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20170830 大人の社会科見学 vol.38@修学院離宮参観

2017-09-03 | 大人の社会科見学
2017/08/30の京都旅最後のDay3。
午前に修学院離宮参観に行って予定は終了です。

前日までとは違い、パラっと小雨が降ったりする、
不安な空模様。
湿度も高く、ムシムシして、不快な天候です。

前日の桂離宮も京都市の端ですが、
この日の修学院離宮も京都市の端。
ちょうど対角線的な位置関係ですね。

この日は、地下鉄で国際会館前まで行って、
国際会館前からバスで修学院離宮道下車、
あとは徒歩で10分くらい?
アクセス案内的には、徒歩15分とありましたが、
そんなに歩かなかった気が?
まぁ、どちらにしても、“最寄り”と言う割には、
時間が掛かったけどねぇ。

受付開始15分くらい前だったのですが、
既に数名の先客が居ました。
何で来たんですかね?
この後タクシーで来る人もいたので、
タクシー?
近くの駐車場に自家用車を止めて
来ていた人もいたようです。

上記の写真は、開いていた表総門からの眺め。
公園と言うか、庭園と言うか、そういう雰囲気を感じます。

時間になり、受付開始。
前日の仙洞御所・大宮御所、桂離宮では、
参観許可証が回収されたんですが、
こちらの修学院離宮では、受付で名前を申し出るだけ。
身分証明書の確認も無く、一番簡単な受付でした。

そのかわりと言っては何ですが、
参観者休所も、仙洞御所・大宮御所、桂離宮は、
コンクリート造りの建物でしたが、
修学院離宮では、年季の入った木造の建物。
もしかしたら、先の二つも昔は木造で、
最近、建て替えたのかもしれませんね。
と言う事は、修学院離宮も、そのうち建て替え?

違いと言うほどではありませんが、違いはその程度。
他と同様、参観者休所でのビデオ上映の後、
ガイドの方がやってきて、いよいよ参観開始です。

参観者休所から、まず向かったのは、下御茶屋(下離宮)御幸門。

桂離宮の御幸門は茅葺でしたが、
こちらの御幸門はこけら葺きになっています。

畏れ多くも、御幸門を通って行きます。
そして、直ぐ近くに寿月観がちらりと姿を現します。
ですが、木々に邪魔されて建物の写真を上手く撮る事が
出来ないうちに、寿月観の前まで来てしまいました。


こちらは、寿月観の一の間


こういう、寿月観の扁額が見えています。

これは、後水尾上皇の宸筆だそうです。

寿月観の一の間のふすまです。

岸駒筆と伝えられている虎渓三笑の水墨画が描かれています。

こちらは、寿月観二の間の杉戸

光格上皇のお気に入りで、仙洞御所から移したと入れれているそうです。
この杉戸の内側は、水屋になっています。

寿月観を後にし、下御茶屋(下離宮)東門へ

ここまでは、外が見えません。
下御茶屋(下離宮)御幸門では、
門を開けて通りましたが、
横の通用口から出てみると、外の景色が・・・

パッと、広い景色が広がります。
思わず「おおぉ」と言う声が出てしまいました。
他の参加者も、息を呑んだり、声ならぬ声を出したり、
みんな、一変した景色に反応していました。
空は曇りで、ちょっとイマイチでしたけどね。

下御茶屋(下離宮)東門からまっすぐ伸びる松並木

この先に、上御茶屋(上離宮)がありますが、
それはまた後で。

この周囲も、修学院離宮の敷地内だと思うんですが、
水田が広がっています。

旧宮内省で買い上げて、土地の所有としては国。
いまは、元々の所有者である近隣の農家の方に、
耕作を依頼しているそうです。
ちなみに、宮内庁には一粒たりとも米は入らないそうです。

こんな長閑な畑を見ると、普通の農村みたいですね


下御茶屋(下離宮)の次に向かったのは、
中御茶屋(中離宮)。

こちらは、その中御茶屋(中離宮)の表門。

規模は違いますが、見た目としては、
下御茶屋(下離宮)の表総門と似た印象です。

こちらも、横の通用口から中御茶屋(中離宮)の中へ。
中の階段を上がっていくと見えてくるのは、中門です。

表門とは違う印象。
黒っぽい色が影響しているのかもしれませんが、
表門よりも、重厚な感じですね。

中門と通ると、蔵が見えました。

何の説明もありませんでしたが、
どういう蔵なんですかね?

そして、その蔵の隣にあるのが、楽只軒


後水尾上皇の第8皇女・光子内親王のために
1668年(寛文8年)造営された朱宮御所の最初の建物だそうです。

そんな楽只軒とつながっているのが、客殿。
こちらは、客殿二の間のふすまです

狩野秀信の作だそうです。

こちらは、客殿の杉戸

山鉾が描かれています。

ここの一の間には、桂離宮の桂棚、醍醐寺の醍醐棚と並んで、
日本三大棚と言われる、霞棚があります。

柱が邪魔ですが、互い違いに設置されている飾棚が、
霞がたなびく様に見えるから、霞棚と言われるそうです。

桂棚は桂離宮の新御殿にあるそうですが、
新御殿の外観は見ましたが、中は見ることが出来なかったので、
桂棚は見ていません。

醍醐棚は、醍醐寺の奥宸殿にあるようですが、
こちらは非公開なので、こちらも見ることが出来ない様です。

と言う事で、日本三大棚で、目にすることが出来るのは、
この霞棚だけなんですね。

この建物は、元々が女院御所の建物だったので、
装飾の意匠にも凝っています。

これは、霞棚の地袋小襖の羽子板形引手

めっちゃズームして撮ったので、
だいぶ荒い画像ですが、羽子板の形は確認できますね。

これは、一の間釘隠し

同じく、めっちゃズームなので、わかりにくいですね。
花車形の釘隠しです。
このほかにも、竹葉形のものがあったりするそうです。

一の間の杉戸も凝っています。

網目模様が見えますが、
網目は後から書き加えられたものだそうです。

客殿をグルっと回って裏手へ。
楽只軒の中を見ることが出来ます。
一の間です。


上を見ると、楽只軒の扁額が掛かっています。

後水尾上皇の宸筆です。

中御茶屋(中離宮)は、ここまで。
後で調べたら、中御茶屋(中離宮)は、
元々林丘寺のあったところだそうで、
中には林丘寺跡の旧表総門があるそうなのですが、
そちらには向かいませんでした。
見てみたかった気がしますね。

先ほどの水田や畑のあるあぜ道を戻り、
そして、いよいよ下御茶屋(下離宮)から伸びている
松並木を上御茶屋(上離宮)の方へ向います。
松並木も、両側が水田なので、完全に田舎のあぜ道ですね。

松並木を上って着いたのが、上御茶屋(上離宮)の御成門


やっぱり正面の門ではなくて、横の通用口から中に入りますが、
その前に、こちらの写真。

上御茶屋(上離宮)御成門の横にも道がつながっていて、
こんな門があります。
中々良い感じの門ですが、何があるかは不明ですが、
地図を見ると、この後向かう隣雲亭に繋がっている様です。

さて、上御茶屋(上離宮)の御成門の中に入ります。
結構な坂道を登ってたどり着いたのが、
修学院離宮で一番高いところにある隣雲亭です。


高いところなので、眺望は良好。

良い眺めです。
目線の奥の方は、京都の市街地です。

五山の送り火のいくつかが見えます。

舟形です。

そして、半分くらい見えているのが、大文字

元々、大の字の形になっているんですね。

隣雲亭たたきには、一二三石と言われる装飾があります。

一、二、三と石が、埋め込まれています。

隣雲亭の中

まぁ、普通?

こちらは、修学院離宮の浴龍池

良いですねえ。
紅葉の頃は、もっと良さそうです。
この後、隣雲亭を後にして、浴龍池に向かいます。

浴龍池に向かう途中で見かけた雄滝

奥の方にあるんですが・・・

そして木々の間から、浴龍池が見えてきます。

視線が隠されていて、パッと視線が開けると、
見事な光景が見えると言うのは、中々良い演出ですね。
正面に見えている島は、万松塢

そして、こちらは上記の写真の右端に写っている千歳橋です。

なんとなく中国風の橋ですが、
徳川家斉が光格上皇のために山荘を修復した際、
京都所司代内藤紀伊守信敦が献上したものだそうです。
片側には金色に光る鳳凰がのっていて、
その反対側は寄棟造の四阿(あづまや)になっています。

万松塢には向かわずに、窮邃亭に向かいます。

これもちょっとした高台にあります。

この窮邃亭の扁額も後水尾上皇の宸筆です


これは、窮邃亭の上段の間

この写真だと白飛びしていてわかりませんが、
この窓からは、万松塢の様子が見られます。

窮邃亭の跡は、浴龍池の散策に。
浴龍池にも舟がありました。

水深が浅いそうなので、平底の舟だそうです。

これは、浴龍池の西浜

この後、この西浜の苑路を歩きます。

これは、舟着

石造りになっています。

同じ場所で、上に目線を移します。

左端に舟着、奥に千歳橋

浴龍池の西浜の苑路を歩いていると、
反対の岸のあたりに鳥が佇んでいました。

何ですかね?
鷺?

