たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』より-「アーサー王伝説」(3)

2023年07月13日 15時30分05秒 | 『赤毛のアン』

『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』より-「アーサー王伝説」(2)

しかし、『シャロットの姫』を最初からよく読んでみると、この表現は、くりかえし出ていた。第一部の5行め、同じく第一部の32行め、第四部の149行めにもある。よって、正確に書くと、『シャロットの姫』に「塔がそびえる都キャメロット」という表現は、5回ある。

キャメロットといえば、「塔がそびえる」という、塔の林立する華やかな都を思わせる形容詞が決まりのようについていて、アンはそれを使ったのだ。

では、『シャロットの姫』とは何であろうか。これも文学辞典に出ていた。テニスン初期の作品で、1832年に発表された(1842年に改編)。シャロットの姫もまた、アーサー王の騎士ランスロットに恋いこがれ、舟で流れていく娘だ。それが後に書かれた『国王牧歌』のエレーンに発展していく。逆に言うと、エレーンの原型となった女性である。

面白いことに、カナダで撮影され1989年に製作されたミーガン・フォローズ主演の映画『赤毛のアン』では、原作本にある『ランスロットとエレーン』は登場しない。その代わりに、『シャロットの姫』をアンが朗読する場面が、二か所、出てくる。

まず映画の冒頭で、幼いアンは、テニスンの『シャロットの姫』を朗読している。森の中を歩きながら、半ば陶酔しつつ音読するシーンが、2-3分も続く。映画の字幕をご覧いただこう。

 

乙女は昼も夜も機を織る

色あざやかな魔法の布を

人々はこう囁く

キャメロットの呪いが彼女にと

呪いを知らぬ乙女は機を織り続ける

心に別の思いを抱き

シャーロットの乙女よ

 

(字幕/細川直子訳、映画『赤毛のアン』)

 

ここまで朗読したとき、アンは養家のハモンドの奥さんに呼びつけられ、仕事が遅れた罰として、テニスンの詩集を火にくべられてしまう。アンが読んでいた一節を『シャロットの姫』で探すと、本当に第二部にあった。こういう探し物は、本当にワクワクドキドキする。

もう一か所は、この第二十八章を映像化したシーンだ。

エレーンに扮して小舟で流れていく場面で、アンは「ザ・レディ・オブ・シャロット」とつぶやく。映画の製作者は、テニスンの詩と『アン』の重ね合わせの面白さを、よくわかっているのだ。そういえば私は、アンを演じたミーガン・フォローズが、エレーン姫になって乗った小舟の現物を見たことがある。カナダはオンタリオ州の避暑地バラにあるバラ博物館で、撮影に使われたボートが庭においてあったのだ。日本では、松竹がビデオ販売しているので、ご覧いただきたい。モンゴメリの意図した引用がよりわかりやすいだろう。

 

(略)

 

『アン』を訳していて、アーサー王が出てきたのは思いがけないことだったが、しかし1989年の春に、一人のブルトン人の女性に出会ったときから、私がアーサー王に関わりを持つように、見えない道は開かれていたのかもしれない。

パリで、ドミニク・パルメさんという女性のお世話になった。彼女は日本の純文学の小説をフランス語に訳す翻訳家だが、私のテレビ取材の通訳をしてもらったのだ。口数の少ない人だったが、それでも仕事の合間に、いくらか雑談をした。彼女が日本の大学に留学していた話、彼女の故郷ブルターニュのこと・・・。

そのとき、彼女は言ったのだ。ブルターニュはフランスでも特別な土地だ。ブリタニアであり、ブルトン人の土地、ヨーロッパの原型だと。

(略)

パルメさんとは、それきり会うこともなく二年がすぎ、私はまた渡仏した。JALの機内誌に紀行文を書くためにシャンパーニュ地方へむかったのだ。しかしどう考えても不可解な事情で、シャンパーニュへ行くことはできなくなり、フランス国内の他の土地へむかうことになった。

