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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(4)

2021年11月23日 19時07分59秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a01ef07186d24541754d4af97a88a3f6 


「「家」というものの輪郭が、老婆の広い背中から見え出してきたのは、17歳頃であったと思う。それは縁談と共にやってきたのである。

 もちろん、冬ならば雨戸の隙間から一晩でうっすらと、雪が降り積もる大きな茅葺きの家に生まれ、住みくらしてはいた。ところがある日、顔見知りの老婆が持ってきた縁談は、直感して避けねばならぬと思わせる「家」を背負って来たのである。

 母と老婆の対話に、相手の人物はおぼろにも見えてこなかった。円や屋敷や家があってと、老婆は店頭に物を並べるごとく並べ始め、母はわが家の貧乏をかえりみては、ひたすら聞くばかりだったのである。もちろん、人物の判断は、村の隅々の神様の居場所まで心得えている老婆とて、水田の数や、屋敷の広さほどには、分かりかねる点もあるので、犯人捜しの人相ほどにも並べたてず、「いい兄さんでなッス」と、くり返し、唱えるばかりだったのである。

     (略)

 台所の梁には、煤が漆のようにはりついて、磨きぬかれた板の間にボタリと落ちる。雨の降り続く日の夕ぐれは、ことの外ひどく、まるで女たちの怨恨の塊のように、ボタリと落ちる。

 囲炉裏の煙にむせながら、代々女たちは、そこだけにうずくまり、生き、死んでいったのではなかったか。厳寒の2月、生まれてくる子ども(弟)のために、うすい人絹まがいの着物一枚しか縫えぬ母の代まで、それが続いていた。冬になれば、ぜいぜいと喉を鳴らす叔母とて、家を出て家に呑まれ、先妻の長男の嫁が、食べたい物も食べさせてくれないと、訴えたのである。

 しかも姉(1923[大正12]年生まれ)は、鉄道自殺した。

     (略)

『あの人は帰ってこなかった』(菊池敬一・大牟羅良編、岩波新書、1964年)の未亡人と同じ世代のわ
たしの姉は、新婚まもなくして出征した若い夫の写真を肌身はなさず持っていました。姑の眼を背後に真冬の夜も俵を編み続け、やがて「痔瘻(じろう)で尻に穴があいてるそうだ」と、ささやかれ、6月の真夜中、病院から抜け出し、足ひきずり歩き、自らの命を断ったのです。

 数え年23歳。その2ヵ月後に敗戦がやってきました。

 ザラ紙に走り書きした遺書には、育ててくれた父や母に申し訳ないと書き、小さい弟たちの面倒をみるようにと、わたしへの言葉を書き、そして末尾に「非常時に死んでゆくのは申し訳ない。戦地にいる兄さんに申し訳ない」とも書かれてありました。

「ヤスオさえ帰ってくるごどわがっていれば姉死ぬはずながったのよ……」という、おふくろの呪文だけが、今も墓石を濡らしています。戦争に見送った者の帰還を願うなど、裸身をさらした死刑の女にひとしいと思う姉は、だが、その望みが断たれた時に死を決意したのです。

 夫を戦争で死なせた和賀町の、あの未亡人たちとは、まったく逆の位置にいるのに、姉も戦争の犠牲者なのだと、姉と同じ23歳になった時、わたしは思いました。

 村の演芸会の花形スターである姉にさえも”非常時”と言わせた国―国家とは何か……。しかも、その犠牲者でありながら「申し訳ない」と一言って死んだ、姉の姉(たちの)二重の悲劇。

      (略)

いやいや、いまより一世代前、わたしはの青年団のなかにいました。本など読んでいればホメられず、麦の上寄せも田植えもうまくならなければと、思っていました。

 女子青年のリーダーたるもの農村に嫁ぎ、古きをなおし、新しく生きてゆかねばならぬのだと、彼らは言うのです。わたしは一軒の「家」の板の間を毎日掃き清め、コマーシャルソングのように、明るくしようとも、彼らのスローガンであり、口にするところの「農村の解放」は、なされないのだと思っていました。

 男の横に、出来るならやさしい気持ちで並んでみたいのに、並んで熱い手を交わしたいと、願つてい
るのに「家」の中で、男と女がならべば「家」はバランと崩壊することは、明らかなのです。「なつかしい男たちに」(男の総体に)、わたしはいまだ、それをまっすぐに告げることが出来ずにいるのです
。――

 かつて共に、村のなかで青年団活動をやった彼らの叱責から、いまだわたしは解かれることがない。家に呑まれて摩減するだろう怖れのために、わたしはたじろぎ、彼らは引きずり込もうとした。家にこだわればこだわるほど家「族制度?磯野誠一が書いていたからナ」と言い、いまさら書くべきことでもなく、家などにこだわるよりは(わたしがいまだ肝腎のことを自覚していないことを指摘し)、『毛沢東選集』や「魯迅」を読んだ方がいいのだと諭すのであった。

  ――「家族制度」は誰かが書いているから新しい問題ではない?それじゃ解明された地点から生きてみることはどうなるのか。

 彼らは招いてくれるたびに、あの老婆と同じ「家」を背負って現われるのであった。 

                                       (1973年) 」 
                                                          

(2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、103-107頁より) 

「わたしは前回の「村・身の置き場のない娘たち」のなかで、つぶれそうな家のためなら仕方なのではないかと、娘を売った意識の傷跡から、いまだわたしたちはいかほどにも自由にはなっていないのではないか。「娘」の「性」が売られても仕方がないとする思考こそ、わたしたちが、背負った「不幸の根源」であり、生身の人間が金銭に変えられたその時点で「村が胚胎」したもの、それが現代の「出稼ぎ」として現出したのではなかったか、と書き止めている。

「娘」の「性」が売られても仕方がないとする「不幸の根源」とは、一方の性を売っても生きのびられるという差別に由来するものであろう。そして「性」を売るとは、生身の人間が金銭に変えられることである。生身の人間が金銭に変えられるとは、女の体内(自然)のリズムの破壊は、農業(自然)のリズムをも金銭に換算する思考の根と、イコールであった。

 壊れてゆく時間とは、じつに「娘を売った不幸の根源」へと、さかのぼる。そして、娘を売った不幸の根源とは、「出稼ぎ」」を胚胎していたばかりではなく、農業そのものの破壊をも意味していたのである。

                                       (1976年)」

  (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、128-129頁より) 


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