その辺りで反対側を向くと、京都市街を一望できました。

真ん中の緑の辺りが下鴨神社・糺の森の辺りだそうです。

これは、さっき渡った土橋。
そして、別の角度から見た御舟屋。


反対側の浴龍池に目を戻すと、万松塢の休憩所が見えます。

この日は、8/30だったのですが、8/31が命日の、
ダイアナ妃が、チャールズ皇太子とお見えになった際、
この休憩所で休憩されたそうです。
写真も残っている様な事を言っていましたね。

この後は、出口まで戻って、参観終了。

下御茶屋(下離宮)、中御茶屋(中離宮)、上御茶屋(上離宮)と、
三つの御茶屋(離宮)に分かれていたので、歩いた距離は約3km。
仙洞御所や桂離宮は、約1kmくらいだそうなので、
ずいぶん歩きましたね。
また、長い分、参観時間も1時間15分くらいと、
仙洞御所や桂離宮での1時間程度よりも長かったです。

この日は、朝方雨がぱらついたり、
参観開始時も、空が曇っていたりと、
雨の不安がありましたが、
参観終了の頃には青空も見えてきていました。
蒸し暑かったけど、雨に降られなくて良かったです。

20170829 大人の社会科見学 vol.37@桂離宮参観

2017-09-02 | 大人の社会科見学
京都駅でランチの後は、桂離宮です。

今回は、京都駅から市バスで行ってみましたが、
桂離宮最寄りの桂離宮前のバス停は、
市バス・京都バスの共通一日乗車券の適用範囲外なので、
注意が必要。別料金が必要となります。
今回は、市バス全路線と市営地下鉄全線、そして、
京都バス均一運賃区間で利用可能な
京都観光一日乗車券(二日券でもOK)を利用したので、
特に付加運賃の必要もなく、行くことが出来ました。

“最寄りバス停”と言っても、入口までは結構歩きます。
まぁ、アクセス案内に『徒歩8分』と書いてあるので、
事前に判っていたわけですけどね。

これは、桂離宮の入口に向かっている途中で発見した
徳大寺樋門の遺構。


この、フェンスと草に阻まれた(苦笑)説明版によると、
たびたび氾濫を繰り返していた桂川にできた堤防から、
桂離宮の庭園の池に水を引き込むために使われていた
ものだそうです。

明治41(1908)年5月に改修されて使われてきましたが、、
都市環境の変化に伴い、平成5(1993)年6月に
桂樋門が新設されるまで、使用されていたとのこと。
ちなみに、徳大寺と言うのは、嘗ての地名だそうです。

で、この徳大寺樋門遺構のあたりから左に入るところがあって、
そこが、桂離宮への入口。

こういう案内板がありますが、ちょっと小さいです。
見逃がさないように注意。

参観者入口の前には、こんな緑が

離宮を英語でvillaと言う様ですが、
確かに、ヴィラと言うイメージに合いますね。

ところで、昨今、色んな所でドローンによる
騒動が引き起こされていますが、こんな掲示が。

ちなみに、修学院離宮にもありました。
仙洞御所・大宮御所には、無かったような気がしますが、
見落としたのかもしれません。

時間になって、受付。
参観者休所で、参観開始時間まで待ちです。

仙洞御所・大宮御所の項には記しませんでしたが、
①時間ぴったりに受付
->②参観者休所で時間まで待機
->③ビデオで施設説明の上映
->④ガイドがやってきて参観開始
と言う流れは、仙洞御所・大宮御所、桂離宮、
修学院離宮に共通の手順の様です。

と言う事で、④になって参観開始です。

まずは、御幸門に向かいます。
これは、その途中の土橋。


これも、御幸門に向かう途中に見かけた御舟場

まぁ、舟の収納庫ですね。

ここに限らず、仙洞御所・大宮御所、
修学院離宮、京都迎賓館には、
舟がありました。
でも、赤坂迎賓館には無かったですね。
もっとも、赤坂迎賓館には、
舟を浮かべるような池は無いですけどね。

上に視線を移すと、青もみじ

少し赤くなっている葉も混じっていますが、
これは、既に紅葉が始まっているのか、
あるいは、猛暑の影響なのか?

御幸門に到着です。
まずは、御幸門をくぐって外側へ。
その先には、メインゲートの表門。

結構遠くにあるようですが、
実は視覚的な仕掛けがされていて、
遠くに向かうに従い、
道を細く仕上げているそうです。

振り返って、御幸門

御幸門と言うので、豪華な門なのかと思いきや、
意外に質素な門。
施設の外と施設内を仕切る本当の意味での門は、
上記の表門なので、象徴としての御幸門は、
このくらいでいいのかもしれませんね。
それと、ここは、茶室に向かうところでもあるので、
逆に、このくらい質素な方が適切なのかもしれません。

御幸門から先に進みます。
これは、石で敷かれた御幸道。

この先に、さっきの土橋があるわけですが、
この敷かれている石は、ただ単に敷かれている訳ではなく、
石の平らな面を上側にするように選んで敷かれているそう。
確かに、凸凹していなくて、歩きやすい道でした。

これは、茶室の待合の外腰掛。

ここの横には、砂雪隠と言われる
トイレが設置されているのですが、
物凄くきれいに掃除されています。
“雪隠までもきれいにしております”と言う事で、
それだけ客人を大切にもてなすと言う意味合いを持っていたそう。
客人も、その意味が判っていたので、
実際に使われることは、殆ど無かったそうです。

外腰掛のすぐ横には、手水鉢と高さの低い灯篭


そして、外腰掛で、座った正面の方向は蘇鉄山

この蘇鉄山は、
これから向かう先を楽しみにしてもらおうと言う
目隠しの意味があるそうです。
ちなみに、蘇鉄は薩摩島津家からの献上品。

蘇鉄山の横を通って、先に。
州浜と天橋立、そして、茶室の松琴亭が見えてきます。


もうちょっと進んで、振り返ります。

天橋立が、画像の真ん中に。

そしてこれが、道の先にある茶室の松琴亭

桂離宮で一番格式のある茶室だそうです。

松琴亭のかまどです。

建物の中ではなくて、外側に設置されています。

これが、松琴亭の一の間

資料の写真だと、襖の市松模様が、もっとキレイに
写っているんですが、これだとなんか、少し色あせていますね。

視線を上にすると、池超えの月波楼と古書院

月夜の夜は、美しそうですね。

先に進むと、別の茶室の賞花亭です。

先ほどの松琴亭は、そこそこの大きさのある茶室でしたが、
こちらの賞花亭は、扉も無く、こじんまりとした茶室です。

扉も無いので、茶会を開く時には、
写真のところに暖簾を下ろしたそう。

それはそれで、風情があると思います。

次のポイントは、園林堂

元々は、八条宮(桂宮)初代の智仁親王の尊影と
細川幽斎の尊像が納められていましたが、
その後それらは移され、いまは空だそうです。
「園林堂」の扁額は後水尾上皇宸筆。

本当はこの次に、笑意軒を見るのですが、
いまは修復中と言う事で、カバーが掛かっていて、
見ることが出来ませんでした。
残念。

次に出てくるのが、各書院

写真の中心が、中書院と楽器の間のあたりです。
本当はね、書院の中に入りたいんですけどねぇ。
入る事はできません。

上記写真の一番奥の古書院には、
月見台が張り出しています。
もちろん、月見台には上がる事は出来ないのですが、
その前から、月見台での光景を想像してみると、
こんな感じ。

若干高さが足りないかもしれませんが、
見事な眺めですね。

各書院のすぐ近くには、月波楼があります。

賞花亭とは違い、ちゃんと畳敷です。
松琴亭と似た感じですね。

月波楼は、観月のための茶亭だそうです。
こんな窓越しに見るんでしょうか?


