たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

秋のプリンス・エドワード島への旅_6日目

2014年04月10日 21時12分28秒 | プリンスエドワード島への旅
2012年10月18日(木)

携帯のアラームは現地時間に合わせて鳴っていた。便利なもんだ。

朝食のプレートは日替わりだった。この日はオムレツ。
ジュースがやっぱりおいしい。
喉がかわいている。

朝食のあと、地下のランドリーを使ってみる。水回りの音が建物中に響いている。

晴れてきたので、10時過ぎ、街(シャーロットタウン)へと出てみる。
Anne of Green Gables ShopとアンのチョコレートShopでジャム、小さなメープルシロップなど、自分用とお土産になりそうな物を買い込む。
モンゴメリさんの手紙を集めた本も買った。

風が冷たい。コンフェデレーションセンターでトイレ休憩。
「赤毛のアン」のミュージカルはもうやっていなかったが、劇場入口ウインドゥのモンゴメリさんの葉書き、手袋、ブローチなど、ゆっくり写真を撮ることができた。
ミュージカルの場面も思い出した。

部屋に戻って2時間ほど休憩。
本を少し読めた。
ビクトリア・パーク散策。空がきれいだ。
ベンチに一時間ほど坐っていたが寒さで限界。
近くの昔建てられた豪華なお屋敷を偶然見学。楽しめた。

ロブスターを一人で食べようと注文したが、前菜を見て挫折。
お店の人に本当に失礼だったがキャンセル。チャウダースープのみ。
ロブスターロールを持ち帰った。
(ウオーター・プリンス・コーナー・ショップです。
初めての旅で一人で入った時はがんばって食べたのですが、この時は見ただけでお腹がいっぱいになってしまいました。
日本人にはかなり多い、大きいボリュームなので、やはり一人では無理でした。
本当にロブスター食べないの?と人なつっこい笑顔で驚かれました。
お店の人、ごめんなさい・・・)。

サンセットは、キャベンディッシュ・ビーチにはかなわない。


 ヘリテージ・ハーバー・ハウス泊
 3泊目。

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旅日記には書いていませんが、夕方5時頃ブロビンス・ハウス(州議事堂)の駐車場前で片づけをしていたおじさまに話しかけられました。PEIの人たちはほんとうにおじさまたちもみんな人なつっこい笑顔でおしゃべり好きです。(マシューのように無口な人はきっと珍しいですね。)
残念ながら半分もききとれませんでしたが、日本に行ったことがあって日本大好きと言って、
京都の金閣寺や岡山の神社などのキーホルダーの束をみせてくれました。
「赤毛のアン」を読んでわざわざこの島にやってくる日本人が不思議に思えるようでした。
私はPEI大好きで日本生まれ、おじさまは日本大好きでPEI生まれ、とりかえっこできたらいいね、というような話をして笑いあいました。

こうして読み返していると幸せ感がよみがえってきます。
初めて島を訪れた時、乗り継ぎがモントリオールだったと思いますが、
シャーロットタウン行きのゲートにやっと辿りついた時、「シャーロットタウン」
という響きで感じた幸せ感もまた同時によみがえってきます。

また旅をするためにも仕事をしたいですが今はまだ身動きをとることができません。
苦しい時が続いていますが、あらたな一歩のために今はふんばるしかないと自分に
言いきかせています。
またいつか春の島にも、秋の島にも行きたいです。


トップの写真は、コンフェデレーション・センターで撮りました。


こちらはシャーロットタウンの民家の庭先です。








「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(2)

2014年04月07日 15時25分55秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ  Iさん


 石巻に行くことになった。急な話である。学校側が復興支援のためのツアーを組んだということで、ゼミ合宿がそれに便乗したのだ。復興支援、ということだった。やはり、地震と切り離して被災地に行くことは出来ないのだなと素直に感じた。復興支援ということは、復興された街を支援する、ということだろうか? そうすると、地震のことにいちいち触れてお邪魔するというのは相手に失礼だろうか。そもそも、被災地と呼ぶことはぶしつけか?僕は大義の偽善者に見えるだろうか? または無力の傍観者だろうか? このツアーが決まってから、そんな疑問が頭にもやもやと漂っていた。この疑問は、地震以降ずっと僕の足にしがみついていた思いでもある。