さて、どこへ行こうか。ノルマンディーもロワールもニースも、魅力的だが、紀行文を書く身からすれば、ありきたりだ。美食の土地ブルゴーニュにも心が動いたが、グルメブームの頃、盛んに紹介された場所だ。もっと個性的な土地を訪ねたい。そう思案していたとき、ふと、パルメさんの言葉が浮かんだ。

ブルゴーニュはフランスで特別な土地だ・・・。そう言った後、何か言いかけて口をつぐんだ彼女の顔も思い出した。

そうだ、ブルトン人の土地、ブルターニュへ行こう、彼女が言わなかった何かを、知りたい。まるで最初からシャンパーニュではなくブルターニュにむかうように仕組まれていたようなめぐり合わせだった・なぜなら、パリでは、ブルターニュ行きの列車が出るモンパルナス駅近くのホテルに泊まっていて、私はブルターニュの名物料理を食べていたのである。

ブルターニュに着いてみると、どう見てもフランス語とは異なる文字、つまりケルト語系の標識が目についた。歩いている人々も、ケルト系というかブルトン系独特の顔立ちだった。パルメさんの風貌は、まさにブルトンの血を引いたブルターニュ人のものだったと思い当たった。

ブルターニュから一度も出たことがないというタクシー運転手の案内で、さまざまな街や村、遺跡を、数日かけて旅した。年老いた彼もまた、ブルトンの顔をしていた。

古代ケルトの遺跡、妖精と霧の土地、濃い色の海、キリスト磔刑(たっけい)の像、イル・ド・フランスの教会とは明らかに異なる土俗的な教会、そしてアーサー王伝説にちなむ土地の伝承・・・。どこへ行っても、日本人の観光客には一人も出会わなかった。

先史時代の巨石遺跡も訪ねた。紀元前500年とも、紀元前5000年とも言われる太古に作られた巨大な石墓(ドルメン)や縦列石柱を訪ねた時、不思議な経験をした。

道路から外れた山の中に、普通の人が知らないような巨大な石塔遺跡があるという。それを探しに、山に入った。もちろん道はない。黄色い花をつけたハリエニシダ。その他には、何も見えない。どこまで歩いても、頭上まで伸びているハリエニシダの茂みの中だ。香水の原料になるこの花からは、むせかえるような強烈に甘い匂いが漂って、息がつまりそうになる。聞こえるのは、やむことなく囀(さえず)りつづける鳥の声だけ。見えるのは、頭上まで伸びるハリエニシダと青空だけ。かき分けて歩くうちに、次第に、方向感覚が失われてきた。なんだか、意識まで遠くなりそうだ。どこまで歩いても、黄色い花をつけた茂みの中。巨石らしきものも見えない。けれど、吸い込まれるように足がどんどん進んで行く。下り道だったのか、足が前に進んで止まらない。危ない、これは帰れなくなる。そう直感して、後戻りした。帰りもまた、どこまでもハリエニシダの花の高い茂みの中。顔にぶつかる花をかきわけて歩く。夢を見ているようだった。妖精の国、伝説の国という言葉が、浮かんだ。

アーサー王を育てた妖精メルラン(英語ではマーリン)が住んでいた湖は、ブルターニュにあったと言われている。魔術を使う妖精は本当にいたかもしれないと、少し恐ろしくなったのは、無事に山を出た後だ。

ワーグナーが、オペラ『トリスタンとイゾルデ』に仕立てた悲劇のトリスタンも、もともとはブルターニュの伝説の英雄である。彼は、いつのまにかイギリスのアーサー王伝説に組み込まれ、王の19番目の騎士となったの。

ブルターニュといえば、ヨーロッパの最果て、古代ケルト、荒れた海、霧と沼、伝説と妖精、中世の城壁の街という言葉で飾られる。陳腐な形容だと思っていたが、行ってみると、本当に病みつきになる不思議な魅力があった。