月波楼の天井は、こんな感じの作りになっています。

船底天井です。

これで、見るところはほぼ終わりですかね。
月波楼を後にして、出口に戻る道を振り返ってみると、
松が目隠し替わりに立っていました。

衝立松と言うそうです。

暑くて、汗でドロドロになりながらの参観でしたが、
いい勉強になりました。

一番最初の河原の写真は、桂川です。

20170829 大人の社会科見学 vol.36@仙洞御所・大宮御所参観

2017-09-01 | 大人の社会科見学
2017/08/29の京都旅Day2の予定は、
午前に仙洞御所・大宮御所の参観、
午後には桂離宮参観です。

まずは、仙洞御所・大宮御所の参観から。

朝から、めっちゃ蒸し暑いです。
あとで、確認したら、35℃の猛暑日ぽかったようです。

実はこの日の朝、
身も凍るような事態に見舞われていました(笑)
前夜、0930時の集合時間に間に合うように
めざまし時計をセットしたはずなのですが、
なぜだか鳴らず。
バックアップでセットしていた
ウェイクアップコールで起きたのですが
めざまし時計が、まさか午後にセットされているとは
思わなかったよ。
確認したところ、前夜セットした数字が、
起床しようと思う時刻の数字だったのでそのままONしたのですが、
その数字の横の文字を確認すると“午後”と書いてありましたorz
紛らわしい・・・
よく確認しなかった自分のミスではありますが、
まさか、夕方も良い時間にめざまし時計の時刻が
セットされかかっているとは思わないよ。
前夜直前まで、「めざましセットしたから、
ウェイクアップコールは、セットしなくてもいいかなぁ」
と思いながらも、ウェイクアップコールをセットしておいて、
本当に良かったよ。

まぁ、そんな危機は何とか回避して、
仙洞御所・大宮御所へ向かいます。

上記の花は、間ノ町口から入って正面で見かけた花。
百日紅?
他のところでも、時々見かけました。

朝9時頃なのに、既に激アツな空の下、
受付場所の仙洞御所の北門到着。

まだ、受付時刻前なので、門は開いていません。
もう、この時間で、外国人観光客を含めて、
何名かの人が待っていました。

受付時刻ちょうどに、北門が開きます。
出てきた皇宮護衛官に参観許可証を提示して構内へ。
そして構内の受付で、身分証明書を提示して参観受付完了です。

参観は、御車寄の前からスタートです。


この御車寄は、実は、仙洞御所では無くて、大宮御所の御車寄。
敷地的には、仙洞御所と大宮御所はつながっているので、
こう言う事になるんですね。

御車寄の向かいには、大宮御所の正門

そりゃそうですよね。
ここから中に入るんですから。

奥に進んで、御車寄のある建屋の御常御殿の前に。

実は、この御常御殿は現役の建物で、
皇族の方々が京都にお見えになった際に、
宿泊する施設として使われているそうです。
なので、戸はこの通りにガラス張りに回収されていて、
中にはカーテンが引かれています。

内部の構造的には、冷暖房完備で、和室ではなくて、
すべて洋室になっているとのこと。
洋室になっているのは、嘗て、英国王室の方がお見えになった際、
この建物を改修してお泊りになっていただいたと言う背景もあるようです。

先に進むと、北池が見えてきます。

仙洞御所・大宮御所には、北池、南池の二つの池がありますが、
これは、その一つ。

その北池の端に、こんな石碑が。

有名な歌人、紀貫之の邸宅があった跡と伝えられるところだそうです。
根拠は、イマイチ不明だそうですが。

その目前には、阿古瀬淵。


これは、その阿古瀬淵にほど近いところにある雌滝。

悪いですが(笑)、滝には見えないです。

先に進んで、南池へ。

まず見えてくるのは、八つ橋です。

有名なお菓子では無いです。
あ、いや、関係性の有無はしりませんが、
この橋が八つ橋と呼ばれる由来は、
角が八つあるからだそうです。

これは、八つ橋の上から見た雄滝

さっきの雌滝と違い、これは滝ですね。

南池の傍らを歩いて、茶室の醒花亭前まできました。
これは、その醒花亭の前から見た、南池。

池の、石で覆われた護岸は州浜と言うそうです。
奥には、さっき渡った八つ橋と、中島が見えています。

そして、振り返っての醒花亭


醒花亭の名前は、この額に書かれた言葉から来ているそうです。

李白の詩だそうです。

そして、これは、醒花亭前の木立の根元の苔

この仙洞御所・大宮御所だけではなくて、
今回行った御所、離宮は、苔が生えていましたね。
「苔は踏まないで!」と結構注意されました。

これは、醒花亭前の栄螺山

古墳?と言う説もあるそうですが、
栄螺山の由来は、上から見ると、
栄螺の様に巻いているからだそうです。

先に進みます。

これは、柿本社と呼ばれる神社

柿本人麻呂に関係あるとか、無いとか。
別の説として、この御所は、時折火災に見舞われていて、
火気(火の気)が無い様に願ったと言う説もあるとか、無いとか。

そして、その柿本社から振り返るとこの林

仙洞御所の跡です。
江戸時代後期に、火災で焼失した後、
上皇も女官も居なかったので、
再建されることなく、今に至っているそうです。

南池をぐるっと回って、再び、八つ橋付近に

もうすぐ参観も終了です。

これは、最後のポイント、又新亭


そしてこちらは、又新亭の待合

待合があると言うのも不思議な気がしますが、
桂離宮にもあったので、そういうものなのでしょうね。

これは、又新亭の裏側


そして、最初に見た御常御殿の前に戻ります。
これは、その御常御殿のところで見かけた排水口?の蓋。

宮内庁(宮内省??)の「宮」の文字が入っています。

最後に、御車寄まえで解散


自由参観も良いですが、所々解説が聞ける、
ガイドツアーもアリですね。
勉強になりました。

20170822 大人の社会科見学 vol.35@修武台記念館見学会

2017-08-25 | 大人の社会科見学
お盆も明けた今日(8/22)は、普通の平日ですが、
航空自衛隊入間基地の修武台記念館の見学会に申し込んだところ、
無事当選したので、行って来ました。

“修武台”とは、旧日本陸軍の陸軍航空士官学校の事で、
昭和天皇が行幸した折に、名付けた名前だそうです。

ちなみに、小田急線に“相武台前”と言う駅がありますが、
これも、陸軍士官学校が彼の地にあって、これも、
昭和天皇の行幸に際して、陸軍士官学校が相武台と
名付けられたことに由来があるそうです。
つまり、陸軍士官学校の最寄り駅だったんですね。
元々、士官学校前駅と言う名前だったらしいですしね。

似たような旧日本陸軍の施設には、
移転前の市ヶ谷にあった陸軍士官学校の市ヶ谷台、
陸軍予科士官学校の振武台、
陸軍経理学校の若松台、
東京陸軍幼年学校の建武台、
名古屋陸軍幼年学校の観武台、
熊本陸軍幼年学校の清水台とたくさんあったようですので、
“XX台”と言うのが、旧日本陸軍は好きみたいですね。

さて、修武台の話に戻ります。

この修武台記念館の建物は、
元々陸軍航空士官学校の学校校舎として建設されたもので、
戦後、米軍基地司令部庁舎として使用、
日本に返還後は、旧日本軍及び航空自衛隊の歴史資料を
保存・展示する施設としてきたそうです。
その後、古くなったので、陸軍航空士官学校の学校校舎の
イメージで立て直して、今に至るようです。

見学会は、午前コース/午後コースの2コースありますが、
今回参加したのは、午後コース。
だって、午前コースだと、1000時に入間基地集合なんだもん。
まぁ、横須賀に1000時に行くので、入間に1000時に行くことが
出来ないとは言わないけど、楽な方が良いよね(笑)。

受付開始は1300時。受付の稲荷山門到着。


受付で名札を受け取って移動のバスに乗り込むと
既にバスには結構な乗客がいました。
私は、ちょうど1300時頃に到着する電車で行ったのですが、
それよりも前の電車で行ったんですかね?


ちなみに、門の警備は、基地警備隊。
航空自衛隊仕様の青っぽい迷彩服を着た警衛が、
警備をしていました。
稲荷山門の近くには置いていませんでしたが、
途中では、使い込まれた感じの軽装甲機動車を見かけました。

稲荷山門から、修武台記念館までは、基地内を少々移動。
途中、車両整備場や、航空医学実験隊の建物の横を通ります。

修武台記念館到着!

今回の参加者がそろうのを待って、いよいよ見学会の開始。
まずは、ガイダンスシアターで、館内の説明や、
見学会の注意事項を見たのち、いよいよ自由見学。

正直、自由見学だとは思っていませんでした!
これはある意味うれしい誤算。
ガイドツアー方式だと思っていました。

“自由見学”と言う事なので、まずは、最初のガイダンスで、
「おすすめです」と言っていた、保管庫見学から行います。

保管庫には、アンリ・ファルマンの実機があります。
(少し、頭が見切れてしまいましたorz)

方向を変えて。

説明にある通り、アメリカで修復をうけたものの、
プロペラやエンジンなどは、当時のものを実装しているそうです。

こちらは、F-1支援戦闘機初号機

初号機だとは思いませんでした。

こちらは、V-107救難機

F1は初号機でしたが、こちらは最終飛行機

エンジンが傍らに置いてありました

T-33練習機に使われていた、アリソンJ33-A-35

保管庫は、こんな感じ。
ちなみに保管庫には、エアコンが効いていました。
ちょっと驚きです。
きちんと保管しようとしているんですね。

修武台記念館の本館に戻ります。
見学は、2階から始まります。

2階は、旧日本陸軍/海軍の歴史のコーナーになっています。
陸軍/海軍の年表
旧軍時代の搭乗員教育についての展示
航空士官学校の頃の展示
加藤隼戦闘隊の展示
零戦などのエンジンの展示
太平洋戦争についての展示
などなど・・・

