風に吹かれて行こう

お米の便りを、写真でもっとわかりやすく!

まだ3月ですが

2022-03-26 | 掌編

 

   穏やかな奇跡

 

 数日前から続いていた雄太の迷いは、最高潮に達していた。家路を急ぐ自転車のペダルがことさら重く感じられたのは、いつもなら隣にいる孝之が、この時もいないことに大きく関係していた。

 雄太は高校三年生。修明高校の弓道部員である。高校生活最後の大会が、雄太の住む市の隣町にある弓道場で行われていた。

 この日、修明高校は団体戦の予選を好成績で終えたことで、翌日の決勝進出を決めていた。地元に近い場所での開催ということに加え、これまで一度も予選通過をしたことの無い修明高校の快挙ということで、翌日の盛り上がりは充分に予想されることとなった。

 その大事な決勝の日にさえ、このままいけば、頭ひとつ抜きん出た技量の持ち主である孝之がいない。今日の予選では、補欠としてその大任を果たせた雄太であったが、決勝ともなればその重圧が今日の比ではないことは容易に想像できた。やる前からあれこれ考えてもどうにもなるものでもないとは分かっていても、期待と不安が不規則なリズムで雄太の胸中を行き来していたのである。

 しかし、雄太の迷いはそのことではなかった。それが日を追う毎に大きくなり出したのは、孝之が大会を目前にして、突然練習を休み出した原因を知ったのがきっかけだった。

「孝之君の家の苗が病気になってしまって、半分以上もダメになったんだって」

 どこから聞いてきたのか、夕食の最中に母がそんなことを口にした。

「何だって? 今、この時期にか」

 思わず大きな声を発した父がそれに続けた言葉は、雄太の心を暗くするものであった。

「これから種を播き直したとしても、もう田植えには間に合わないだろう。田植えの済んだ家から、余った苗を分けてもらって植えるしかないだろうな。けれども半分もダメになったとすれば、それはかなり大変なことだ。余った苗が集まり次第の田植えだから、すっかりできるのが一体いつになるのか。人手がいくらあっても足りないことになるな」

 父の予想通りと言うべきかどうか、孝之が練習を休んだのは、その話題が出た翌日からであった。その日の練習が終わった後に、監督が、孝之は大会に出られないかもしれないと言った。

 ずっと頑張り続けてきて、しかも初めて優勝できるかもしれないという時に、孝之がいない。最後の大会となることは雄太にとっても同じであったが、何としても孝之に出てもらいたいという思いが、その時静かに芽吹いたのだった。

 選手として出場する部員の技量は、孝之以外ほぼ同じだった。あとは、本番でいかに普段の力を出し切れるかどうかの違いだったのである。その点に関して雄太は、自分が他の部員に比べて若干劣っていることを認めざるを得なかった。そして補欠となっていた理由も、まさにそれだった。

 自分が手伝いに行けば、孝之は出ることができる。雄太の思いは、これ以上は無いと思えるくらいに膨らんでいた。

 農家の息子として、それなりの手伝いをしてきたという自信が無かったなら、雄太の迷いもどこかで止まっていたに違いなかった。しかし、そのささやかな自信は、今は迷いを勢いづける何ものでもなかった。

 帰宅して玄関の戸を開けた雄太に、中から父の声がした。

「やったな、雄太。明日も今日のようにできればいいな」

 その声にどう返事をしてよいのか分からず、雄太はその場に立ち尽くしていたが、入って来る気配が無いことを心配して出てきた父に向かって、絞り出すような声で言った。

「父さん、おれ、明日は孝之から出てもらおうと思ってるんだ」

「何っ、一体どういうことだ。本気でそんなことを言っているのか。試合に出るのが怖くなったか」

「そうじゃない。そんな気持ちが無いと言えば嘘になるけど、一緒にやってきた孝之の気持ちを思うと、どうしてもそのままにしておけないんだ。それに孝之が出られたとしたら、優勝できるかもしれない」

 ありったけの思いから発せられた言葉であったが、その時、雄太は父の顔を見ることができなかった。

「そうか、そうしたいと言うなら、そうすればいい。その方が後々悔やむことも無いだろう。父さんとしては、どんな結果であれ、雄太が明日も矢を射るものと思っていたんだがな」

 少し力の抜けた父の言葉に、雄太はごめんとだけ答えた。そしてすぐに、監督と孝之に電話をかけた。

 翌朝早く、雄太は孝之の家に向かった。だが、着いた時には孝之の自転車は、もうどこにも無かった。

 作業場の戸はすでに開いていた。入り口近くにはツバメの巣があって、親鳥がヒナに一生懸命餌を運んでいる最中だった。それは、小さなころから見慣れていた、孝之の家での光景だった。中にいた孝之の両親が雄太に気付き、迎え入れてくれた。

「雄太君、ごめんね。でも本当にありがとう。電話をもらってみんなずいぶん迷ったけど、あなたの気持ちを受取らせてもらうことにしたわ。今日は大変だろうから、無理しないでね」

