドワード島へ帰りたいな。
ヴィクトリア村のかわいらしい灯台と青空。
ほんとに誰が撮っても、どこで撮っても、うーん、やっぱりきれい。



こんな本を読みたい_『ひとりぼっちを笑うな』

2015年04月07日 18時00分10秒 | 本あれこれ
4月ってこんなに雨が多かったかなと思うしっとりとした毎日が続いています。
桜の花びらが舞い散って葉桜になってきています。
満開よりもこんな季節の変わり目の方がなんだか落ち着く感じがして好きです。
すり減ってしまって怒りが沈殿している自分をどう浄化していけるのか、
浄化していかないと次は見えてこないような気がします。
それまでどうやってごはんを食べていくのかということはクリアできていませんが、
浄化していく手立てが少し見えはじめてきたかもしれません。

日曜日にOTTVAを聴いていたらプレゼンターの林田さんがこんな本を紹介されていました。
毎回林田さんが紹介される本にはひかれるものがありますが、積読がたまっている私は
追いつくことができません。

なので実際に読むのはまだ先になりそうですが、今の自分にぴったりかも、
気持ち楽になれそうかともタイトルをきいただけでひかれています。

蛭子能収著『ひとりぼっちを笑うな』。

蛭子さんは魚が苦手で、たとえばローカル線の旅で海岸線沿いの街に3泊で行った時も、地元の食堂で、番組としては魚を食べておいしいと言ってほしいところを、苦手なものは食べたくないのでカツなどを注文する、という姿勢を崩さなかったそうです。
テレビのバラエティ番組でも自分のペースを貫いてきた蛭子さんの姿勢が10年前は周囲に理解されなかったのが今は理解されるようになり、むしろ共感を得られるようになってきている、ひとりぼっちで何が悪い、ともだちなんてていなくったっていいじゃないか、それもひとつの生き方。友だちがいなければならないなんてことはない・・・そんなところに共感している人が多いのではないかと、林田さんは紹介されていました。

去年の8月に出版されて売れ続けているようです。

自分がまだ読んでいない本のことを書くのはどうかなと思いながら、面白そうだと思ったので書いてしまいました。


ひとりぼっちを笑うな (角川oneテーマ21)
クリエーター情報なし
KADOKAWA/角川書店

物語をつむぐ

2015年04月06日 18時59分13秒 | 祈り
人にはそれぞれ物語がある。
私の中にはどんな物語があるのだろう。
どんな物語を二つの喪失体験の中で紡いできたのだろう。
正解のない答えをみつけていくのはこれから。
自分の気持ちと向き合うのはしんどいし、とてもエネルギーのいることなので
続けられるのかわからないけれど、書くことでしか浄化できないという思いがあるので、
もう少しこのまま続けてみよう。


3月22日のブログにも書きましたが、ステレオタイプ的に使っていた
”楽になる”ということをもっと考えてみるところに私の物語があるのかもしれません。
先日はじめて当事者として話をさせてもらうにあたって、時系列で21年を振り返ったあとで
ぼんやりとみえてきたテーマです。
テーマになるのかどうかわかりませんが、もしまた当事者として話をさせていただける機会があればもう少し焦点をしぼって、私を支えてくれたことと”楽になる”ということの意味を考えてみましょうと伝えられるような話ができたらいいなと自分の中で思っています。
本当に正解などどこにもない、ひとつのテーマ。
生きていくことはむずかしくて、正解のない答えを手探りしながら歩んでいくのが生きていくということなのかもしれません。

浮き草のように漂う日々のたどり着く先はみえてきません。
社会への怒りをためこんだままではきついだろうと思います。
浄化できるのにどれぐらいの時間がかかるのか今はわかりません。
ややこしすぎるので中途半端に人に話すと逆に責められて、
話すのがこわくなってしまいます。
希望がどっかにあるって信じる気持ちを大切にしながら、
一日一日を過ごしていきます。


「1995年11月18日(土)

昨日、カウンセリングの先生にお話をきいていただいて、少しだけ気持ちが楽になった。
胃がどーんと重い日が続いてはいるが、なにか変ったわけではないが、ほんの少しでも
ちがうわたしがいるかもしれない。自分の気持ちに素直に生きられたらいいなと思う。
プラスの面もマイナスの面も両方きちんと受け取められたらいいなと思う。
そして、少しでも自分にとって居心地のいい場所をみつけられたらいいなと思う。
無理することはない。気負うこともない。あるがままを受け取めていこう。
煮詰まったらまた先生に話をきいていただこう。
自分で自分を閉じ込めてしまうことだけはやめよう。
わたしはわたしの人生だ。
前だけ向いていこう。
もう無理が効かない年齢なので、夜ふかしはさけよう。」


4月2日(金)コミュニティハウスの庭先