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さまざまな道

2021-12-31 | 掌編

 大みそかの、あわただしくにぎやかな一日。晩のごちそうがすんでから、ほっとひといきつける時間がありますように。

 この一年は、どんな年だったのでしょう。新しい年が、少しでも良い年になりますよう。お住まいの地では、新年を祝う花火があがるでしょうか?

 

 

  それぞれの旅路 ―道標―

 

 「菅野君、ちょっと来てくれ」

 八月の始め、みなが出払っていた営業所の一室に残っていたのは、所長と菅野由雄の二人だけだった。何事だろうと思いながら、由雄は所長の席に向かった。

「どうだ、今年は花火大会に行ってみないか。まだ何も予定が無いとしたら、ぜひ見てもらいたい。私も、今年度いっぱいで定年となるし、君と見ることができるのは、今年しかないんだ。返事は今すぐでなくて良い。どちらにしても席はとってあるから。それと、高橋君のご両親も誘っている」

 最後の言葉を聞いた途端、由雄は動けなくなった。どう答えようかと思っていた口元からは、迷いの言葉さえも消えていくのがわかった。いつかはきっと向き合わなくてはならない時が来ると思いながら、過ぎてみれば六年半近くもの歳月が経っていた。そのことをずっと避けてきた結果が、今の由雄そのものだった。

 菅野由雄が、花火で有名なこの地の営業所にやってきたのは七年前の春のことだった。人事交流という名目で、菅野が在籍していた県外の営業所には、今は亡き高橋が着任した。一年限りの赴任期間があと数週間で終わるという時に、大きな地震と津波、そしてそれに続く大災害が起こった。営業で外回りをしていた高橋は、その時に命を失った。それがどの時点でだったかは定かでなく、しかも、亡骸は未だ生家に戻ること無く過ぎていた。由雄も戻る機会を失ったままだった。

 髙橋の死は、どちらの営業所にも深い悲しみをもたらしたが、時の経過とともに、それはゆっくりと消えていった。ただ、両方の営業所長、そして由雄の心だけが、それぞれ微妙な違いがあるにせよ、晴れないまま今日に至っていたのである。

 あの時髙橋が命を落としたことに、由雄が責任を感じる必要など何ひとつ無いのだった。そんな当たり前のことを、その通りに思うことができたら、何の苦労も無いはずだったが、現実には違っていた。高橋が自分の身代わりになって死んでしまったようなものだという思いは、一日たりとも、頭から離れなかったのである。罪悪感は高橋の消息が不明となった時に芽生え、心の真ん中にずっと居座った。それは時に、膨らんだり影をひそめたりを繰り返していたが、その居場所を変えることは無かった。

 由雄は、故郷の親類や知り合いが、何人も亡くなったことが悲しかったが、それ以上に自分の身が悲しかった。けれども、気持ちのすべてをうまく表現できないまま、月日は過ぎた。誰もこの気持ちをわかるはずはない。そんな思いが、いつしか由雄から言葉そのものを奪い、その悲しみは、無気力という姿に形を変えていた。覇気のないまま、最低限の仕事をこなすだけの日々が長く続いていた。それは、ついさっき所長の誘いの言葉を聞くまでそうだった。

 だが、由雄は退社間際に所長の席に行き、ご一緒させてくださいと、短く告げたのである。

 髙橋の両親と同じ桟敷で花火を見る。そう決めて初めて、由雄は両親の深い悲しみが、あの日から今日まで、どのように移ろってきたのかに思いを巡らせていた。きっと自分とは違う悲しみを持ち続けてきたことだろう。どれだけ涙を流しても、母親のそれは涸れることなく湧き上がり、一足先に泣くことを止めた父親であっても、心の中では何度も泣いてきたのではないか。そんなふうに思えて仕方が無かった。花火までの数週間は瞬く間に過ぎていた。

 当日は、朝から良く晴れていた。それでいて、暑さにどこか季節の変わり目の兆しを感じるような、さわやかな日となった。由雄は、会場からはるか遠く離れた場所に車を置き、歩き出した。会場に近づくにつれ、車の通行は早くから禁止されていたらしく、人の波は広がっていた。道路の両側、歩道部分には屋台や露店が連なり、にぎやかさに拍車をかけている。道路のすべてを、そしてこの日一日限りの店の前を、あらゆる世代の人たちが、さまざまな組み合わせで歩き、立ち止まってもいた。由雄は、初めて見るその光景に圧倒された。