 すまなそうな表情をした両親を見て、雄太は「大丈夫です」と答えた。

 しかし、さんざん迷ったあげく決めたはずだったのに、作業を手伝う雄太の心は、急に揺れ動いたりした。「自分はもうここにいるというのに、自分の心はなんということだ」と、情けない思いが込み上げてくるのを感じたのは、一度きりのことではなかった。

 そんな複雑な気持ちとは裏腹に、雄太の仕事ぶりは手馴れたもので、田植えはそれなりに進んだ。

 そして間もなく昼食の時間という時、車でやって来た父と母の声が、雄太に会場に行くよう促した。その時、父は朝と違い、作業服姿となっていた。

「父さんね、雄太の思いを尊重することも、雄太を応援することなんだよなって言ってたのよ」

 車内で母がそう言ったのを聞いた時、父の思いも同時に届いた気がした。

 会場に着くと、雄太は、屋外にある弓道場に向かって走った。その時、二羽のツバメが的場の側から飛び上がったのが見えた。

 

 観客の立ち並ぶ場所に着いた雄太の目に飛び込んだのは、大きく体勢を崩した孝之の姿だった。すでに放たれたらしい矢は、並んだ的の上に張られた安土幕の所に見えた。紫色のその幕には、至誠の二文字が白く染め抜かれていて、矢はその文字のすぐ近くにささったまま、だらりと垂れ下がっていた。

 目の前の光景が何を意味しているのか瞬時には判断がつかなかったが、二羽のツバメのことを思い出して、雄太はそこで何が起こったかが分かったような気がした。

 大勢の観客は、孝之の放った最後の一矢が的を外したことで、勝負の結果を理解したのだが、その決着にどう対応したら良いのか決めかねているようであった。

 その静寂は、しかし、孝之が静かに体勢を立て直し、修明高校の射手全員が揃って一礼をした時に、ゆっくりと破られた。事情を呑み込んだ観客の順に、拍手は静かに広がっていった。その間に、的や安土にささった矢は、係の生徒たちに素早く抜かれていたが、ただ一本だけは残されたままだった。拍手は高ぶることなく長く続いた。

 

 孝之と帰るのは何日ぶりのことだろうと思いながら、雄太は自転車のペダルを踏んでいた。ついさっき、「ありがとうな」と照れくさそうに言った孝之の一言が、雄太の心を温かくしていた。

 目にすることはできなかったが、最後の一射の穏やかな軌跡と、自分の選択を支えてくれた周りの行為の中に、多くの誠があったことを、今の雄太は感じていた。何よりも、この先ずっと、孝之とは今日の話ができる。そのことがいちばんうれしかった。

 雄太の心の中には、光の矢が至誠の二文字を携えて、どこまでも進んで行く様子が浮かび上がっていた。

 さわやかな五月の風が、間もなくやって来る六月に向かって、それとは気付かせぬくらいにやさしく吹いていた。

 

 


寄り添う間隔

2022-02-16 | 掌編

 おめェ、カカァと喧嘩したんだって。何でそうなったんだよ。はたから見ても、おめェにはもったいねぇような女房じゃねぇか。早くあやまっちまえ。とにかく早くあたま下げるんだ。

 

 そんなわけで

   (前ふりと本文には一切関わりがございません)

 母洋子の命日の一日が、何事もなく終わろうとしていた。突然訪れた悲しみの日から、早くも一年。そして、夫の浩之が家を出て行ってからは、すでに一ヶ月が過ぎていた。

 音ひとつしない、静かな夜だった。時計の針は八時を回っていた。若い由紀にとって、それは少しも遅い時間とは言えなかったが、微かな期待を諦めに変えるには、決して早過ぎる時間ではなかった。

 由紀の推測通りだとすれば、今日、浩之は仕事が休みのはずである。それがこの時間になっても姿を見せないということは、きっと心を決めたに違いない。そう思った途端、長かった一日の疲れが急にやって来た気がして、由紀は、いつしかぼんやりとしていた。

 ふと、外から、ごめんくださいという女性の声が聞こえた気がしてドアを開けると、はたして立っていたのは三人の女性だった。顔を出した由紀を見て、中の一人がほっとした表情になり、言葉を続けた。

 「突然ごめんなさい。私たち、洋子さんといっしょに太極拳をやっていたものです。今日は確か洋子さんの命日だったと思って、ご都合も伺わずにおじゃましてしまいました。ご迷惑でなければ、お線香をあげさせてもらえませんか」

 そう話した女性のことを、由紀はうっすらと思い出した。一年前のあの時も、母との関係を今と同じように話し、焼香してくれた人だった。

「ありがとうございます。母も喜びます。散らかっているのですけど、どうぞ入ってください」

 由紀は、恐縮しながら招き入れた。

 三人は、小さな仏壇の前で揃って手を合わせ終わると、それぞれが名乗り、改めて、遅い時間の訪問を詫びた。

「練習が始まる前、洋子さんの話が出たのをきっかけに、古くからの仲間三人で来たんです。あのぅ、こんなこと言ったらヘンに思われそうですけど、洋子さんを偲びながら、私が代表して、ここでやらせてもらって良いですか?」