館内には【写真撮影禁止】と言う掲示が沢山出ていますが、
自衛隊関係者など向けの表示なのかな?
今回の見学会に際しては、遺書や手記の様な個人的な書き物、
映像類などの著作権を気にするもの以外の、
パネルや展示物の撮影はOKと言う事でしたので、
色々と撮ってきました。

こちらは、便殿の扉

陸軍航空士官学校本部の2階には、昭和天皇行幸の際に
休憩に使った便殿があったそうで、これはそのドア。
いっちゃぁ何ですが、結構普通のドアですね。

こちらは“加藤隼戦闘隊”で有名な、加藤建夫少将が、
少佐時代に着用していた軍服。

残っているんですね。

進みます。

これは、常陸教導飛行師団の2式複座戦闘機「屠龍」

平成8年9月に千葉県八千代市で発掘されたものだそうで、
昭和20年1月27日東京に来襲したB29に、
体当たり攻撃を行った機体。
体当たりを食らったB29は、もちろん撃墜されています。
よく、その体当たりをした機体だと特定できたと思います。

さらに先に進みます。

これは、“ゼロ戦”で有名は、零式艦上戦闘機で使用された、
「栄」エンジン。

説明版には、11型・12型(ハ25)・21型(ハ115)とありました。
一体、どれなんだと!(笑)

この、ひしゃげたプロペラが付いているのは、ハ41。

2式単座戦闘機「鐘馗」に用いられたそうです。

本館での実機展示のハイライト、桜花の実機です。

主に、胴体部分が実機の様です。
残っていたのか・・・。
実は、嘗て、入間基地がジョンソン基地と呼ばれる
米軍基地だったころ、基地への目標のための標識として、
使われていたものだそうです。
なんか、色んな意味で、悪趣味な気がしますね。

進みます。

やはり、“航空”と言う括りでは、
加藤健夫を避けることにはいかないようで、
またも、加藤健夫の軍服類。

右が外套(少佐時代)、左が軍服。
軍服にはキャプションがありませんでしたが、
階級章的に、こちらも少佐時代?

2階の展示は、ここまで。
1階におります。

その途中の会談で、この様な表示が。

1954年7月1日の航空幕僚監部開庁式における、
初代航空幕僚長上村健太郎空将の
訓示の抜粋です。

2階は旧軍時代の歴史展示でしたが、
1階は、自衛隊時代の展示になります。

部屋の入口付近には、F-15。

やっぱり、これからですか(笑)

その奥には、ナイキユニバーサルシステム(AJAX)


ナイキのとなりには、20mm(改)対空機関砲(VADS-Ⅱ)

保有期間に終わっていないので、
現場では、まだ現役と言う事ですね。

BADGEシステムも展示。

もうJADGEに換装されていますからね。
でも、これらをみると、時代を感じますね。

監視コンソールのアップ。

北海道・東北地方が見えるので、
北部航空方面隊のもの?

航空自衛隊創設60周年のシンボルマーク。

あまり一般では見かけることは無かったですね?

航空自衛隊の歴代の制服。

手前が古くて、奥に行くと新しい制服です。
JALのSky MuseumにもCAの歴代制服と言う事で、
同様の展示がありましたね(笑)

ここで、一旦、ロビーに出ます。

ロビーには、航空自衛隊創設50周年のタイムカプセル。

50年後の、航空自衛隊創設100周年の時に開けるそうです。
って言うか、地中に埋めないんですね。

これは、ロビー中央付近に展示されている、
航空士官学校の模型。

昭和19年ごろのものだそうです。
今いるのは、奥側の広いところ。
手前に、出城みたいなところもあったんですね。(いまは無し)

こちらは、ロビー奥にあった、
航空自衛隊創設60周年を記念したF-15DJの模型。

防衛省・自衛隊60周年記念航空観閲式において、
安倍総理に贈呈されたものと同じだそうです。
ちなみに、機体番号の“60”は、安倍総理の60歳と、
航空自衛隊創設60周年をかけているそうです。

これは、ロビーの奥にある、
ブルーインパルスコーナーの展示


ここいらで一旦、最初に説明を聞いた
ガイアダンスシアターに集合して、アンケートの記入タイム。
アンケートが終了したら、あとは、帰りのバスまで、
外での撮影タイム!

これが、修武台記念館の外観。

横須賀の在日米軍司令部庁舎(旧横須賀鎮守府)に
雰囲気的に似ていますね。

こちらは、嘗て、航空士官学校時代にあった、
(修武台)航空神社の跡。

元々は、航空事故による殉職者を祀った神社だったそうです。
終戦後、進駐軍が来る前に、一旦、所沢にある神社に奉遷した後、
1965年11月に廃社されています。
いまの羽田空港にも、航空神社がありますが、
神社としては別のものです。

こちらは修武台の碑

修武台の名前を付けたのは、昭和天皇でした。

こちらは、雄魂の碑

昭和33年の入間基地創設以来、殉職した隊員の
鎮魂のために建てられた記念碑

こちらは、航空兵の像

航空士官学校以来の航空兵をたたえる像
昭和61年の建立の様です。

地対空誘導弾ナイキJ


こちらは、J/TPS-100移動式3次元レーダー

固定式のBADGEシステムのレーダーの代替えの為の
移動式のレーダー装置。

F-86セイバー


“最後の有人機”F-104

頭が見切れてしまったorz
横のステップを上がるとコックピットが覗けるんですが、
みんなコックピットを覗いていて、
中々クリアに撮れなくて、焦ってしまった結果が、これだよorz

これは、初めて見ます。C-46輸送機。


こちらは、T-34練習機

かわいそうに、ちょっと色あせてきています。

T-33練習機

保管庫にアリソンJ33-A-35が保管されていましたね。

ジョンソン基地時代の銘版もありました。




修武台記念館付近の記念碑や、航空機の配置。


ここいらでタイムアップ!
来た時と同様、稲荷山門までバスで送ってもらい、
稲荷山門にて解散。

航空祭にも来ようかなぁ。

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[2017/08/26追記]
昨日、国立科学博物館に行ったときに、
ゼロ戦を見てきました。

零戦二一型 (複座改造偵察機)です。

複座のゼロ戦は、珍しいですね。

これが、栄エンジン。

零戦二一型なので、そのままならば、
栄一二エンジンのはずです。

20170814 大人の社会科見学 vol.34@迎賓館赤坂離宮 藤田嗣治天井画特別展示&西玄関特別公開

2017-08-14 | 大人の社会科見学
迎賓館が一般公開されるようになって以降、
赤坂迎賓館は、本館和風別館、そして、京都迎賓館と、
都合三回“迎賓館”と名の付く施設の見学には行っているのですが、
この度、赤坂迎賓館だけで三回目、
京都まで含めると、四回目の“迎賓館”見学に
行って参りました(苦笑)

だってねぇ、今回は、お盆と言う事だからでしょうか、
藤田嗣治(レオナール・フジタ)の天井画を特別展示するとの事。
しかも今回はそれに加えて、通常は公開していない、
西玄関も特別公開!
これはもう、行かずにはいられないですよね!!

今日の空は生憎の曇り。
って言うか、少し降っています。

予約した時間に見学者入口の西門に向かいます。
今回は、入門時間を予約していきましたが、
予約なしで、当日向かってもOKだったようです。
ただし、混雑した場合は、予約者優先と言う事ですが。
今日は、天気も悪いし、お盆とはいえ平日なので、
当日受付も全然大丈夫ぽかったです。

これまでと同様、西門から入り、荷物検査を受けた後、
入場券を購入。
昨年来たときは、立ち食いそばの食券の様な入場券でしたが、
1年経つと進化するんでしょうか、なんと、絵入りの
入場券にグレードアップしていました。


そして、迎賓館本館へ。

いつものように、写真撮影は不可なので言葉のみのレポート。
京都迎賓館は写真撮り放題なんですけどねぇ。
赤坂は不可なんですよねぇ。
国宝であると言う事と、意外に中の通路が狭くて、
写真OKにしてしまうと、渋滞が起きてしまうからなのかなぁ?