 ちょうど2年半前から、そういう気遣いについてはものすごく難しくなった。哀悼の意を示したつもりが、被災地の産業を凍らせてしまったり、一方で被災地の名産をはじめとする物品を各地に運べば何かと細かいことで怒られる。善意から来る行動でも、必ず至らないところは出てくるものである。普段は小さなことであるから見えなかったのが、これほどの大事となれば見ない振りは出来ぬ、ということなのだろう。この気遣いの問題は本当に人々を動きづらく、または動けなくさせた。日本中を電車の双六で周るTVゲームは、あの地震以降新作が出ていない。大波を操る仮面ライダーは出番がなくなった。僕も、動けなくなった一人である。

 地震の時、僕はいわゆる帰宅困難者となった。足であった常磐線が一部崩落してしまい、一週間程千葉を点々としていたのである。茨城の実家に帰れた後、瓦のはがれた屋根を見たり、落ちてくるのが怖いから、と薄型に買い替えられたテレビを見るなどして、「離れた茨城ですら・・・・東北は。」と思わずにはいられなかった。東北の方が救われることを切に願った。しかし一方で、「自分も被災者ではある。」という思いと事実があった。しばらくは、身の周りを整えることで精一杯というところがあったのだ。じきに一人暮らしもはじまる。そういえば、下宿は大丈夫だろうか? 今月の頭に決めたばかりなのに。

 そんなことを考えては、目下の現状にただ向き合うだけで、人のために何かをすることは出来なかった。今は自分の生活を立てなければ。次は家族・・・。と動いてきたのだ。まだ動揺している妹の近くにいてやりたい、僕は大学生にようやくなった。祖母は安心できる終の住まいを新築したいと言う、手伝わねばなるまい・・・。そんなことをして、僕は僕なりに日々の問題を解決していたのである。やましいことはない。何も。しかし、それを理由にして、誰か人のためにということを避けていたことは、事実である。

 今は避ける理由はない。そして、行く機会がある。きっと、地震の後から続くもやもやとした考え、自分の善意、どこか申し訳ないようなこの気持ちにけじめがつくはずだ。
 そうだ石巻、行こう。


 仙台駅から2本のバスを乗り継いで行く。向かうは石巻である。1時間余りバスに揺られると、地方都市らしくそつなくまとまった仙台周辺から、いかにも郊外と言った感のあるショッピングモールに到着する。ここが本で読んだ、避難所ともなったイオンモールか、と思った。読み聞いたものを実際に見たときにいつも感じる小さな感銘を受けつつも、モール周りの風景は地元とよく似ていることのほうが印象的だった。買い物と休憩を済ませると、2本目のバスが出る。このときは評判のいい民宿の夕食のことや、予定されていた海水浴の事ばかり考えていた。このときまでは全く、「被災地と言ってもちょうど2年半、ここまで回復したのだ、のどかな風景ではないか。」と思ってしまっていた。だが、そうではなかった。この瞬間、これからの体験のない僕は単純な生視感を感じたのみであった。しかし、今は違う。日本中にあるこの風景が、次の瞬間、想像もつかぬような災厄に襲われてもおかしくはないのだと、そのことにより深く釘を刺していくような風景であったと今は思うのだ。このあとに見せつけられた災害の足跡が、僕をそう思わせるように変えたのである。」


(2014年3月20日慶応義塾大学文学部発行より許可をいただいて引用しています。)

→長いので何回かに分けて書きます。

桜の舞い散る日に思う

2014年04月05日 22時29分39秒 | 祈り



年明けの混乱から今も半端ではない緊張感の日々が続いています。
もうすぐなにか納得できるものをもって終わることができるかどうか、まだわかりません。

肩に力が入り過ぎていて疲れますが、今は仕方ありません。
異常な緊張感の中で普通に仕事をし続けたので本当に疲れていますが、もうしばらく我慢の時が続きます。

21年前の私も、今の私も一生懸命に生きています。
そんなにがんばらなくてもよかったのかもしれませんが、がんばってしまいました。

過去の情けない自分をさらけ出してしまうのは恥ずかしいものがありますが、ブログを自分で読み返しているうちに書きたくなってしまいました。
小さな編集プロダクションに何かの間違いで採用されてしまった頃でした。
よろしかったら一緒に読んでやってください。