 思いもかけない申し出に、由紀は一瞬驚いたが、すぐに笑顔になり、お願いしますと答えた。

 母が長く続けた太極拳。母は時々、それを居間でもやっていたのである。

 ある日のことだった。

「ねぇ、由紀。ちょっと見ていて」

 そう言うと、母は肩幅に広げた両足を前後に開き、一つの動作をゆっくりとやって見せた。

「これが、両手を前に伸ばしていって、相手を押す動き。両手が伸びきらないうちに、今度はゆっくりと引いてくるの。押してきた両手を受け止めながら、逆らわずに引き込んでいるのよ。で、もう一回こっちが両手で押していくんだけど、この時大事なのが、上体を真っ直ぐに保つこと。前のめりになると、後足の踵が浮いてしまうのよ。これは完全に押し過ぎっていうことなの。相手にスッと身をかわされたら、自分から倒れてしまうわ」

 言い終わると、母は由紀をじっと見た。

「母さん、いったい何が言いたいの。そんな回りくどいことをして見せなくても、はっきり言ったらいいじゃない」

 その少し前、由紀は浩之と口論をしていた。けれども実際には、由紀の強い口調だけが、家の中で響いていた。母が言っているのは、きっとそのことだと感じて、何度も踵を浮かす母に、つい強く当たってしまったのだった。

 

「ここだったのよねぇ」

 突然の言葉に、由紀は、ふと我に返った。

「そうそう、よりによって段位認定試験の時に踵を浮かせてしまうなんて、初心者ならともかく、洋子さんがするはずがないミスだったわよね。あれさえなければ、みんな揃って合格を喜べたのに、本当に残念だった…」

 三人は、その時の様子を次々に口にした。

「あらら、洋子さんが、早く続けてって言ってるみたいよ。ちゃんと最後までやらなくちゃ」

 少しの中断があったものの、五分ほどで一連の動作は終わった。何だか、洋子さんがそばで一緒にやってくれていたような気がしましたと言って、女性達は帰って行った。

 由紀の頭の中では、先ほどの会話とその直前の動作が、何度もくり返されていた。

 あの時以来、太極拳をやっているそばを通ると、決まって、先ほどの動作を見せ、時にはこう言った。

「由紀がイライラしてしまう気持が、母さんにもわからないわけじゃないのよ。でも、あまりにも押し過ぎてる。あなたは、ひとりで勝手に倒れそうになっているのを受け止めてもらっていることにも、気づいていない」

 けれども、由紀の心は、そのたとえを受け入れることを、ずっと拒んでいた。それどころか、母が試験の結果を口にした時に、慰めの言葉をかけることさえしなかった。

 それがついさっき、事情が明らかになったことで、由紀の気持ちは動揺し始めていた。次々によみがえってきた母との何度かのやり取りや、肝心の浩之とのいさかいの場面が、今までとは少し違った色合いになっていることを感じないわけにはいかなかった。

 そして、思い出す度に悔やまれる、浩之が出て行く少し前のやり取りは、すっかり別の色となっていた。

「由紀、今のうちに言っておくけど、由紀には本当に感謝しているよ。もし別れるなんてことになってからだと、言えないだろうし、たとえ言えたとしても、素直に受け取ってはもらえないもんな。ま、今までも何度か言ったから、心残りはないけどさ」

 別れるなんて言葉は、浩之も冗談半分で言ったはずだった。でもその時、由紀はどうした弾みからか、つい言い返していた。

「何度も、って、私一度だって聞いた覚えは無いよ。浩之がちゃんと言ってくれたら、私だって言ってもいいかなって思ってたけど」

 深く考えずに出した言葉だった。その時の浩之の困惑した表情は、日数が経つに従って、一層鮮やかに由紀の心に浮かんで来ていたのである。

 チャイムの音がして、由紀は現実に戻った。ドアを開けると先ほどの女性が立っていた。

「ごめんなさい、大事なことを言い忘れていたの。洋子さん、あなたのことをほめていたのよ。いつも娘にだけ厳しく言ってしまっているんだけど、ダンナさんのこと、良く支えてるんだよって。じゃぁ、元気でね」

 それだけを言うと、忘れていた届け物をちゃんと渡しましたよ、とでも思えるような仕草をして、女性は帰った。

 

 もう一度チャイムが鳴ったのは、それから間もなくのことだった。浩之の声がしたのを聞き、由紀は急いでドアを開けた。

「ごめん、本当はもっと早く来ようと思ったんだけど、急に仕事が入ってしまって」

 すまなそうに言った浩之に、由紀はありがとうと口にして、居間に上がるよう、促した。

「もしかしたら来てくれるんじゃないかと思ってた。ううん、思ってたんじゃない。願ってた。でも諦めてもいたの。私はずっと、言うことばかりに夢中になっていた…」

 浩之は、それには返事をせず、仏壇の前に座り、ゆっくりと蝋燭に火を灯した。線香に火をつけ、それから合掌した後、しばらくそのままだった。

 「ねぇ、晩ごはんまだだったんでしょ。何にもないけど、良かったら食べない?今すぐ準備するけど」

 由紀は思い切って言ってみた。

「ありがとう。せっかくだからごちそうになるよ」

 一瞬の間を置いて浩之が発したのは、少し他人行儀にも思える答えだった。それが元々の浩之の口調から出たものなのか、それとも、自分達の最後を意識しての返事なのか、由紀にはすぐに判断ができなかった。それでも由紀は、用意した食事をテーブルに並べ、じゃまにならない程度に話しかけ、浩之の言葉を聞いた。そして、再び出て行く浩之に、いつでも戻って来てと、言葉を結んだ。