ブルターニュを離れるとき、何日も行動を共にした運転手に、私は別れの挨拶をした。

「もう二度とブルターニュには来ないだろうけれど、すばらしい所だった」

するとブルトン人の彼は、私の手を強く握りながら、言ったのだ

「そんなことを言うな。おまえは、きっとまたブルトン人の土地に戻って来る」

その予言は、本当になった。私は、アーサー王とエレーンにゆかりの土地に、何度も行くことになったのだ。

数年たった94年、私は、悲劇のスコットランド女王メアリ・スチュアートが住んでいた城を、エジンバラにたずねた。ホリールード宮殿だ。『アン』には、メアリ女王の生涯を描いた詩を朗読する記述があり、興味があったのだ。すると宮殿の裏山が、なんと「アーサー王の玉座」という名前だった。アーサー王は、ブリテン島の南部にいたとされるので、北のエジンバラまでは行っていないはずだが、ケルト系のスコットランド人は、アーサー王にゆかりがある土地だと信じて、王の名を冠しているのだ。

さらに数年後には、アーサー王の円卓があるイギリスの古都ウィンチェスターへ、一人で行った。円卓といっても、アーサー王が生きていた5世紀のものではなく、13世紀に作られたものだ。

ウィンチェスターは不思議な街だった。15世紀に『アーサー王の死』を書いたマロリーは、王の城があった都キャメロットは、ウィンチェスターだと書いている。

またこの街には、1382年創設、英国最古のパブリック・スクールといわれるウィンチェスター大学があるが、その蔵書に、アーサー王伝説の手書きの写本が発見されたのだ。それには、マロリーの原本と思われてきた印刷物『アーサー王の死』とは異なる文章があり、この写本のほうが、原本により近いらしいのだ。都キャメロットはどこにあったのか、邪馬台国論争と同じで、ほかにも候補地はある。いずれ、すべてたずねたいと思っているが、写本の発見には感動した。

なぜなら、アーサー王が実在したにしろ、しなかったにしろ、彼は大昔の人物だ。日本では、古墳時代に相当する。そんな太古の王の物語を、1500年間もの間、ヨーロッパの人々が語り継いできたことに感銘するからだ。印刷のない時代、人々は長い物語を手で書き写して写本にした。そして王は1500年もの間、人の心の中で生き続けてきたのだ。私は王の話そのものよりもむしろ、伝承が続いてきた歴史に感動するのだ。

その旅では、『不思議の国のアリス』を調べるために、オックスフォードへも足をのばした。『アン』には『アリス』も登場するからだ。作者のルイス・キャロルが少女アリスと出会い、金色の時間をすごしたオックスフォードへ、その翌日は、キャロルが亡くなったイギリス南部のギルフォードという小さな町へ行った。

エレーン姫が住んでいたアストラットの百合の乙女は、ギルフォードとする説が有力だった。

そこでギルフォードでは、キャロル関係の小さな博物館へ行ったとき、学芸員の人たちにアーサー王伝説のエレーン姫について質問した。エレーンが都まで流れていくような川が、この町にあるでしょうかと。

するとギルフォードには、ウェイ川という川があり、都ロンドンまで流れているというのだ。エレーンが流れた川である可能性があると教えてもらい、私はタクシーでウェイ川まで行ってみた。

川につくと、私は水辺に生えていた柳の葉をちぎって川にうかべた。それは、きらきらと木漏れ日に光る水面を漂うように、ゆっくりと流れていった。私は川辺にたたずみ、ゆるやかな葉の流れに、美しい姫が、実らなかった恋の悲しみを抱いて漂っていく姿を重ね合わせてみた。まさにアンのように、ロマンチックな想像にひたったのである。」

 

(松本侑子著『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』97~106頁より)

 

 

 

 


NATO同盟サミットの最終共同声明から東京事務所設立に関する文言が削除される

2023年07月13日 01時28分53秒 | 気になるニュースあれこれ

2023年7月11日日経アジア

NATO removes Tokyo office mention from joint communique - Nikkei Asia

VILNIUS, Lithuania -- The establishment of a NATO office in Tokyo has been left uncertain after language regarding the proposal was removed from a final joint communique of the alliance summit.