さて、見学者入口から入ると、いきなり西玄関へ。
そりゃそうだ、直ぐ近くだもんね。
そしてそのまま、事前の案内に記載はなかったんですが、
中央玄関に向かいます。
もちろん、中央玄関からの中央階段は閉鎖されていますが、
以前来たときは、上から見るだけだったところに入場です。
要人の方が、写真撮影をする玄関ホールは、
扉の先ですが、窓から覗くことが出来ました。

そして、彩鸞の間、花鳥の間、羽衣の間と、
通常公開と同じコースの後、
今度は、中央階段を上がった先の2階大ホールに。
2階大ホール自体も昨年行ったときに見ているのですが、
その時は、朝日の間の目の前のところしか入れなかったんですが、
その先の、中央玄関上の部分にも入ることが出来ました。
中央階段の周りを一周した感じです。

その代わりと言っては何ですが、
昨年見ることが出来た朝日の間は、
修復のため、閉鎖されていました
(2017年2月から約2年間の閉鎖予定)

そうそう。
今回特別展示されていた藤田嗣治の天井画はこちら
《葡萄畑の女性》(1935年・油彩・キャンバス)
《母と娘》(1935年・油彩・キャンバス)
《ポプラ並木の女性と楽士》(1935年・油彩・キャンバス)
《犬を抱く女性と楽士》(1935年・油彩・キャンバス)
《貴婦人と召使い》(1935年・油彩・キャンバス)
《女性と天使》(1935年・油彩・キャンバス)
の6作品でした。

これは、今回の企画に際して特別についていた、
藤田の絵画のポストカード。

《犬を抱く女性と楽士》の様です。

外に出て、雨を押して主庭を冷やかします。

もう、雨でした・・・

この後は、前庭へ。

こちらは、最初に行った西玄関の外側。

前庭に行くと、西玄関、東玄関の前には行けるんですけどね。

こちらは、中央玄関の真ん中のドア。

中央玄関には三枚ドアがあるんですが、
何れも意外に小さいんですよねぇ。
ヒト一人しか通ることが出来ない幅です。
二人並べないです。

そこから正門を振り返るとこんな感じ。


いや、赤坂迎賓館だけで三回目だけど、
行った価値ありましたよ。

20170715 大人の社会科見学 vol.33@ANA機内食工場見学ツアー

2017-07-15 | 大人の社会科見学
Webを見ていたところ、『ANA機内食工場見学』なるものを発見。
所謂、無料の工場見学ではなく、有料の工場見学ツアー。

ツアーコースには、二種類あって、
①午前コース:ビジネスクラスの機内食付き
②午後コース:ビジネスクラスのスイーツ付き
の2パターン。
機内食付きだと値段が高いのですが、
折角なので、機内食も食べてみようと言う事で、
ビジネスクラスの機内食付きの午前のコースを
ポチっとしてしまいました。

実は、これまで所謂“ツアー”と言うものには
参加したことが無いのですが、
初めて参加するツアーが、機内食工場見学ツアー(笑)

見学ツアー当日は、午前10時に
ANAスカイホリデーカウンターに集合。
近場をチラッと見て回るだけですが、
一応、ANAスカイホリデー?なんですね。

ここで残念なお知らせ。
機内食と言うものを扱う関係上、
安全性・衛生面には非常に気が使われていて、
見学中の写真撮影は不可!
って言うか、腕時計、スマホ、カメラをはじめ、
財布などの貴重品類まで、見学中は、工場内で
保管されることになっています。
要するに、何も持ち込めない。
厳しいねぇ。
しかも、工場外観は撮影可能ですが、
ブログとかにUPするのは不可と言う謎のルールもありました。
この記事は、そのルールの則って書いていますので、
見学に関する写真が無かったりします。
あしからず。

集合時刻の10:00になっても来ない人がいたんですが、
ずっと待っているわけにもいかないので、そのまま出発。
ツアー申込時に、ケータイの番号を聞かれるのですが、
こういう時に活躍するようです。
もっとも、今日の人には連絡もつかないという最悪のパターンでしたが。

ANAの機内食工場は、ANAケータリングサービスと言う会社。
本社は羽田空港にあるようなのですが、今日見学するのは、
川を挟んで川崎にある、川崎工場です。
ちなみに、成田にも工場があるそうです。

羽田空港からバスに乗り、通常ならば10分程度の距離なのですが、
今日は、渋滞が起きていて、30分くらいかかりました。

このANAケータリングサービスでは、もちろんANAの機内食の他、
エバー航空、エアカナダ、アシアナ航空、ベトナム航空の
機内食も製造しているようです。
工場内、それらの表示がありました。

通常の見学の場合、工場到着後、会社の案内ビデオを見たのちに、
見学に入るのですが、今日は時間が押していたと言う事で、
工場に到着したら、さっそく見学です。

食べ物を作る工場なので、上記に持ち込めないものを記しましたが、
それ以外にも、厳しいんですよね。

まず、現在の健康状態についての申告。
嘔吐・発熱の有無や、ケガの有無、などが申告項目です。
嘔吐や発熱は、病気の関連だからわかるとして、
ケガについては、その部分からの感染症などの懸念があるから。
そういう意味では、上記に記し漏れましたが、指輪もNGです。
指輪のところって、まぁ、言うと何ですがキレイにし難いですからねぇ。

その申告うえで、よくテレビなどで見るような、服装になります。
とは言っても、脱いで着替えるのではなく、着ている服の上から、
重ね着するのですが、①頭にカバー、②①の上から更に首元まで覆うカバー、
③足元の長ズボンの裾を所謂サッカーストッキング止めで止める、
④上から白衣、と言う装備。
これまで、機体整備工場見学には、複数回行ったことがあるんですが、
機体整備工場見学の時には、ヘルメットはかぶりましたが、
着替えまではしなかったですからねぇ。

①~④の装備になって、いよいよ出発。
工場入口で、またも新鮮な体験。
いわゆるコロコロで、先ほど装備した白衣の上からコロコロころころ。
うん、確かにテレビで食品工場を見たとき、こう言う事やっていました。

そしてここで最後の装備、靴の上にオーバーシューズを履きます(?)
それとも、靴にカバーをかけるというべきかな?

そして手洗い。
感染症対策の手洗いの仕方ですね。

そしてエアシャワー。
これも、テレビで見るやつ。

手洗いはあれですが、初めての体験ばかりで意外に新鮮です。

そしてやっと工場の内部へ潜入です。
本当に、作っている、と言うか、食材をプレートに並べている
直ぐ傍まで行く事が出来ます。
見学者用の見学通路があるのではありません。
これじゃぁ、確かに、ここまでの装備と準備は必要ですね。

洋食厨房はガラス越しの見学でしたが、和食厨房は中に潜入。
魚の焼き物を焼いていました。
温度計を使って、ちゃんと中心温度を計測していました。

次は、ガーベージのフロア。
ごみも、国際線の場合、保税ごみとして処理されるそうです。
保税ごみとして処理しないと、輸入になっちゃいますからね。

そしてその次は保税倉庫。
保税倉庫は、お酒などの在庫品が、天井まで積まれていて、
なんか、コストコ見たいです。
機内販売の準備もここでするそうです。
ここでTIPS。
お酒の瓶ですが、ガラスに見えますが、実はプラスチック。
空を飛ぶので、重さが気になりますからねぇ。
ミニボトルも、プラスチックでした。

遅れて到着したので、若干押し気味で進行ですが、
見学はここまで。
あとは、最初に集合した会議室に戻って、機内食の試食です。

今日の機内食は、7月の羽田・金浦線のもの。
近距離国際線なので、エコノミーみたいにワントレイでの提供でした。
長距離国際線ビジネスクラスの機内食食べたかったなぁ(笑)

メニューは、

  • アペタイザー
    サーモントラウトのタルタルと徳島県産花れんこんのピクルス、ポークパテ

  • メイン
    チキンのソテー ハニーバルサミコソース

  • ブレッドロール
    カンパーニュ

  • 小菓子
    ココナッツ&パイナップルカップケーキ

  • 飲み物
    コーヒーor紅茶

中々、美味でしたよ。
ここでもTIPS。
パンに付いてくるバター類ですが、通常機内では保税バターを使うそうですが、
ここは国内なので、マーガリンで代用です。
マーガリンじゃなくて、保税ではないバターで良かったんですけどね。
一応ね、写真は撮ったんですが、SNSへの掲出NGと言う事なので、
言葉だけでの説明です。

ちなみにANAのHPで検索すると、確かにこの通り。

でも、このメニューは今日までで、
明日からは違うメニューになるようです。

試食のあとは、ちょっとだけ質疑応答タイム。

Q.羽田、成田以外では機内食はどうしている?
A.現地のケータリング会社に依頼している。沖縄なら沖縄、海外なら海外の会社。
 逆に、ANACも、エバー航空やエアカナダなどの機内食を請け負っている

Q.機内食の調理は、HIだったが停電の時はどうするのか?
A.この川崎工場は2011年に稼働したが、まだ停電に遭遇した事は無い。
 特別な備えは無いが、代替えの調理器具はあるので、機内食が出せないと言う事が
 無い様に努めたい。

Q.機内食の価格は?
A.企業秘密(笑)。人手がかかっているので、街中のレストランよりは、高コスト。
 なので売価も高値であるとは言える。

Q.ここでは、国内線プレミアムクラスの食事も作っているのか?
A.作っている

こんな感じだったかな?