 

「母さん、今日は私、ちゃんと踵をついて浩之さんと話をしたよ。あわてないで、寄り添いながら」

 写真の中には、母がいつもと変わらずにいた。そこに向かってつぶやいた由紀の目に、母の笑顔が少し輝いて見えた気がした。

 

 *本文と当園は、一切?関係ありません(苦笑)。

 

 


分水嶺

2022-01-19 | 掌編

   ■それぞれの旅路 ー分水嶺ー

 

 島田恵津子が、長い苦悩の末に故郷を離れて秋田の片田舎にやってきたのは、秋の初めのことだった。移住の支援にあたった役場職員の柴田美喜子。すぐ近くに住む、農家の安田伸之。そして地域のさまざまな支えの中で、恵津子は二人の子どもと今日まで過ごし、気が付くと三年の月日が過ぎていた。

 上の子の祐一は六年生、妹の美穂は三年生になっていた。恵津子も移り住んで間もなく就いた仕事を、変わることなく続けていた。

 縁もゆかりもない新天地での暮らしが、どうにかなっていると、恵津子は思っていた。実際、頭を悩ませるような出来事は、それまで何もなかったのである。だから夏休み明けからの祐一の不登校は、突然の出来事のように感じられた。

 恵津子はどうにかして、元のように通わせたかった。そのためにいろいろなことをしてみたが、そのどれもが、祐一の足を学校に向けさせるまでには至らなかった。

 けれども、祐一は部屋に閉じこもっていたのではなかった。腹痛を訴えて寝ていたのも数日のことで、それ以降は農作業に励む安田のところに行って、ずっといっしょにいたらしかった。

 そのことに気が付いた時、恵津子は安田の家へ行き、祐一の行動について謝った。

「こちらから何にも言わなくて悪かったね。学校のことは心配だろうけど、僕の方は気にしなくて良いよ。それに、こう言っては何だけど、結構楽しそうにしているよ」

安田は笑顔を見せてそう言った

 祐一の様子に変化の兆しが見られないまま、時だけが過ぎて行った。いつしか村のあちこちでは稲刈りが始まり出し、好天の日が何日も続いたこともあってか、風景は一変していた。恵津子が安田を見かけた時、作業の進み具合を聞いてみたら、終わったとのことだった。その期間も度々行っていた祐一のことを、恵津子は何度も詫びた。

「本当に気にしなくて良いんだって。かえって僕の方が、学校に行かせないようにしていたみたいで、すまない気がしているよ。それより、今年は稲刈りが順調に進んだから、今度柴田さんもいっしょに、みんなで紅葉を見に行かないかい。少し遠いけど行ってみたい場所があるんだ」

 

 十月末、五人が乗った車は、南に向かって長い距離を走った。安田は車に乗ってからも行き先を告げなかった。県境を過ぎ、さらにしばらく走ってから、国道沿いの空き地に車はやっと止まった。

 みんなは車から降りると、安田の後に続いて歩き出した。それは大して広くない道で、その道に沿うように素掘りの細い水路が続いていた。

ほんの数分歩いた所には、ローカル線の駅舎があった。無人駅のようだった。入口には、木製の古い小さな黒板が掛かっていた。

「あっ、伝言板だ。なつかしいわ。今でも誰か使ったりするのかな」

そう言いながら美喜子は、秋田から来ました! と書き、改札口からホームに出た。恵津子は少しためらってから、Who am I ? と書いて後に続いた。少し遅れてきた子どもたちは、楽しそうに長いホームの中を走り回った。一緒だと思った安田の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。駅舎を出る時に二人がもう一度伝言板を見ると、恵津子の書いた英文の下には、風編愛の文字が書かれていた。

「あー、何てことなの。彼の特技もここまで来るとお見事と言うしかないわね。でも安田君らしいや」そう言って美喜子は笑った。

 祐一が学校に行かなくなってから、恵津子の頭には時折帰郷の二文字が浮かんできて、それをつい安田の前で口にしたことがあった。安田は賛成も反対もしなかったが、もっと苦しくなるんじゃないかなとだけ言った。見ず知らずの土地での暮らしに、恵津子なりに溶け込もうとして過ごしてきたが、幾度か、自分は誰なんだろうという思いが頭をよぎったこともあった。そんな自分に、この字を書いてくれたのだろうか。

「でも安田君が、今急に思いついたとは思えないな。きっと何かの機会に、彼もずっと同じような思いをして、いつかこんな言葉が浮かんで来たんじゃないかしら。彼もいろいろあったからね」

 私もいろいろあったのよ。もちろん今でもと付け加えて、美喜子はもう一度笑った。恵津子は持っていた携帯で、その伝言板を写真に撮った。

 駅舎を出てみると、先に出ていたらしく、水路の所に安田が佇んでいた。水路はその場所で小さな池のようになり、そこから二方向に分かれていた。ゆっくりと流れてきた何枚もの葉がそこで左右に分かれていくのに、四人は気付いた。