A sentence noting that NATO would continue discussions with the Japanese government toward opening a liaison office in Tokyo had survived several rounds of discussions, but was deleted in the last round of talks, a source told Nikkei Asia. 

The annual meeting kicked off with the leaders of Japan, South Korea, Australia and New Zealand attending in person for the second year in a row. Though there is consensus on the need to deepen engagement with Indo-Pacific partners given concerns such as cybersecurity that transcend geography, allies remain divided over the expansion of NATO's footprint into the region.

NATO Secretary-General Jens Stoltenberg had raised the possibility of establishing such an office when he visited Japan at the beginning of the year. Japan too has upgraded its representation to NATO by creating a new ambassador post, which had previously been assumed by its envoy to Belgium.

France had openly opposed the plan on the basis that it would send the wrong message to China and to Southeast Asian countries that are nervous about choosing sides in the broader Washington-Beijing rivalry.

Southeast Asia would "broadly see NATO's Indo-Pacific institutionalization in Tokyo as a challenge to ASEAN centrality," said Thitinan Pongsudhirak, a professor of political science at Chulalongkorn University in Bangkok. Some say the bloc of 10 nations has been losing relevance as new U.S.-led "minilateral" groupings such as the Quad and AUKUS take center stage in the Indo-Pacific region.

Stoltenberg, whose term as NATO chief was recently extended, has spearheaded the move to reach out to the region. He greeted South Korean President Yoon Suk Yeol at the summit on Tuesday with these words: "We value the partnership with you because security is not regional, security is global. What happens in the Indo-Pacific matters for Europe, and what happens in Europe matters for the Indo-Pacific."

Yoon echoed the sentiment, saying that this was his second consecutive year at a NATO summit, following Madrid's last year.

"Last year, I really focused on the sense of unity and solidarity with countries sharing common values. In this year's summit, I am going to focus on institutionalizing the framework of our cooperation with NATO," Yoon said.

Yoon said he wanted to press on with discussions on sharing military information and on cybersecurity.

At the NATO Public Forum held on the sidelines of the summit, Czech President Petr Pavel emphasized the need to team up with like-minded Indo-Pacific partners in the face of the battle unfolding between democracies and autocracies today.

Unlike the ideological confrontation during the Cold War, the world is now witnessing a global competition between systems, with democracies on one side and autocracies like China, North Korea, Iran or Russia on the other, the former army general said.

"All these countries follow a different set of values. Their argument is that the West, the democracies, have developed the existing world order to fit their interest and now the time has come to change the world order to fit more to this multipolar vision of the world," he said.

He pointed out that Russia considers itself a true protector of Christian values and that China believes its own system of governance to be superior and more efficient and resilient. The only way the world can prevent the dominance of Russia or China is to "protect and promote our values," he said.

 
(Googleによる自動翻訳)
「ビリニュス、リトアニア -- 東京での NATO 事務所の設立は、同盟首脳会議の最終共同コミュニケからこの提案に関する文言が削除された後、不透明なままとなっている。
 
NATOが東京に連絡事務所を開設することに向けて日本政府と協議を続けると記した一文は、数回の協議を経て残っていたが、最後の協議で削除されたと関係者は日経アジアに語った。
 
年次会合は、日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの首脳が2年連続で直接出席して開幕した。 地理を超えたサイバーセキュリティなどの懸念を考慮すると、インド太平洋パートナーとの関与を深める必要性については意見が一致しているものの、同地域へのNATOの拠点拡大をめぐって同盟国は依然として意見が分かれている。
 
NATO事務総長イェンス・ストルテンベルグは、年初に日本を訪問した際、そのような事務局を設立する可能性を提起していた。 日本もまた、以前は駐ベルギー特使が務めていた新しい大使ポストを創設することにより、NATOへの代表を格上げした。 フランスは、中国と、より広範なワシントンと北京の対立においてどちらの側を選ぶかに神経質になっている東南アジア諸国に誤ったメッセージを送ることになるとして、この計画に公然と反対していた。
 