ANA機内食工場見学はここまで。
いやぁ、面白かったです。
午後のコースも有るようですが、
午後のコースだと、機内食ではなくて、
スイーツの試食になるので、
午前の機内食の試食のコースが良いと思います。

この後は、羽田空港に戻って解散。

で、全然写真が無いので、少しスポッティング。
めっちゃ暑いけどね。

ANAの見学ですが、JALから(苦笑)

ドラえもんジェット。
離陸していっています。

ANAに戻ります。
スターウォーズジェット2連発。


これは、初めて見ました。

飛び立つ上海航空です。

今日は、A/C滑走路は離陸に使っていて、
着陸はB滑走路のようでした。
そういう運用もありなんですね。
と言う事で、B滑走路に侵入してくるJAL機。

それと、これは写真は無いんですが、
A/Cで、同時離陸もやっていました。

最後。
政府専用機。

JALの機体整備工場で、整備を行っているようです。

暑くて熱くて、スポッティングには不向きでした(苦笑)

20170604 大人の社会科見学 vol.32@日米親善ベース歴史ツアー

2017-06-10 | 大人の社会科見学
今日(2017/06/10)の予想最高気温は32℃!
止めて欲しいです。

そこまでではなく、まだ大丈夫な程度の晴天だった
2017/06/04日曜日は、
米海軍横須賀基地の『日米親善ベース歴史ツアー』に
行って来ました。

6/4当日の帰宅は夜だったので、その日のうちのUPはならず。
そして、平日が続いていたので、
中身が纏まるまで、今日までかかってしまいました。
やっとアップです。

さて、『日米親善ベース歴史ツアー』には、
これまで何度か申し込んでいたんですが
当選したのは初めて。
ところが、当選通知が届いてから問題が発覚!
受付の時に、身分証明書が必要なんですが、
基本的には、以下の三つのものだけが認められています。
・パスポート
・写真付き住民基本台帳カード
・写真付きマイナンバーカード
※いずれも、有効期限内のもの

日本では最も一般的な身分証明手段と言っても過言ではない、
運転免許証単体ではダメなんですよ!

これは、米軍基地公開の時のTIPSの様でして、
基地によって若干違いがあると言う情報もあるんですが、
横須賀基地の場合は、運転免許証の場合には、
1.IC運転免許証の内容を印刷した記載事項印字表
2.本籍地記載のある住民票
の何れかと運転免許証を同時に提示した場合、
OKになるそうです。

ちなみに、1.の記載事項印字表ですが、
“記載事項印字表”と言う印字が無いと、
厚木基地では受付NGと言う話も情報もあり、
どの形態が良いのか、ちょっと微妙です。
(今回は、横須賀基地ですが。)
それと、記載事項印字表が印字できる場所は、
都道府県警によって違うので、
良く分からないときは、確実に市役所などで取れる
本籍地記載の住民票が無難かな。

で、実際の受付時の状況はどうかと言うと、
結構、パスポートで受付している人が多かったですね。
まぁ、ある意味、“外国”に行くわけですから、
パスポートと言うのは、気分を盛り上げるのに良いかも(笑)。
私は、パスポートも住民基本台帳カードも有効期限が切れていたので、
運転免許証+本籍地記載の住民票で受付しました。

まずは、JR横須賀駅のTIPS
JR横須賀駅の駅舎は、昭和15年に建てられたものだそうです。
と言う事は、戦災に遭わなかったんですね。
軍港横須賀なのに!

その次に、ヴェルニー記念館へ。
ヴェルニーとは、任期は、10年くらいだったそうですが、
いまに繋がる軍港横須賀の基礎を築いた人です。

これは、そのヴェルニー記念館に残されているスチームハンマー。
こちらは、0.5トン片持ち型のもの。

昭和46(1971)年に横須賀市に移管され、横須賀市中央公園で
野外展示されていたそうです。
平成10(1998)年に国の重要文化財に指定。

そしてこちらは、より大きい3トン門型。

平成9(1997)年まで、米軍横須賀基地で稼働していて、
平成12(2000)年に横須賀市に移管、
平成15(2003)年に国の重要文化財に指定されました。

これは、戦艦陸奥の1/100の模型。

なんでこれが、ヴェルニー記念館にあるかと言う事は後述。

で、ヴェルニー記念館にある戦艦陸奥の模型の謎はこれ。


戦艦陸奥の主砲砲身です。

第四砲塔の左舷側の砲身だそうです。

先に進んで、これは、逸見波止場衛門。

左側には「逸見上陸場」、右側には「軍港逸見門」と書いてあるそうです。
ちなみに、明治天皇は、横須賀に16回行幸したそうなのですが、
横須賀線が出来る前は、ここから上陸したそうです。
横浜までは列車、横浜から船で来たそうです。

これは、ヴェルニー公園中ほどにある、小栗上野介の胸像。

小栗とは、ヴェルニーとともに、横須賀製鉄所を開設した人物ですね。
その最後は、小栗の優秀さに恐れをなした明治新政府から、
処刑されてしまいます。
小栗は、自分の領民に非常に慕われていたそうで、
明治新政府の役人が、小栗を処刑しようとしたとき、
小栗を救わんとして、小栗の無罪を主張したそうですが、
争いになる事を望まなかった小栗が「みなさん、お静かに」といって、
そのまま処刑されたそうです。

そしてこちらは、この公園の名前にもなっている、
フランソワ・レオンス・ヴェルニー。

幕末から明治新政府への移行の際にも、避難を呼びかける指示に対して、
「事業中断はできない」と言って横須賀に留まったそうです。

これは、これから向かう、ドック群。

この通り、右から第1~第3ドックです。

(上記は、ヴェルニー公園内の説明版)

ヴェルニー公園を出て、どぶ板通りへ。

これは、どぶ板通りの中ほどにヒッソリと建っている、

明治天皇行在所入り口の碑。
実は、この辺り、何度か歩いたことはあるんですが、
こんなものがあるとは知りませんでした。
実際の行在所は、ここから坂を上ったあたりのところにあったらしく、
観閲などの時は、その行在所から見ていたと言う説明でした。
ちなみに、行在所の跡地には、いまは保育園が建っているそうです。

米軍横須賀基地に向かう途中の散策は、ここまで。
基地内部へは、正門から入ります。
スプリングフェスティバルの時は、三笠門から入りますが、
今回は違うんですね。

ここでも、もう一度身分確認が行われます。
受付の時の身分確認は、
このツアーの主催団体である横須賀市観光協会でしたが、
ここでの身分確認は、米軍によるもの。
なんとなく、緊張感が走ります。
ここでも、運転免許証と本籍地記載の住民票で確認OKでした。
確認していたのは、基地のセキュリティでしたが、
これは、日本人?
漢字の文書の確認は、アメリカ人にはできないもんね。

ここで、写真撮影に関しての注意事項が。
・正門
・正門から奥側の様子
・迷彩服を着ている軍人
・ドックインしている艦船
・潜水艦(米軍、自衛隊ともに)
などは、撮影禁止だそうです。

米軍基地なのに自衛隊の潜水艦が撮影禁止なのは、
『米軍基地から、自衛隊基地を覗いて写真を撮ってはダメ』
と言う事ではありません。
これは意外に知らない人もいるかもしれませんが、
直ぐ向かいに自衛隊の基地があるんですが、
なぜか、自衛隊の潜水艦は、
その向かい側の自衛隊基地では無くて、
米軍基地側に停泊するんですよね。
たぶん、保秘の関係だと思います。

逆に言うと、その他は特に制限なし。
意外に自由でした。

これは、正門から入ったところの傍らにある関東大震災犠牲者の慰霊碑。

上側の球状部分には時計が刻んであって、
その時刻は、関東大震災の起きた11時58分を指しているそうです。

そして、道を挟んだその向かい側の付近には、アメリカ仕様の消火栓。

消火栓、結構、至る所にありました。
さすが軍事基地。

正門からのメインストリート?沿いに奥に進むと、こんな電光掲示板。

「2001年に、司令長官(太平洋軍の?)最優秀軍事施設賞を
受賞した記念に設置された」と書いてある銘版が近くにありました。

その電光掲示板の少し先に、CPO CLUB。

これは、入り口正面のアップ。

元々は、昭和2年に建てられた、旧海軍工廠庁舎(?)だそうです。
確かに、見た目、古い建物だなぁと思いました。

その傍らに、横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑がありました。

ちょっとねぇ、文字が読み取りにくくなっていますが、
上の部分には、庁舎の形が彫られているそうです。

これは、基地内の映画館。

「ベニー・デッカー・シアター」と言う様です。

その映画館の向かいのあたりには、
SHIP REPAIR FACILITY(SRF)と呼ばれる、
ドライドックを管轄している組織のモットーとみられるもの。

“SRF Mission
Keep the Seventh Fleet
Operationally Ready”
「SRFのミッション。第7艦隊を、作戦可能状態にしておく」
と言う趣旨の事が書いてあります。

ここで閑話休題。
基地内の道を示す標識です。
こんな、いかにもアメリカっぽい仕様のものもあれば、

こちらの様に、書いてある事はアメリカ風ですが、
仕様は日本風と言うものもあります。


全体的には、日米折衷仕様の方が多いかも。
たぶん、日本の標識業者に発注したので、基本仕様は日本の標識で、
記載内容は、アメリカと言うものになったのでは無いかと思います。
ちなみに、最初のSusquenhana DriveのSusquenhanaとは、
ペリー来航の際に、ペリーが乗艦していた船の名前です。