「ここが、見てみたかった場所、分水嶺。片側は太平洋、もう一方は日本海に通じているんだって。ずっと一緒だった流れが、ここで正反対の方向に離れ離れになってしまうなんて、何だかすごい気がしないかい? いつもの変な癖で、こういうのを見ると、すぐ人生に重ね合わせてしまうんだよな」

「じゃあ、同じ木にいたのかもしれないのに二度と会うことは無いの?」

 それは、恵津子の思いを代弁したかのような祐一の言葉だった。時に反発し合いながらも、一緒にいられた日々を奇跡の連続とも思わず、すべてに別れを告げる日が、ある時突然訪れた。

 悲しいけどそうだよと、安田がやさしく言った。そして、

「海までのとても長い道のりの途中で、どっちに行った葉っぱたちにも、数えきれないほどいろんな事が起きるんだ。だから肩の力を抜いて、やれることをやって、できなかったことはあきらめても良いんだよ。人は葉っぱと違って後戻りはできるけど、会えるのは分かれた場所じゃない。そこから、自分が歩いたと同じくらい先まで行かなくちゃ会えないんだ。だから、簡単にはできない。でもさ、お互いにがんばろうなって心の中で言ったら、言った自分が元気になる。不思議だけどそうなんだ。それに、あまりに遠くてもう会えないと思っても、きっといつか会える日が来る。だって海はつながっているからね」

「さぁ、帰りは短いように感じるかもしれないけれど、それでも長いぞ。出発しよう。せっかくここまで来たんだから、五枚の葉っぱたちで、ついでに紅葉の名所も見て行かなくちゃ。あっ、ついでと言ったら名所に失礼か」 

 みんなは少しだけ笑った。

 今度は誰が先になるでもなく、車までの道を歩いた。分かれ道からの流れを、遡りながら見ていると、幾枚もの落葉がゆっくりと目の前を通り過ぎて行く。すぐ先で別々になってしまうのかもしれないのよ。でもいつかきっと会えるからね。恵津子は心の中で、そうつぶやいた。それは自分に言い聞かせているようでもあった。

 車中では、来る時と違って、子どもたちがたくさん話をした。祐一も美穂に負けないくらい、恵津子にいろんな話をしてきた。そして、いつの間にか二人は眠ってしまった。

 三人は、子どもたちを起こさないように気をつけながら、いろいろな話をした。恵津子さんの願うような早さではないかもしれないけど、佑ちゃんはきっと行くようになる。安田はそう言った。美喜子も、私もそう思うと口にした。

「祐ちゃんは賢くて優しいよ。強くなくてもしなやかさを大切にすれば、きっと道が開けるはずさ。壁を乗り越えようと一生懸命になるのも大事だろうけど、時には横道をするりと抜けるのも悪くないと思わないかい」

 今一緒の二人にどれだけ見守られてきたことだろう。恵津子は話をしながら、そう思っていた。風編愛は、揺れ動く自分の問いに対しての答えではなかったけれど、何かの思いが重なっている気がした。それが何なのかに思い当たる日が来るのは、まだずっと先のことだろうとも思った。

 県境を挟んでの長い山道がやっと終わり、車は街に入った。どこかのコンビニでコーヒーでも買って行こうか。いや、お腹もすいたなと安田が言った。

「子どもたちも起こして、好きなものを買わせることにしようよ」

 同じような三つの言葉が、わずかにずれながら重なったことで、三人は思わず笑い声を上げた。その楽しそうな声に、子どもたちが目を覚ましたようだった

 

 

 ■「それぞれの旅路」は、一昨々年、一昨年と書いたもので、連作となっています。自分の中では、ずっと登場人物たちが生き続けています。

 

 分水嶺という言葉を初めて耳にした時、高い山のてっぺんにあるものというイメージが湧いたのでした。もちろん、そういうところにもあることでしょうが、それほど高い場所で無くても、何気なく過ぎている場所にもそうした地点があることは、驚きでした。この掌編で書いた分水嶺は、山形県の内陸部、最上郡最上町というところにあります。案内が無ければそうとは気付けないような場所でした。


さまざまな道

2021-12-31 | 掌編

 大みそかの、あわただしくにぎやかな一日。晩のごちそうがすんでから、ほっとひといきつける時間がありますように。

 この一年は、どんな年だったのでしょう。新しい年が、少しでも良い年になりますよう。お住まいの地では、新年を祝う花火があがるでしょうか?