バンコクのチュラロンコン大学政治学教授ティティナン・ポンスディラク氏は、東南アジアは「東京におけるNATOのインド太平洋制度化はASEANの中心性に対する挑戦であると広く見ているだろう」と述べた。 クアッドやAUKUSといった米国主導の新たな「ミニラテラル」グループがインド太平洋地域の中心舞台に立つにつれ、10か国のブロックは妥当性を失いつつあるとの指摘もある。
 
NATO長官としての任期が最近延長されたストルテンベルグ氏は、この地域に手を差し伸べる動きの先頭に立ってきた。 同氏は火曜日のサミットで韓国のユン・ソクヨル大統領に次のような言葉で挨拶した。「安全保障は地域的なものではなく、世界的なものであるため、我々は皆さんとのパートナーシップを大切にしています。インド太平洋で何が起こるかはヨーロッパにとって重要であり、ヨーロッパで何が起こるかは重要です」 インド太平洋にとって重要だ」
 
ユン氏も同様の意見で、昨年のマドリードに続き、2年連続でNATO首脳会議に出席すると述べた。
 
「昨年、私は共通の価値観を共有する国々との一体感と連帯感に特に焦点を当てました。今年のサミットでは、NATOとの協力の枠組みを制度化することに焦点を当てるつもりです」とユン氏は述べた。
 
ユン氏は、軍事情報の共有とサイバーセキュリティに関する議論を進めたいと述べた。 サミットに合わせて開催されたNATO公開フォーラムで、チェコのペトル・パーベル大統領は、今日民主主義国家と独裁国家の間で繰り広げられている戦いに直面して、志を同じくするインド太平洋パートナーと連携する必要性を強調した。
 
冷戦時代のイデオロギー対立とは異なり、世界は現在、一方の側に民主主義国家、もう一方の側に中国、北朝鮮、イラン、ロシアなどの独裁国家が存在し、体制間の世界的な競争を目の当たりにしていると元陸軍大将は語った。
 
「これらすべての国は、異なる価値観に従っています。彼らの主張は、西側諸国、つまり民主主義諸国は自国の利益に合わせて既存の世界秩序を発展させてきたが、今こそこの多極的なビジョンにもっと適合するように世界秩序を変える時期が来たということです」 世界よ」と彼は言った。
 
同氏は、ロシアは自らをキリスト教的価値観の真の保護者であると考えており、中国は自国の統治システムが優れており、より効率的で回復力があると信じていると指摘した。 世界がロシアや中国の支配を阻止できる唯一の方法は「私たちの価値観を守り、推進する」ことだと同氏は述べた。」
 
 
 
NATOの東京事務所設立、フランスのマクロン大統領が反対を表面していました。まずはよかったです。
ニタニタニタニタと岸田さんが外遊しているとき、日本では災害救助犬も出動して自衛隊による人名救助が行われています。国家の最高責任者たる総理大臣が自分の国をほっぽりだしてなにしているんですか?家を流されてしまった方々がいるんですけど、ウクライナのためにはぽんと41億円出して税金払ってきている日本人への援助は?
 

3,000万ドルは約41億4,708万3,218円です

2023年12日共同通信、
 
 

「ビリニュス共同】岸田文雄首相は12日(日本時間同)、欧米の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長とリトアニアで会談した。サイバー防衛対処、宇宙安全保障など16分野での協力を盛り込んだ新文書「国別適合パートナーシップ計画」(ITPP)を発表。NATO部隊演習への自衛隊の参加拡充や緊急援助の共同行動を明記した。覇権主義的行動を強める中国をにらみ、インド太平洋地域での連携拡大を打ち出した。