「1995年4月1日(土)

春-おだやかな陽射しの中で過ごす休日の夕暮れ時、「四季」をききながらぼんやりしている。やることはあるのだが仕事でかなり集中力を使っているのでなんにもしたくない。
家事をすませたらあとはのんびりだ。
仕事はかなりきつい。いくつかの意味で・・・。
続けられるだろうか、と思ったりする。
一人一人の責任が重いだけに、緊張している。
今までずっと不本意な事務職に就いてきたことを思えば少しはわたしに向いていることに近づけたかもしれない。
やっていくしかないね。
休日にゆっくりエネルギーをためて
また月よう日からがんばろう。」


「1995年4月29日(土)

身体ってほんとに正直だなあって思う。
自分で自覚している以上に、精神的に疲れていたらしい。子供のみずぼうそうの大人の症状というのにかかってしまった。お腹のまわりに帯状にブツブツができてとても痛かった。治療をはじめて一週間。だいぶよくなった。
仕事でかなりエネルギーを使っているのだろう。
慣れないことで、集中して考えないと進んでいかなし、まだまだ大変な日々は続きそうだ。
いやなことをやってるわけじゃないし、今までのように、こんなことのために自分の時間を費やしてるのか、なんて思わなくてもいいんだから、力まないでがんばろうね。
Mちゃんのことを思わないではいられないこともやっぱり精神的負担になっているのだろう。
Mちゃんのことを思うと、両親のことに考えが及んで、そうすると、どうやって自分を納得させればいいのか、わけがわからなくなってしまうのだ。
どんどんマイナス方向に考えが向かってしまう。
ほんとにMちゃんの死という事実からぽんと抜け出して前へ進んでいくには、まだ多くの時間が必要なようだ。なにをしていても、ほんとは心から笑っていないのかもしれない。いつも心の片すみがさびしい。所詮はひとりだ。
だからこそ、人とのつながりも大切にしなきゃね。家庭をもつなんてことは、とてもこわくて望んでないけど、パートナーがいたらいいなあっていう思いはある。どっかにいるかなそういう人。」

今もあまり変わっていないと言えば変わっていないのかもしれません。
ぱっとしない私がいますが、妹とのお別れからまだ数カ月、必死に自分を建てなおそうと
もがいていました。普通の生活を送ろうと必死でした。結果はぱっとしませんでしたが、
よくやっていたと思います。


写真は、プリンス・エドワード島、インディアン・リバー教会の中です。





井村君江著『ケルト妖精学』より _ フェアリーランドへの道(2)

2014年04月04日 15時43分07秒 | 井村君江著『ケルト妖精学』
映画『ウオルト・ディズニーの約束』の中に、「ケルト」という言葉が出てきました。


『メリー・ポピンズ』の作者トラヴァース夫人についてインターネットで調べてみると、
3人姉妹の長女として、オーストラリアのクイーンズランド州に生まれ、父はロンドン生まれ、母はスコットランド系の血をひく、とあります。作家になってからイギリスに移住しています。


『赤毛のアン』の作者モンゴメリさんはスコットランド系。登場人物のアン、マシュー、マリラ、ダイアナもみんなスコットランド系、ケルト族です。
大好きな場面の一つ、第37章でアンは「小さなスコッチローズを挿し木したんです。マシューのお母さんが、遠い昔、スコットランドから持ってきた薔薇で、マシューは、いつだって、この花がいちばん好きでした」とアラン牧師夫人に語ります。(松本侑子著『赤毛のアンへの旅_秘められた愛と謎』NHK出版より引用しました。)