 

 

  それぞれの旅路 ―道標―

 

 「菅野君、ちょっと来てくれ」

 八月の始め、みなが出払っていた営業所の一室に残っていたのは、所長と菅野由雄の二人だけだった。何事だろうと思いながら、由雄は所長の席に向かった。

「どうだ、今年は花火大会に行ってみないか。まだ何も予定が無いとしたら、ぜひ見てもらいたい。私も、今年度いっぱいで定年となるし、君と見ることができるのは、今年しかないんだ。返事は今すぐでなくて良い。どちらにしても席はとってあるから。それと、高橋君のご両親も誘っている」

 最後の言葉を聞いた途端、由雄は動けなくなった。どう答えようかと思っていた口元からは、迷いの言葉さえも消えていくのがわかった。いつかはきっと向き合わなくてはならない時が来ると思いながら、過ぎてみれば六年半近くもの歳月が経っていた。そのことをずっと避けてきた結果が、今の由雄そのものだった。

 菅野由雄が、花火で有名なこの地の営業所にやってきたのは七年前の春のことだった。人事交流という名目で、菅野が在籍していた県外の営業所には、今は亡き高橋が着任した。一年限りの赴任期間があと数週間で終わるという時に、大きな地震と津波、そしてそれに続く大災害が起こった。営業で外回りをしていた高橋は、その時に命を失った。それがどの時点でだったかは定かでなく、しかも、亡骸は未だ生家に戻ること無く過ぎていた。由雄も戻る機会を失ったままだった。

 髙橋の死は、どちらの営業所にも深い悲しみをもたらしたが、時の経過とともに、それはゆっくりと消えていった。ただ、両方の営業所長、そして由雄の心だけが、それぞれ微妙な違いがあるにせよ、晴れないまま今日に至っていたのである。

 あの時髙橋が命を落としたことに、由雄が責任を感じる必要など何ひとつ無いのだった。そんな当たり前のことを、その通りに思うことができたら、何の苦労も無いはずだったが、現実には違っていた。高橋が自分の身代わりになって死んでしまったようなものだという思いは、一日たりとも、頭から離れなかったのである。罪悪感は高橋の消息が不明となった時に芽生え、心の真ん中にずっと居座った。それは時に、膨らんだり影をひそめたりを繰り返していたが、その居場所を変えることは無かった。

 由雄は、故郷の親類や知り合いが、何人も亡くなったことが悲しかったが、それ以上に自分の身が悲しかった。けれども、気持ちのすべてをうまく表現できないまま、月日は過ぎた。誰もこの気持ちをわかるはずはない。そんな思いが、いつしか由雄から言葉そのものを奪い、その悲しみは、無気力という姿に形を変えていた。覇気のないまま、最低限の仕事をこなすだけの日々が長く続いていた。それは、ついさっき所長の誘いの言葉を聞くまでそうだった。

 だが、由雄は退社間際に所長の席に行き、ご一緒させてくださいと、短く告げたのである。

 髙橋の両親と同じ桟敷で花火を見る。そう決めて初めて、由雄は両親の深い悲しみが、あの日から今日まで、どのように移ろってきたのかに思いを巡らせていた。きっと自分とは違う悲しみを持ち続けてきたことだろう。どれだけ涙を流しても、母親のそれは涸れることなく湧き上がり、一足先に泣くことを止めた父親であっても、心の中では何度も泣いてきたのではないか。そんなふうに思えて仕方が無かった。花火までの数週間は瞬く間に過ぎていた。

 当日は、朝から良く晴れていた。それでいて、暑さにどこか季節の変わり目の兆しを感じるような、さわやかな日となった。由雄は、会場からはるか遠く離れた場所に車を置き、歩き出した。会場に近づくにつれ、車の通行は早くから禁止されていたらしく、人の波は広がっていた。道路の両側、歩道部分には屋台や露店が連なり、にぎやかさに拍車をかけている。道路のすべてを、そしてこの日一日限りの店の前を、あらゆる世代の人たちが、さまざまな組み合わせで歩き、立ち止まってもいた。由雄は、初めて見るその光景に圧倒された。

 驚きを持って、しかし十分に気を付けながら歩いていた由雄の目に、何故だかふと、屋台の前に並ぶ子連れの数人の男女が映った。どんな関係なのだろう。ぼんやりと思いながら、その横を過ぎようとした時、親子らしき三人の話す声が聞こえてきた。喧噪のなかでその声だけが真っ直ぐ由雄の耳に届いたのは、それが故郷の訛りと同じだからだった。

 それに続いて、

「**子さん、ここでは恥ずかしがらないで大きな声で話した方が良いよ。こんなにたくさんの人が来ているんだから、どこかに同じふるさとの人がいるかもしれないし」と言う男性の声がした。二人の女性が、小さく声を返したようだった。

 思わず足を止めた由雄は、その人たちに声を掛けてみたい思いに駆られたが、すぐには適当な言葉が思い浮かばなかった。その一瞬の戸惑いが、後ろからの人波に抗する力を失わせ、由雄の身体は再び前へと向かい始めた。目の前に信じられないような大観衆の後姿が現れたのは、それから間もなくのことだった。

 席券の数字を頼りに桟敷席に着くと、所長夫妻、そして高橋の両親がすでに座っていた。

「おぉ、来たな。迷わなかったか。今日は升席を二つ確保したから、ゆっくり見てくれ。寝転がっても良いんだぞ」

 うれしそうに声を上げた所長は、由雄が席に着いたのを見届けると、真面目な顔になって言葉を続けた。

「あらためて、高橋君のお父さんお母さん、今日は良くお出でくださいました。ご両親と私たち、そして菅野君とで見る花火は、今日が最初で最後かもしれません。お二人のお気持ちは、まだはるか遠くにあることと思いますが、今日はどうかゆっくりご覧になってください」