 首相はリトアニアで開催されたNATO首脳会議に出席し、NATOの基金に拠出した3千万ドルを活用してウクライナに対無人航空機検知システムなど殺傷性のない装備品の供与を進めると表明。「基本的価値と戦略的利益を共有するパートナーは、その絆をさらに深めるべきだ」と述べた。首脳会議は2日目の討議を行い閉幕。ロシアの侵攻を受けるウクライナへの支援継続を確認した。」


コール・ポーターの絢爛たる生涯と、最高傑作『キス・ミー・ケイト』について

2023年07月13日 00時47分55秒 | ミュージカル・舞台・映画

ミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』-思い出し日記 - たんぽぽの心の旅のアルバム (goo.ne.jp)

(2018年ミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』公演プログラムより)

「コール・ポーターの絢爛たる生涯と、最高傑作『キス・ミー・ケイト』について

                            中島薫(音楽評論家)

 

「ハロー・ミュージカル!プロジェクト」の第3弾として昨年上演され、大好評を受けての再登場となったのが、1948年初演の本作『キス・ミー・ケイト』だ。この傑作ミュージカル・コメディを華やかに彩る、名曲陣を生み出したのがコール・ポーター。初演から70年を経ても、その魅力を失っていない楽曲と彼の足跡を紹介しながら、作品の見どころに迫ろう。

 

-世界中を豪遊して贅を極める-

〈ナイト・アンド・デイ〉を始め、〈エニシング・ゴーズ〉や〈ビギン・ザ・ビギン〉、〈アイ・ラブ・パリ〉に〈トゥルー・ラブ〉。コール・ポーターの代表曲から、ほんの一部を挙げてみたが、往年のミュージカル・ファンやジャズ好きの方はもちろん、若い皆さんも、これらの曲を一度は耳にしているだろう。 

 ポーター(1891~1964年)こそは、ブロードウェイのみならず、アメリカ音楽史に多大なる足跡を残した作詞作曲家だ。スタンダードとなった前述の名曲を含め、今も多くの歌手やミュージシャンに愛されている楽曲を放った。本作『キス・ミー・ケイト』は、ブロードウェイにおけるポーターの最大ヒット作で、傑作ナンバーで固められている。

 ポーターと同世代のソングライターが、アーヴィング・バーリン(1888~1989年/ホワイト・クリスマス)や、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年/サマータイム)ら錚々たる面々(カッコ内は代表曲)。ブロードウェイを制覇し、ポピュラー音楽の礎を築いた偉人たちだった。ただポーターと彼らが違っていた点が、生まれ育った環境だろう。インディアナ州の旧家出身の彼は、資産家だった母方の祖父のおかげで、10代でフランスやスイスを豪遊する究極のボンボン。音楽に関しては幼い頃から才覚を示し、10歳の時に初作曲。名門イェール大学入学後は、フットボール・チームの応援歌などを創作する。第一次大戦後はパリに居を移し、名士を招いてパーティー三昧の日々を送った。

 

-強靭な精神力で苦難を乗り切る

 この「育ちの良さ」こそが、ポーター最大の特質だった。冒頭で触れた(ビギン・ザ・ビギン)に代表されるように、メロディーラインはゆったりとスケールが大きく、甘美な異国情緒を鮮やかに表現。曲のテイストが浮世離れしている上に、実にカラフルなのだ。ブロードウェイでは1930年代から頭角を現し、今も再演を繰り返す『エニシング・ゴーズ』(1934年)などの秀作を放つ。私生活では、やはり富豪のリンダ・トーマスと、1919年にパリで結婚。ポーターはゲイ、夫人も同性愛者という関係だったが、お互いの才能と魅力を認め合う夫婦だった。

 ところがポーターの人生は、1937年に一変する。NY郊外で、乗馬を楽しんでいる時に落馬。運悪く、馬が彼の身体の上に倒れ込んだのだ。すぐに両足を切除しなければならない程の大怪我だったが、妻はポーターが廃人と化すことを恐れ、切断を拒む。その後、30数回にも及ぶ手術を繰り返しながら、創作活動を続けた。間断なく襲う激痛との闘いだったが、作詞作曲に没頭する事で、少しでも痛みを忘れようとしていたのだろう。