抜粋はわかりづらくなってしまいますが、書きたくなったので以下に記載してみます。


「フェアリーランド」という言葉の響きから一般に人々が思い描く映像は、この世とは空間的に遠く隔たった所にある幻のように美しく楽しい国、木々は実り花は咲き鳥は唄い、老いも悲しみも争いもなく、妖精の戯れ遊ぶ楽土というような童話のお伽の国の情景ではなかろうか。

長いこと悪魔と同一視され、邪悪な存在として恐ろしがられていた妖精たち超自然界の生きものに、文学の上で美しい容姿と親しみやすい性質を与え、土俗の暗い闇の中から明るい民衆の舞台と平土間(ひらどま)の中に連れ出して、今日見るような映像に定着させたのは、イギリスにおいてはシェイクスピアであった。


 しかし妖精の棲み家であり、この世とは別の地上楽園という人々の願望空間とが重なったイギリスのフェアリーランドは、一口に空想裡に創りあげられた、縹渺(ひょうびょう)とした単なる幻想といった言葉では片付けられるものではない。ましてユートピアとして、どこか曖昧な空間に想定された、現世とは倒置関係にある理想郷といったものでもない。その淵源を遡ってみていくと、ケルト民族特有の他郷思想に突き当たる。」


 (井村君江著『ケルト妖精学』1996年発行 講談社学術文庫 17頁より引用しました。)



「ケルトの人々の考えでは、人間・自然・生物等、森羅万象に生命と活動を与える遍在的な霊の存在があると信じ、その霊が不滅であり永遠に活動を続けるとしたのである。従って霊魂不滅といっても個人の霊魂は意味せず、エヴァンズ・ウェンツの言うように、個別を超越した大霊の不滅を信じているのである。さらに彼の仮説によれば、各個人の無意識の世界というものと対蹠的なところに想定された究極の単位の状態にある霊魂の集合体の存在があるはずだとし、これをケルトの人々の考える万物再生の思想の源であるとしている。

 自然や人間を共通に貫いて、眼に見えぬ大霊が存在するとすれば、人間の生活のすべては不可視の力によって支配されていることになろう。そしてこの大霊は、永劫に巡り動き生命を転生させていくのである。従って現世は単なる唯物的世界ではなく、永劫無窮の霊の顕現する世界となり、ギリシャの地理・歴史学者ストラボが「古代のケルト人は現世を永遠なるものと信じた」と言っている言葉は頷けよう。こうした考えによれば、「この世は暫時の滅ぶべき世界」で「異界は永遠の不死の国」とする区別は必要なく、いずれも大霊の顕現した一つ一つの相に他ならず、そこには可視か不可視かの区別があるだけとなる。いみじくもウェンツは「アイルランドには二つの種族があるーひとつはわれわれがケルト族と呼ぶ<目に見える種族>と、もう一つは妖精と呼ぶ<目に見えない種族>である」と言い、今日でもこの二つの種族は互いに往き来していると言っている。この目に見えない種族は、古代のトゥアハ・デ・ダナーンであり、数々の祖霊であり、土の神や豊作の神であり、プーカやパンジー、レプラホーンやクルラホーンなどさまざまな姿のフェアリーたちであり、それらが現在生きている人々の生活や行動に、深い関わりを持っているのである。こうした考えから言えば、神話の神々、伝説の英雄たち、民間伝承の妖精たち、すぐれた祖先の霊たちの憩いの国である異界、常若の国(テイル・ナ・ノグ)は、この現世と同次元に、この世と隣接し直結して存在していても、なんら不思議はないのである。

 こうしたケルトの異界をその根源から辿ってみると、常若の国(テイル・ナ・ノグ)や妖精の丘(フェアリー・ヒル)の考え方、ひいてはそこからさまざまに現われてきている異界観、フェアリーランドの考え方は、単に絵空事の空想の産物といったものではなく、民族の血の中に太古から流れている生命観、死生観、自然観に根ざしたものであり、そこからケルト特有の想像力によって創りあげられた楽園であることがわかってこよう。」


(井村君江著『ケルト妖精学』1996年発行 講談社学術文庫 42-43頁より引用しました。)



写真は、グリーン・ゲイブルズのマシューの部屋です。