 所長夫妻が丁寧に頭を下げると、両親も深々と応じた。遅れて由雄も頭を下げたが、口にすべき言葉を見つけられず、なかなか頭を上げることができなかった。そんな由雄の肩を、膝を折ったままの姿勢で近づいた二人が、やさしくたたいた。

 

 由雄と二組の夫婦は、わずかずつ離れ、前を向いたまま、花火を見続けた。それぞれの夫婦が時々短く会話をしているようだったが、低く漏れた歓声のほかは、その中身は良く聞こえなかった。初めて間近で見る花火の美しさは、言葉で言い尽くせないほど素晴らしく、その思いは最後まで続いた。一万をはるかに超えた数の花火が、さまざまな色で光っては消えていき、長いかと思われた時間は、あっという間に過ぎた。

 そして、帰りを急ぐ一部の観客が少しずつ動き始めたかに見えた時、フィナーレが始まった。ゆったりとした間隔で大きな花火が何発も打ちあがり、最後には大小さまざまの花火が、間もなく秋を迎えようとする夜空の一角で、色とりどりの光を発した。それはあたかも、今しがたまで打ち上がった花火の、いのちの躍動を愛おしむかのようであったが、その花火たちもまた、役目を果たしつつ静かに消えていくのだった。

 そのさなか、いつしか目に映る花火がぼんやりとし出し、由雄は顔を上げていられなくなっていた。ズボンの膝の上には、涙の粒が、いくつもこぼれ落ちた。その涙が悲しみのいくつかをゆっくりと融かし、まだささやかではあったが、ゆるぎない力へと変えつつあることに、由雄は気づいてはいなかった。

「君は人の気持ちが分かり過ぎるから、おそるおそる上げた一歩目を降ろすことができずにいるんだな。大丈夫だ。君らしくゆっくり歩けば良いんだから。それに、君の想像がいつも当たっているとは限らないぞ」

 着任して間もない頃、笑顔で所長に言われた言葉が、ふと浮かんできた。所長とは残りわずかの期間を精いっぱい頑張ろう。そしてその先は……。

 由雄の中で、高橋の両親に告げたい思いが芽を出していた。それが聞き入れてもらえるかどうかは自信が無かったが、これから春まで、そしてその先もずっと、両親のもとを訪れようと思った。途中で見かけた五人に、いつかどこかで出会うことがあるだろうかと心の片隅で思いながら。

 

 ブログに立ち寄ってくださるみなさま。お米のお付き合いを続けてくださっているみなさま。今年もありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

 

 

 


自分で書いてて自分で泣けてくる

2021-12-17 | 掌編

 

「下段の構え」さん、押し入れの中から、引っ張り出してきましたよ(苦笑)。

 

  幕が上がる時

 

 九月も半ばが過ぎ、朝晩には少しずつ秋の気配が感じられるようになり出していた。

 唄い手である幸江にとって、若い時には何でもなかった暑さが、これほどまで苦痛に感じられた夏はなかった。それが、テレビや新聞で言われているような、ここ数年来の暑さのためだけでなく、身体の変化にも起因していることに、幸江はうすうす気づいていた。

 その暑さもようやく峠を越し、もう少しの辛抱だろうと思っていた矢先のことだった。

「幸ちゃん、十月からは、三番目に唄ってもらうことになるが、いいね」

 公演の後、一人でいた幸江のところに座長の杉本が寄ってきて、そう告げた。

 いつかは言われるに違いないと思いながらも、杉本の口から一向にそうした意味の言葉が出る気配が無かったことで、来年の春まではこのままどうにかやることができるのかなと、心の片隅で思っていた幸江であった。

 しかし現実は甘くはなかった。ずっと長い間二番の位置を守り通してきた幸江も、杉本に指摘されるまでも無く、自分の力の衰えをはっきりと認めざるを得ないほど、この夏の落ち込みはひどいものだった。

 若手としていつも一番目に唄い、ちやほやされていた頃には、今の自分と同じような先輩を見て、ひそかに笑ったりもした。それどころか、冗談に似せた口調で、つい皮肉を言うことさえあった。その罰が、今の自分に当っているのだろうか。あの時の先輩の表情は今もはっきりと目に浮かんだが、平気で皮肉を言っている薄っぺらな自分の顔は、どうしても思い出すことができなかった。あの時の先輩はどんな思いをしたのか、今になって、自分がその立場になろうとは……。己自身の先の姿どころか、その時のありのままの自分さえ見えていなかった浅はかさを、痛感せずにいられなかった。

 

 一座は大きな会場での宴会に呼ばれることが多かった。何人かの長い挨拶の後ようやく乾杯が行なわれ、場の空気が一気に和んだものとなり出した時、一呼吸置いて一座の唄は始まるのだった。若手が一番として登場した瞬間には多くの拍手が湧き上がるのだが、時間が経つにつれて、場内は参加者の声が入り乱れ、いそがしく酒や料理を運ぶ従業員達の姿はもちろんのこと、立ち歩く客、大声で話に興ずる客などの声で、三番手の頃ともなると唄は無いに等しいような状態になるのが常だった。