 驚きを持って、しかし十分に気を付けながら歩いていた由雄の目に、何故だかふと、屋台の前に並ぶ子連れの数人の男女が映った。どんな関係なのだろう。ぼんやりと思いながら、その横を過ぎようとした時、親子らしき三人の話す声が聞こえてきた。喧噪のなかでその声だけが真っ直ぐ由雄の耳に届いたのは、それが故郷の訛りと同じだからだった。

 それに続いて、

「**子さん、ここでは恥ずかしがらないで大きな声で話した方が良いよ。こんなにたくさんの人が来ているんだから、どこかに同じふるさとの人がいるかもしれないし」と言う男性の声がした。二人の女性が、小さく声を返したようだった。

 思わず足を止めた由雄は、その人たちに声を掛けてみたい思いに駆られたが、すぐには適当な言葉が思い浮かばなかった。その一瞬の戸惑いが、後ろからの人波に抗する力を失わせ、由雄の身体は再び前へと向かい始めた。目の前に信じられないような大観衆の後姿が現れたのは、それから間もなくのことだった。

 席券の数字を頼りに桟敷席に着くと、所長夫妻、そして高橋の両親がすでに座っていた。

「おぉ、来たな。迷わなかったか。今日は升席を二つ確保したから、ゆっくり見てくれ。寝転がっても良いんだぞ」

 うれしそうに声を上げた所長は、由雄が席に着いたのを見届けると、真面目な顔になって言葉を続けた。

「あらためて、高橋君のお父さんお母さん、今日は良くお出でくださいました。ご両親と私たち、そして菅野君とで見る花火は、今日が最初で最後かもしれません。お二人のお気持ちは、まだはるか遠くにあることと思いますが、今日はどうかゆっくりご覧になってください」

 所長夫妻が丁寧に頭を下げると、両親も深々と応じた。遅れて由雄も頭を下げたが、口にすべき言葉を見つけられず、なかなか頭を上げることができなかった。そんな由雄の肩を、膝を折ったままの姿勢で近づいた二人が、やさしくたたいた。

 

 由雄と二組の夫婦は、わずかずつ離れ、前を向いたまま、花火を見続けた。それぞれの夫婦が時々短く会話をしているようだったが、低く漏れた歓声のほかは、その中身は良く聞こえなかった。初めて間近で見る花火の美しさは、言葉で言い尽くせないほど素晴らしく、その思いは最後まで続いた。一万をはるかに超えた数の花火が、さまざまな色で光っては消えていき、長いかと思われた時間は、あっという間に過ぎた。

 そして、帰りを急ぐ一部の観客が少しずつ動き始めたかに見えた時、フィナーレが始まった。ゆったりとした間隔で大きな花火が何発も打ちあがり、最後には大小さまざまの花火が、間もなく秋を迎えようとする夜空の一角で、色とりどりの光を発した。それはあたかも、今しがたまで打ち上がった花火の、いのちの躍動を愛おしむかのようであったが、その花火たちもまた、役目を果たしつつ静かに消えていくのだった。

 そのさなか、いつしか目に映る花火がぼんやりとし出し、由雄は顔を上げていられなくなっていた。ズボンの膝の上には、涙の粒が、いくつもこぼれ落ちた。その涙が悲しみのいくつかをゆっくりと融かし、まだささやかではあったが、ゆるぎない力へと変えつつあることに、由雄は気づいてはいなかった。

「君は人の気持ちが分かり過ぎるから、おそるおそる上げた一歩目を降ろすことができずにいるんだな。大丈夫だ。君らしくゆっくり歩けば良いんだから。それに、君の想像がいつも当たっているとは限らないぞ」

 着任して間もない頃、笑顔で所長に言われた言葉が、ふと浮かんできた。所長とは残りわずかの期間を精いっぱい頑張ろう。そしてその先は……。

 由雄の中で、高橋の両親に告げたい思いが芽を出していた。それが聞き入れてもらえるかどうかは自信が無かったが、これから春まで、そしてその先もずっと、両親のもとを訪れようと思った。途中で見かけた五人に、いつかどこかで出会うことがあるだろうかと心の片隅で思いながら。

 

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