さて、もとに戻ります。

先ほどの、SRF Missionの先にあったのは、この掲示のある建物。

MPですね。
NCISでは無いようです。

そして、Military Policeの先にあるのが、泊船庵の碑。

碑文のアップ。

知らない歴史です。ここに三重塔もあったんですね。
夢窓國師とは、天龍寺の庭園などの設計も行った人の様です。

ここからは来た道を戻ります。
そして、前半のクライマックスのドライドックへ向かいます。

まずは、第1号ドライドック。

日本最古のドライドックです。
奥側(渠頭側)から迫ります(笑)。

これは、ドック入口から、奥側を見たところ。

横浜のドックヤードガーデンとは違い、ここは現役のドックですよ!
使われているのは、新小松石と言われる石で、使用個数は約22500個。
難工事と思われたようですが、日本の築城技術としての石垣組みの技術が、
ドライドックでの石組みに役立ったそうです。

これは、海側からドックの水密扉を見た方向。

扉は船の構造になっていて、海に浮かべて開けたり/閉めたりするそうです。
渠頭側が石積みでないのは、昭和11(1936)年に延伸工事を行い、
コンクリート造りとなったためです。
今の大きさは、長さ約134.5m、幅約29m、深さ約9mです。

これは、第2号ドライドック。

2号ではありますが、建設の順番としては、1号->3号->2号の順番だったそう。
理由は、財政上の問題(資金難?)があって、2号の着工が遅れたかららしいです。
また、1号、3号は、フランス人技師が中心となって建設されましたが、
2号は、着工が遅れてしまいフランス人技師が帰国してしまったため、
日本人技術者の手によって建設されています。
大きさは、長さ約153.0m、幅約32.0m、深さ約11.5mです。

これは、第2号ドライドック付近の小屋にあった掲示。

正直、結構ボロイ木製の小屋だったんですが、何に使うのか?

これは、第2号ドックの奥にある、SRF庁舎

ちなみに、こちらがSRFを示す掲示


第3号ドライドックは、使用中であったので写真はNG。
見るだけでした。
仕様緒元(と言うのか?)は、長さ約94.0m、幅約18.0m、深さ約7.5mと
結構小さいです。

第3号ドライドック近くのフェンスにある垂れ幕


これが、垂れ幕の内容です。

工事現場の垂れ幕は、世界共通ですね。

これは、3号ドックから4号ドックに行く途中に目にした煉瓦造りの建物。

もしかしたら、旧海軍工廠じだいからのものかもしれません。

次に行くのは、これ

そう言う訳で、写真は第4号ドライドックにワープ。

第1号~第3号までよりも、だいぶ大きいドックです。
長さ約240.5m、幅約38.1m、深さ約13.4m
中央部に窪みがありますが、スクリューやソナーが、
ドックの底と干渉するのを防ぐためだそうです。

これは、第5号ドライドック。

長さ約323.7m、幅約50.0m、深さ約15.2mと、一段と大きくなっています。

ドックと対面している建物の壁には、こんなひし形。

ドックインするときは、このひし形を目印に操船するそうです。

これは、途中にあった、錨を用いた(?)オブジェ

プレートには、こう言う事が書かれていますが、

それらしき施設は???
この奥の建物がそうだったのかな?

これは、基地内の某所で見かけた車のプレート表示。

いま、USSロナルド・レーガンは居ないはずなんですけどね。

これは、基地内を走っているバスの路線図。

基地内をグルっと一周しているような感じの路線です。

場所を少し変わって、こちらは、スーパーマーケットや、
スポーツジムなどが入っているJames D. Kelly Fleet Recreaion Center

残念ながら、中で買い物はできませんでした。
基地内で消費する分には問題無いのですが、
ここで買って基地外に持ち出すのは、輸入関税などの問題があるので、
持ち出すことを前提に、ここで買い物を行うのはダメだと言う説を
聞いたことがあります。
でも、入りたかったなぁ。

そのJames D. Kelly Fleet Recreaion Centerの向かいにあるのが、
港湾管制ビル。

基地内のバースの管理を行っている部署だそうです。
空港で言うと、ランプコントロールみたいなもの?

この写真は、第6ドックイン方向。

距離があるのと、いま、艦船が入渠中であると言う事で、
ここにはいきませんでした。
って言うか、元々ツアーコースにもなっていない様です。
USSロナルド・レーガンがいつも停泊するのは、
この赤いクレーンの下のあたりだそうです。
ちなみに、この第6ドライドックで空母信濃が建造されています。

ツアーは、このあとランチ休憩に入ります。
ランチの模様は、別のポストで。

ランチの後は、ツアー再開。

こちらは将校クラブです。


入口のマット。

当初は、旧日本海軍の旧水交社の建物を使用していたそうですが、
後に、現在の場所のこの建物に建て替えられたそうです。

その将校クラブの前にあるのが、この方位盤。

これも、旧水交社の前にあったそうですが、
将校クラブの移転とともに、
この方位盤も移転してきたそうです。
この方位盤は、さまざまな地域から来ている軍人が、
自身の郷里の方向を知るのにも使ったそうです。

これは、将校クラブの入口の傍らに立っている記念碑。

昭和天皇の母、皇太后節子妃が旧海軍工廠を訪問したことを
記念したものだそうです。
こう言う、旧日本海軍に関連する者が、結構残っています。

これは、USNHと書いてあるので何かと思ったら海軍病院でした。

旧日本海軍時代も、この場所に海軍病院があったそうです。
特徴としては、緊急事態のトリアージエリアなどに使用するために、
廊下が幅広く取られているそうです。

上記の病棟は、旧日本海軍の頃からは立て直されていますが、
こちらの病棟は、旧日本海軍の頃の建物をまだ使用しています。

関東大震災の後に建てられたそうで、特徴として、
地震の揺れに耐えられるように、窓が縦長になっています。

その昔からの病棟の向かいあたりに、旧奉安殿。

当然、いまは空ですが、いまだに建屋が残っているとはねぇ。

ちょっと順番が前後してしまいましたが、救急車です。

後ろにも並んでいるので、6台はあります。
こんなに必要なの?
まぁ、有事になればいるだろうけどね。
って言うか、見た目が日本仕様のambulanceですね。
テレビで見るような、

病院関連の最後
旧日本海軍の病院の頃の門柱。

色は塗りなおされたように見えますが、
ものとしては残っています。

これは、防空壕があるとされている山

封鎖されているトンネル形状の入口は、
ここ以外にも目にしました。
あれも、防空壕なのかな?

そして、その旧?防空壕の向かい付近にあるのが、
第7潜水艦群司令部。

第7艦隊第74任務部隊を構成している部隊の様です。
建物には、窓がありません。(反対側にはあるのかもしれませんが)

さて、ラストスパート。
最後のメインですね。

こちらは、旧横須賀鎮守府会議所・横須賀海軍艦船部。

現在は、米海軍横須賀基地司令部庁舎として使用されています。

門柱には、嘗ての名称の横須賀海軍艦船部と言うプレートと、

横須賀鎮守府会議所のプレートが残っていました。


ここは、中に入る事が出来ます。
中と言っても、入口のロビーまでと言う事ですが。

まずは、入口の外側にあるフロアマット

入口の内側のフロアマットはこちら


中に入ると、こんな展示ホールになっています。


これが、現在のアメリカ軍の指揮権限者たち。

トランプ大統領!

下側の3人が、横須賀基地の面々で、
真ん中の人が現在の横須賀海軍施設の指揮官の
Jeffry J. Kim大佐。
左が参謀長のChad W. Spencer中佐、
右は先任伍長のWarren L. Britten部隊等最先任上等兵曹

これは、基地内の年間/四半期の優秀者を示すパネル


そしてこちらは、基地内の各セクションの責任者の様です。

軍人のみならず、NEXの支配人などの文民の幹部も載っています。

これは、言わずと知れたZ旗

Z旗と言えば、東郷平八郎。
東郷平八郎と言えば戦艦三笠ですが、
戦艦三笠の保存に際しては、
アメリカ海軍も、と言うか、ニミッツも少なからず
力を注いでいますからね。

その他、横須賀基地のジオラマもあったんですが、
ガラスに周りの様子が反射して、上手く写らずorz

時間が押していたようで、ゆっくり見る事が出来ないまま、
米海軍横須賀基地司令部庁舎を退出。

隣には、旧横須賀鎮守府庁舎で、いまは在日米海軍司令部庁舎。

これが、実物です。
言われている通り、一番上の正面右側三階部分の窓が、
塞がれています。
インターネット上の辞書サイトでは、
塞がれた理由の『詳細は不明』と書いてありますが、
どう考えても、秘密保持のためですよね。
J2(情報)関連の部門があるのではないかと。