 事故以降は、『パナマ・ハッティー』(1940年)などのヒットと凡打が交互する。そして、自分の感覚を発揮出来るミュージカルを模索しながら、ついに巡り会った作品が、ポーターの集大成となった『キス・ミー・ケイト』(1948年)だったのだ。

 

-ポーターのエッセンスを全て凝縮-

 主役は、『じゃじゃ馬ならし』を上演する一座で、演出と主演を兼ねるフレッドと、彼の元妻で看板女優のリリー・加えて、脇を固める女優ロイスと恋人ビルが、舞台裏で起こすゴタゴタを、劇中劇と絡めながら進行する。この秀逸な後世を考案したのが、脚本家チームのベラ&サミュエル・スピワック。ベラから依頼を受けたポーターは、才能をフルに発揮し、優れたナンバーを提供した。

 まず最大のヒット曲となったのが、一幕でリリー、二幕ではフレッドによって歌われる情熱的なラブ・バラード〈ソウ・イン・ラブ〉。濃密かつ芳醇な旋律に酔わされる。極めつけの名曲だ。他にも、オープニングの心弾むショウビズ讃歌〈またショウが始まる〉や、昔日を懐かしみながら、フレッドとリリーが歌うワルツ〈ウンダバー〉など、ミュージカルの醍醐味に溢れた佳曲が揃う。特に後者は、ウィーンの色香漂うメロディーに乗せて、「星のように」、「月の下で」、「完璧な夜」と常套句を散りばめ、オペレッタの見事なパロディーへと昇華させている。

 また前述のように、若い頃には享楽的な生活を送ったポーター。コミカルな中にも、セクシーで官能的な表現を使う事を好んだ。ロイスが恋人ビルに、「軍人さんや石油成金と浮名を流したけれど、心はあんた一筋」と歌う〈あたしの愛し方〉は、その好例だ。

 

-今なお色褪せぬ上質な楽曲の輝き-

 そしてポーターと言えば、「リスト・ソング」。つまり固有名詞や人名を、韻を踏みながらリストのように羅列し、鋭いウィットと軽妙洒脱なセンスを感じさせる作詞術だ。本作では、借金の取り立てに来たはずが、舞台の楽しさにはまってしまったギャング二人組が歌い踊る、〈パクろう シェイクスピア〉がその代表格。『オテロ』や『お気に召すまま』などのタイトルを挙げながら名セリフと絡め、「シェイクスピアで口説けば、女はイチコロ」と結ぶあたりは、まさにポーターの真骨頂だ。

 初演は、続演1,077回のロングランを記録。演劇界のアカデミー賞に相当するトニー賞では、最優秀作品賞や作詞作曲賞など主要5部門で受賞した。この大ヒットを受けて、1953年に映画化(日本での公開は1987年)。その後ブロードウェイでは、1999年にリバイバルされた。こちらも好評で、トニー賞では最優秀リバイバル賞など、5部門で受賞(続演881回)。そして来年2月には、ブロードウェイで20年振りの再演が予定されている。

 ポーターは『キス・ミー・ケイト』以降も、『カン・カン』(1953年)、『絹の靴下』(1955年)とブロードウェイで快作を連発し、ハリウッドでは、「上流社会」(1956年)や「魅惑の巴里」(1957年)などのミュージカル映画にオリジナル歌曲を書き下ろした。しかし、1954年に愛妻リンダが死去。さらにその4年後には、悪化した右足を切断する。それからは創作意欲も失せ、かぎられた友人と会うのみの隠遁生活を送ったあと、1964年10月15日にひっそりと亡くなった。享年73。波瀾万丈の生涯だったが、ポーターが遺した楽曲には、ブロードウェイ黄金期の瑞々しい輝きと躍動感が横溢している。この『キス・ミー・ケイト』で、その真髄を存分に満喫していただければ幸いだ。」