たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

これからどうなっていくのだろう

2015年12月06日 00時02分16秒 | 祈り
自死はやはり特別なお別れなんだろうか、そんなことをふと思った一日でした。
分かち合いの会にいけば、事件・事故の遺族は責める対象が自分の外にあるけれど、自死遺族は責める対象が自分になるので、自死遺族は事件・事故の遺族とは違うという方もいらっしゃいます。
自死遺族といっても、過労自死で労災認定を求めたり、会社を相手取って裁判を起こしたりする方は責める対象が会社・労基署とはっきりしているけれど、なぜ逝ってしまったのかわからないと責める対象がないという方もいらっしゃいます。
人は悲しいものです。どうしても比べっこをしてしまいます。大変な思いをしている人ほど、人の話をきくと自分の方がもっと大変だと言いたくなったりします。
たぶん私の中にもそんな顔をした私もいます。
自死遺族でなくても当事者同士が本当に分かち合うことってむずかしいです。
人は悲しいものです。

これからどう生きていけばいいのかわからず、何の補償もないまま貯金が減っていく日々が続いています。枯渇する前に家に帰らなければなりませんが、荷物が多いのでなかなか決断できません。
生活があるので自分からはとうとうやめるって言えなかったばっかりに10年以上働いた会社から使い捨てにされ、社会には利用できるセーフティネットもなく、争いとなった苦しさを抱えたまま社会から孤立し続けています。こんなのもたないですが、行政はどうしようもないことがいやというほどわかったのであてにできません。結局また振り回された感が私の中に残ってしまいました。最終的には自分で選んできた道なんだから全て自己責任でしょ、って言われてしまえばそれまでのことばっかりですが・・・。

今日そこまで確認しないまま申し込んだので、使い捨てにされた会社のビルの地下の飲食街に足を踏み入れてしまいました。昨年の3月なんか悪いことしたひとみたいにひっそりと立ち去って以来でした。
築年数が古いので立て替えると風の便りにつたわってきており、飲食街もほとんど閉店していてさびれていました。一軒だけまだやっているお店で、しかもなんども仕事が終わってから飲み会に誘われて訪れた場所でした。仲間だったはずなのに最後だけ都合よく仕組みがにょきにょきって顔を出して使い捨てにされたので嫌な気持ちになってしまいました。なんだか社会の仕組みが残酷すぎるし、悲しい終わり方です。全てが嫌なものに塗り替わってしまいました。働いてきた自分だけが一方的に不利益を被っていることに今だ納得できていません。私の10年を返してほしい。残念ですが、これが日本株式会社の現実です。

誤解を承知でストレスでどうにかなりそうになりながらふんばってしまった苦しみの日々をまた振り返ってみようと思います。

「2012年6月24日(日)

昨日最寄駅で人身事故。それでもこうして何事もなかったかのように時は過ぎていく。人が一人いなくなっても何も変わらない日常。インターネットで検索したところでは、女性が下りの特急に飛び込んでしまったらしい。停車しないからすごいスピードでてたよね。運転士は、乗客は、ホームにいた人は・・・。考えるだけでぞっとする。私は幸いなことに、救急車、消防車、パトカーをみただけだ。搬送されるのもみていない。自分が毎日利用している駅できついよな。駅ビルの中で爪の手入れをして少しすっきりして、ほっとしたあとだったのにいやな気持ちが続いている。あんまりきついことに私は耐えられないなあ。きついことを仕事としてやっている人はたくさんいる。普段仏さんと対面することのない人達がたくさん震災のあと対面してPTSDになっている。どれほど地獄のような有り様だったのか、私たちは目をそむけてはならない。きつい話だが、むごい話だが人がモノ化する。いつ、いかなる時にそれは起こるかわからない。私もその一人だ。やめよう。今はきつい。母が亡くなったばかりで受けとめられない。私に何ができるのか、何をすべきなのか。人が人のためにできることなんてたいしたことない。これから何をすべきなのかわからない。ただ明白なのは妹の死という事実と折り合いをつけながら生きていかなければならない。親がいなくなってなんとも足元がおぼつかない。ほんとに一人なんだと思う。夜半、すごく不安におそわれてこわくてたまらない。落ち着かなくって眠れない。PEIの写真をみてなんとか平常心を取り戻せる。いつも身構えていてすごく疲れる。本を読みたくて予定のない休みはすごく嬉しい。寺田寅彦の天災に関する記述を集めた本を偶然本屋で見つけて読み始めた。生きた言葉は80年たった今もエネルギーを放つ。エネルギーにあふれた言葉をたくさん読みたい。今そういう言葉に渇えている。何かひとつ、ストンと自分の中に落ちないと、ただ楽しむなんてもうできない。それがいつくるのかはわからない。とにかく今本を読みたい。本物に触れたいのだ。上っ面だけはもういい。私の感性ではこれ以上無理だと思う。

『Anne of Green Gables』はエネルギーに満ちあふれている。モンゴメリさんは楽しんで書いた。
ゆっくり長くつきあっていこう。時間はたぶんまだある。」

父との突然のお別れ、震災、母との突然のお別れ。不安にとりつかれた私がいました。
会社でこのまま勤められないのかと真剣にきいてみたこともありましたがすごく頼りないやり取りしかできませんでした。争いになったら法的にはなんの力も持ちませんでした。むごい話です。

今職業欄「無職」の私は社会の中で存在している意味すらないのか。
職業=仕事=社会の居場所、
だとすれば、今社会のどこからも必要とされていない私の居場所はほんとにない。
ただの結婚できないまま歳くったオバサンで、オバサンになったため使い捨てにされたそれだけの私。

なんて自分を陥れていくのはやめましょう。また今夜も落ち着かず夜更かしになっています。
体に悪いのでいい加減おしまいにします。おやすみなさい。

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