こちらは、正面入り口の奥上部にあった紋章

ズームで撮りましたが、結構撮れていますね。
在日アメリカ海軍の紋章は、これなんですね。


米海軍横須賀基地司令部庁舎/在日米海軍司令部庁舎から、
坂を下っていくと、その存在を示すプレート。

それぞれが建っている位置に即して、
左側には在日米海軍司令部、
右側には海軍横須賀基地司令部
と言う事が書かれています。

そして、これが最後かな。
その上記のプレートを下り、正面入り口の近くに、
基地内労働者感謝の碑があります。

これは、この基地で働く日本人労働者に対する
感謝を示した記念碑だそうです。


10時前から15時前まで、ランチの1時間はありますが、
それ以外の4時間は、歩いていました。
でも幸いに、そんなに疲れは感じません。

このベース歴史ツアーは、
雨に見舞われることが多いそうなんですが、
私が参加した2017/06/04の日曜日は、
うっかりすると、暑いくらいの晴天。
いやぁ、天候にも恵まれて、良いツアーでした。

20170518 大人の社会科見学 vol.31@上野ミュージアムウィーク2017 『寛永寺特別参拝』

2017-05-18 | 大人の社会科見学
毎年5月18日は、『国際博物館の日』と言う事で、
博物館関連の様々なイベントが開催されるそうです。

そんなイベントの一つに、
徳川将軍家の霊廟が参拝できるという寛永寺特別参拝イベントがあり、
申し込んでみたところ当選したので行って来ました。

カメラを持って行ったんですが、根本中堂の外観以外は、
撮影不可と言う事で、写真はありません。
悪しからず。

さて、特別参拝当日の今日は、朝は晴れていたものの、
午後から雷雨の確率が高いというかなり微妙な天気。
実際、空を見ると、このまま曇っていって、
雨が降り出しても不思議ではない様な感じ。

上野駅で近傍でランチを摂った後、ぐるっと回って、
通ったことのない、開山堂(両大師)や輪王殿の前へ。
途中の陸橋から。

こんな感じの見え方がするんですね。

そして、東京国立博物館の前を横切って、
藝大の手前で曲がって、国際子ども図書館とトーハクの間を通って、
寛永寺第三霊園側から、境内へ。

上野の寛永寺。
正確には、東叡山寛永寺。
その名前は当然知っていて、且つ、上野には何度も何度も来たことがありますが、
寛永寺に来たのは、初めて。
嘗てはね、上野恩賜公園の敷地全体が、寛永寺の境内だったわけですが、
いまの時代からみると、上野公園の奥に位置しているように見えてしまいます。
時代の流れと言えば、そうですが、なんだかね。

特別参拝開始は、14時からですが、受付は13時半から。
ちょうどその頃に、根本中堂に到着したところ、
既に受付を済ませてしまった人たちが多数。
比較的年齢層の高い方たちですが、待ちきれなかったんでしょうね。

14時の開始までの間、根本中堂の中を少し見てみます。
須弥壇中央には、十二神将や四天王、毘沙門天、不動明王などがたくさん配置。
東京国立博物館の十二神将の展示も見事ですが、
実際に祭られてお参りされているこちらは、より素晴らしく見えました。
いやぁ、凄いですよ。

さて、14時なり、寛永寺の住職がやってきて、まずはお話から。

  • 今回の、特別参拝の倍率は8倍だった
  • 江戸城を中心として、鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺を配置。もともとは、国全体の未来を願うためのものしての役割が寛永寺で、一方の増上寺は、徳川(松平)の菩提寺としての役割だった。
  • 未来を願うと言う事で、寛永寺のご本尊は薬師如来。増上寺は、菩提寺と言う事なので、阿弥陀如来である。
  • 上野は、京都・滋賀を模して造営されたと言われているが、上野の桜は、元々奈良の山桜を模したもの。しかし、戦争ですべて焼失してしまい、今の上野の桜は、戦後、ソメイヨシノを植えたものである。
  • 寛永寺貫首は、慈眼大師天海が開祖だが、三代目貫首からは、寺格と言う事もあり、宮様が来て、輪王寺宮と呼ばれた。
  • 寛永寺の本坊は、絵が残っていない。輪王寺宮の宮さまの住んでいるところだから、畏れ多いと言う事なのだと思う。
  • 寛永寺には、多くの支院があるが、名前に“院”が付くのは藩が寄進して、寛永寺にお参りする時に、休憩や支度などの際に使ったもの。従って、“院”は、寄進した藩でなければ、使えない。一方、清水観音堂など、名前“堂”が付くものは、そう言うものではなく皆のお参りする事が出来るところである。
  • 寛永寺用語で、表方=将軍のみ、裏方=将軍以外の徳川家の人びと
  • 幕末、江戸城は無血開城されたが、篤姫が最後まで反対して粘ったと言われてる。しかし、周囲の人々が「一時的なものですから」と説得して、篤姫も江戸城から退去することになった。実際には、一時的ではなく、永遠に江戸城に戻ることはできなかったが
  • 上野戦争の頃、江戸の庶民の感情としては、薩摩などのよそ者よりも、地元で親しみのある彰義隊の方に心情的には近かった。
  • 上野戦争では、寛永寺は焼け野原に。そして、今の西郷像付近に、彰義隊犠牲者の遺体は集められたが、賊軍と言う事で、埋葬することも弔う事も許されなかった。そんな中、南千住・箕輪の円通寺の住職が自らの命を賭して彰義隊犠牲者を弔ったので(寛永寺の僧侶は、戦争の際に逃げてしまい居なかった)、御成門が円通寺に移されたという由来がある。その御成門は現存している
  • 昔の根本中堂は、今の上野公園の噴水付近にあり、大きさも、東大寺大仏殿にも勝るとも劣らないような、間口が今の2倍ある、かなり大きいお堂だったが、彰義隊の上野戦争で焼失した。

根本中堂でのお話はこれくらい。
ここからは、葵の間、徳川将軍霊廟に移っての解説です。

  • 徳川15代将軍慶喜蟄居の間、葵の間。2回移築されていて、材料を継ぎ足さないでいたので、大きさが二畳ほど小さくなっている。奥には、廁。
  • 徳川将軍霊廟。徳川宗家の拝殿、御三卿の拝殿がある。御三卿の、田安家、一橋家は今もお参りに来る。一方、清水家は、今の当主がクリスチャンなので(挨拶などには来るが)参拝には来ない。
  • 今回は、“特別参拝”と言う位置付で徳川将軍霊廟を見てもらう。従って、見るだけではなく、お参りも願いたい。
  • 五代将軍綱吉の墓は銅製。一番大きい。当時、将軍の葬儀は、秘密裏に夜に行っていた。宝塔の中に公卿座りで土葬されている。霊廟の回りの石垣は、元々は無かったものだが、勝海舟が霊廟が荒らされるのを憂い作った。その際、霊廟にあった灯篭を売って資金を捻出したので、元々徳川将軍霊廟にあった石灯篭が、全国に散らばっている
  • 八代将軍吉宗の宝塔は五代将軍の隣にある。石製で質素。吉宗以降の将軍は銅製禁止とした。また、霊廟を新たに造成するのも禁止し、既にある霊廟に宝塔を設けることとした。吉宗は、綱吉を尊敬していたとも考えられ、故に、綱吉の隣に墓を作ったのではないかと考えている。また、吉宗の宝塔、ここに至る石畳は、関東大震災、東日本大震災を経ても、しっかりしている。それだけ、当時の技術の粋を極めて作られている。現代の技術者に見せても、凄い技術で作られているとのこと。
  • 十一代将軍になる予定だった家基の宝塔もある。家基は、将軍になる前に品川で亡くなった。徳川家で、名前に“家”の文字を持ちながら、将軍になれなかった唯一の存在で、将軍同格で祀ってある。
  • 五代将軍綱吉の宝塔を挟んで、八代将軍吉宗の反対側に、十三代将軍家定と家定正室の篤姫の宝塔。通常、裏方の存在が、この様に祀られる事は無いが、篤姫は将軍同格に祀ってある。16代の当主が祀ったのだが、それほど篤姫の存在が徳川家にとって大きかったと言う事と、篤姫は明治の世になってから亡くなったから可能であったと考えられる。
  • 徳川宗家16代当主の家達とその奥方のそれぞれのお墓と17代当主家正が夫婦で眠るお墓もある。16代目からは、土葬ではなく火葬になった。18代恒孝氏も、将来はここに眠る予定となっている。
  • 最後の輪王寺宮の北白川宮能久親王は、上野戦争では、兄の小松宮彰仁親王と戦う事になった人。その後、還俗し、軍務について台湾で薨去。皇族にあたるので、宮内庁の管轄になっているが、寛永寺貫主であったので、寛永寺で祀ってもいる。

明示的には言いませんでしたが、住職の言葉の端々に、
徳川家への尊敬の念を感じました。
逆に言うと、幕末の薩長の動きに、疑問を感じている様にも思えました。
いやぁ、勉強になりました。

さて、写真は撮影不可と最初に書きましたが、
ちょっとだけあります。

これは、根本中堂の屋根の上。

寛永寺自体が、葵の御紋にまみれているんですが、
ここにもあるんですね。

そしてこちらは、根本中堂の前にある灯篭。

アップ。

これにももちろん葵の御紋。

これは、鐘の付近にあった、旧本坊表門鬼瓦「阿」形


これは、その隣にある、根本中堂鬼瓦


こんど、増上寺にも行ってみようかなぁ。