たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

つつじの花が開き始めました・・・

2014年04月12日 15時58分37秒 | 日記
気がつけば桜の花が散り、新緑がまぶしい季節へと移りかわろうとしています。
私のとおる道すがらも、プリンス・エドワード島の緑にはかないませんが、緑にあふれています。

今回の混乱状況はまだ線引きができません。長く働いてきました。一生懸命に働いてきました。かんたんには終わりません。まだ失業保険を申請できる状態にないし、次の仕事のあても全くないのでつらいですが、きちんと精算できるまでふんばるしかありません。
社会から取り残されてしまっているような不安感におそわれますが、私の力を必要としてくれる所はきっとあると信じて、今はこのまま進んでいくしかありません。

卒業論文を仕上げてから10年が過ぎました。捨てきれなかった参考資料をようやく整理し始めました。参考文献の中から気になる箇所を手書きとワープロで抜き書きしたカードを作成しました。膨大な量です。そのカードを読みこんで並べていくことで章立てができ、最終的に論文というかたちでまとめました。平日は働きながら4年かけてやりました。

その中から今気になる記述を引用してみようと思います。

 
「高度成長期間中、女性労働者の過半数以上が未婚女性で占められていた。彼女たちは和製英語OL(Office Lady)と呼ばれ、お茶くみを始めとする雑用や補助的作業が大半であった。男性が基幹労働者である日本的経営にあって、OLは結婚したら退職するのが慣習であった。

 しかし高度成長期が終わり、安定成長時代に入った1970年代後半からは、サービス産業の増大とともに、既婚女性のウエイトが高まりだした。その背後には、核家族化の進行につれて子子どもの数が減少したこと、電化製品の浸透により家事時間が減少したこと、戦後の高学歴化の影響が女性にも現われはじめたこと、パート労働が一般化したこと、などがあげられる。
 
 オイルショック以降、日本経済に構造変化が起きた。特に労働市場では常用労働者よりも雇用調整の容易な非常用型の労働が増大した。その傾向が基幹労働者である男性よりも女性において進行した。」

 (篠塚英子著『女性が働く社会』勁草書房、1995年発行、33頁より)



「女性が一番多く就いている仕事は、事務的職業である。冷暖房のきいた都心のオフィスで、OA機器に取り囲まれて働くOL。働く女性の代名詞ともなったOLたちの職業生活は、それほどラクなものではない。企画や経営方針決定に参与できる場合はまれで、多くのOLたちは、上司や幹部候補の男性社員の必要に応じて、書類の作成や整理、コピーとりなどの補助的作業を担当し、部屋の掃除やお茶くみなどの職場環境を整える役割を担い、時にはタバコや弁当を買いに行く、使い走りまでの雑用を期待される場合がほとんどといってよい。いずれも、たいした技術を必要とせず、また成果が形に残るわけでもない補助的な仕事である。」

  (井上輝子編『新版・女性学への招待』ゆうひかく選書 1997年発行、112頁より)


「彼女はクルクルとよく回る目で私を見ると言った。

 その時、自分で自分を食べさせていくのは、大変なことだ、とつくづく思いました。

 私はしっかりとうなづいた。パートを軽くみているわけではないが、パートとフルタイムの間には大きな差がある。時間の長さの差ではない。労働に対する重さのちがいだ。家計の足しのために働くのと、自分という一人の人間を食わせるために働くのでは、同じ労働でも重さがちがう。その重さに耐えられず、「結婚」に逃げ道を求める人は沢山いる。それを悪いとは思わない。私がいいたいのは、女が自分で自分を食べさせていくのはそんなにたやすいことではない、ということだ。
 自分というたった一人の人間を食べさせていくことが、どんなに大変なことか。屋根と食物をあてがわれている女性には、わからないだろう。」

 (松原惇子著『クロワッサン症候群 その後』文芸春秋 1998年発行、87頁より)


 振り返ってみると、10年の間に社会も職場環境も息苦しい状況にすっかり変わってしまいました。十数年前に働き始めた頃は、今よりも働きやすくて楽しい感すらありましたが、削減、削減の流れが始まった頃から空気はどんどん息苦しい方向へと変わっていきました。気がつけば一般職の女性社員はほとんどいなくなり、あっちをみてもこっちをみても派遣社員になりました。
その流れの中で私自身も派遣社員に甘んじ、自分が本当に何をしていきたいのかわからないまま、生活もあるので目の前のことをクリアしていくことに一生懸命になりながら、ずるずるときてしまいました。それが私にとって正解だったのかどうか、今となってはわかりません。十数年という時間は過ぎてしまいました。長く居すぎたことが真逆の結果となってしまいました。

もう少し上手くやってそのまま派遣社員として居続けられたら幸せだったのか、5年後の自分に後悔はないのか、それはわかりません。手帳やメモ帳を読み返すと、違和感と息苦しさを私は繰り返し繰り返し書き綴っています。複雑すぎる人間関係を構築していくのが苦手な私には限界を超えていました。ただ生活があるので自分から辞めますとはとうとう言えませんでした。今また新たな道へと進んでいく機会を与えられたのだと受けとめようと思います。ただ終わり方は納得できていないので、もう少しふんばろうとしています。

パートということばは、私の中で無責任な、言いようのないやり切れなさを伴って今も響きます。完全にオーバーワークだった数年間の中で、パート:1人、派遣社員:1人という状況の中で、パートは当然毎日出社しないし、どこまで責任をもって仕事をするのかあやふやで、実質二人分に近い仕事量を一人でやらなければならなかった、その時のつらさ、苦しさを今も身体がおぼえています。振り返ってみると涙があふれてきそうです。そんなに一生懸命やってしまわなければよかったのか、仇でかえってくる結果になるとわかっていればやらなかったのか・・・。自分で納得できるように一生懸命やってしまいました。職場の誰にも言わないで勉強と両立させてもいました。自分に無理をさせ過ぎました。

繰り返しになりますが、次に自分の力を必要としてくれる所はきっとあると今は信じつづけることしかできません。

昨日状態のよさそうな本を数冊、図書館に寄贈しました。どうしても、というものは残して少しずつお別れしていこうと思います。


写真は、モンゴメリさんが「赤毛のアン」を書いた家の跡の入口です。