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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「「おなご」という視座-囲炉裏について」(1)

2021年11月29日 17時00分50秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「「おなご」という視座-囲炉裏について」(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/018653c956255e69ef898b4a6f0b3a1f





「重助老人が、「おらどこの、おばあさんだ、風邪ひけば、カサかぶって、横座さ、あだったもんだ。女(おなご)だって・・・」と、(おなご)だって・・・。」を一言、はさむのを忘れないように、「横座」は、おなごの座る場所ではなかった。その家のおばあさんぐらいになって座れたということかもしれない。

 (略)

「横座」のまむかいには「木尻り」があった。そこが嫁ごの場所であったが、「木尻り」はどっかりと座る場所ではなかった。立膝か中腰にかがみ込み、蒔がよくもえるように、煮物が上手に煮えるようにと、気をくばりながらいる場所であった。もちろん、「木尻り」は、木をもやす場所であったから、「横座」よりは煙もあまりこず、火も近くにあるという利点があった。

 囲炉裏(ひびと)に集う一家団らんは「木尻り」で火を燃やし続ける嫁ごによって、支えられていたといえよう。日本の農業が、おなごだぢの過重な労働によって、支えられていたと同様に。

  嫁ごの予備軍として、たえず他の娘と比較されて育ったわたしには、囲炉裏に対してのしあわせな原風景がない。囲炉裏の象徴でもある祖母がすでになく、祖母に抱かれた記憶がないせいかとも思う。田畑が暮れても、父も母も帰らなかった。腹をすかしている弟たちをなだめながらするマッチの軸木は、半分泣きたい少女のわたしの涙でしめっていた。まして、秋の農作業がおくれ、薪とりもまに合わず、木小屋にあるべき薪はいくばくもなかった。この冬が越せるかと、嘆く母を見て育った。

 囲炉裏はつらい。「姉」は「木尻り」を守り、「木尻り」にしめあげられて自死した。嫁ごのつらい忍従によって支えられた囲炉裏の団らんは、その無理によって、ほろびるものであったのかもしれない。

 囲炉裏の構図もいまや抽象でしかない。が、「家」の座敷には床の間があった。どのような会合の時にも、「床の間」を背にすることは、一種はれがましい、気の重いことでもあるから、「じャ、じャ」とためらいの所作をくり返しながら、座ることになる。

 のふる舞いの席上で、「席順」はトラブルの原因になった。後の家の父(と)っちゃんが、酔いがまわるにつれて、髭づらをいっそう怒らせて、並ぶお膳をつぎぐちと引っくり返したという話は、子らの恐怖をかきたてた。たとえ、結婚式が、市民会館や公民館になろうとも、係が神経を使うのは、「席順」であるという。「席順」は、くらしのあちことに見え隠れして、生きているといえよう。


 くらい台所には、せめて一枚のガラス窓をという願いがあって、農家は台所改善をした。囲炉裏は消えて、ガス釜、電気釜が煮炊きの主役になった。労力によってかき集めた蒔は「金銭」と引き替えに手渡される。ガスの火をどうぞ。電気もどうぞ・・・と。

 (略)

 農婦は、女手一つで、子どもを育てた。学校にも進学させ、長男は鉄道員になり、農業は継がなかった。継がなかったばかりか別の土地に一家を構えた。それだけの財力があるか否かは別にしても、いまは前借りで、マイホームをという時代である。農婦は亡くなり、農婦の建てた家には誰も住まず、田畑は放置されたままである。たまたま農婦の長男は、鉄道員であったが、たとえ、田畑を放置して、洗濯機や電気釜を作っていても、くらしはなりたつという仕組みであった。

 それで、わたしは宙吊りのままだ。火と水が買えて、他人の家の二階に棲みつくことができたその様も、また宙吊りなのだ。

 (略)

 宙吊りもまたつらい。もがいてもすがるものがない。母はどの重労働もしないから、腰はピンとしているが、「耐える」ことにかけては相当なものだと思う。宙吊りであれば、ノドも手足もしびれてくるから、いい加減、元の場所に帰ろうかと思う。それは誰だって・・・。宙吊りのままで、ガスコンロの便利さなどにあやつられていれば、忍耐の姿勢もなにやらコッケイなので、これが一番身に沁みる。

 どっかりとぬぐめでくれる囲炉裏がこいしい。囲炉裏をとりまく一家団らん。それに「村」だ「共同体」の見直しだとくればなののこと。40歳そこそこのこの国の厚生大臣までが、「三世代同居、推進めざす」(『朝日新聞』1979年8月18日)と談話の発表に至る。「高齢化社会を迎え、公共施設で老人を抱えるよりも家族内で世話できるようにするのが家庭像としても財政面からも望ましいと考えるからだ」と、そこはそれ、いずこも同様、ソン・トクを考えての発言ではあるが、「望ましい家族像」とは、ホロリとさせる。日ごろ年寄りとくらしたがらぬ若者に対する、うらみつらみを胸底にためている、わが先輩の同僚なども、それみたことかと言うだろう。

 が、囲炉裏には「横座」があり、そのまむかいに「木尻り」があった。わたしはそこに帰らない。

                                         (1982年)」
  (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、163-166頁より) 

 1979年8月時の40歳そこそこの厚生大臣は誰だったかとググってみると橋本龍太郎氏(1937年生まれ)でした。1997年の橋本内閣で消費税増税と地方消費税の導入を実施。ウィキペディアには、こう書かれています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E5%A4%AA%E9%83%8E#%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E%E5%A2%97%E7%A8%8E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BE%8C

「産経新聞の田村秀男編集委員は、記事「カンノミクスの勘違い」の中で橋本が消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から、日本は長期デフレーション(平成不況・失われた20年)に突入したと評している。田村編集委員は、消費増税を実施した1997年度(平成9年度)においては、消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999年度(平成11年度)には、1997年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。さらに、「橋本元首相は財務省官僚の言いなりになった事を、亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている。

1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度には名目GDPは、前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻な就職氷河期、デフレーション経済が蔓延する結果になった。」

 コロナ禍であらわになったさらに希望のなくなった日本の姿よ。厚生労働大臣をつとめたことのある塩崎やすひさ氏がツィッターにこうつぶやかれています。派遣法改正を審議する厚生労働委員会での姿をみたことがあるのでまっとうなことをおっしゃっていると・・・。(ごめんなさい)

https://twitter.com/yasu_shio/status/1465167626569609218

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