―いよいよ、その三番手となるのだ。

 幸江は、ついにその時が来たのだと思った。一座の構成からすれば、幸江の三番手はこの先変わることが無いと言えた。一生懸命になったところで元の二番に戻れる見込みは無かったし、いくぶん手を抜いたところで、いまさら一座から追い出されることはあるまいとも思ったりした。

 

 厳しい暑さはすでに去り、秋のさわやかさは一座の歌声をより澄んだ響きで伝えていたが、その頃になっても、幸江の唄は以前に近い状態までは戻っていなかった。幸江の気力はすっかり萎えてしまい、唄にはそれが正直に出始めていた。そうなるとおかしなもので、この場所で唄い続けることに自分自身がいたたまれなくなり、むしろ追い出された方がどれだけ楽だろうと思ったりもするのだった。

 自分は何て弱いのだろう。そのことはいまさら仕方が無いとしても、満足のいく唄ができなくなった時の心の頼りなさがこれほどのものだと、どうして若い時には思いもしないのだろうと幸江は思った。歳を重ねていくことで初めて分かることがあるものだということに気づかされた思いだった。

 十一月の末頃からは、忘年会の仕事が続き出して、一座の雰囲気もより気合の入ったものとなっていたが、そんな中にあっても、幸江の様子は改まったふうでもなかった。気が散じたような唄にもかかわらず、それさえ気づかれずにいるような状況は、力の衰え以上に幸江の心を暗くしていた。今すぐにでも止めたい気持ちであったが、誰かが三番手をやらなければならないことはわかっていたし、忘年会から新年会に続くこのシーズンが、一年のうちで最も忙しい時期であったので、長く世話になった仲間達に迷惑はかけられまいと思い、これが落ち着いてからと思いとどまっていた。

 そして年が明け、新年の最初の仕事は、ホテルで開かれた新年会の余興の場であった。会場には幸江と同年代くらいの客が多く、中には初老の客の姿もチラホラと見えた。みな、多かれ少なかれ民謡には慣れ親しんだ世代であったはずだが、今回もまた、場内はすっかり砕けた雰囲気となっていて、幸江の唄は誰に聴かれるでもなく、ただうつろに響いているかに思えた時のことであった。一曲目が終わりうっすらと汗が滲み出た幸江の前に、いつの間にか一人の老人が近づいていた。そして、間に合わせの紙に包んだのであろう、おひねりを幸江の前に差し出したのだった。幸江は当惑した。二番手、三番手の唄におひねりが上がることなど、ここ何年も無かったのに、今の自分にそれが差し出されているのである。

 酒が入って、足元が少しふらつくようになってからおひねりを持ってくるようなお客も、時々いた。そんなお客に限って、目の前に来てから「アレッ、**ちゃんじゃないのか」と、臆面も無く大声で言ったりした。それは会場の失笑を買ったが、唄い手にとっては屈辱以外の何ものでもなかった。しかしながら、そんな時でも笑顔で気の利いた言葉を返すのが、プロとしての務めでもあった。

「お客さん、出す相手を間違ったんじゃないですか? 本当に私でいいんですか?」

 幸江はマイクを遠ざけて、小声でその老人に言った。

「開けたら笑われてしまうような中身だけども、幸江さん、あんたにだよ」

 その老人はコクンとうなずいてからそう言った。

「オレもずっと前から、この一座の唄を何度か聴いてきた。おそらくここに集まっている中にも、そんな人が大勢いるだろう。あんたが一番手で唄っている時は、若かったなァ。若くて輝いていた。声に伸びがあり、張りもあった。けど、それがいつしかそうでなくなるのは、きっと誰だっておんなじだ。でもさァ、生きてきた人生の長さだけ、唄に心を込めるっていうのは、若い時には、やろうとしてもできないんじゃないか? いや、若い時はそんなことには思いもよらないだろう。酸いも甘いも経験してきて、自分の涙だけじゃなく、人さまの涙のわけもが、おぼろげながらでも分かってきたこれからが、本当の唄い手となる時じゃないのか。言葉に心を込めてさ、唄に魂を込めてさァ。あんたもその若さで、すでにダンナさんを亡くしたと何処かで聞いた気がするが、若い時の十八番のひとつだった『秋田おはら節』だって、今だったらきっと、あの時とは違った思いで唄えるだろう。そんなトシになってきたんだよ。いままでのあんたがあって、今のあんたがある。聴かせてくれよ、その、いまの幸江さんの唄をさァ。聴くオレたちにだって、その思いが伝わらないはずが無いじゃないか」

 唄と伴奏が途切れてややしばらくしてから、それが二人のやり取りのためだと分かった場内は、しばらくざわついていたが、それもいつの間にか静まっていた。マイクを通してわずかに拾われた老人の声は、

「これからだぞ、まだまだこれからだ」という声を最後に止んだ。

 幸江は、席に戻っていくその老人に深く頭を垂れると、それから後ろを向き、「秋田おはら」と告げた。猟師に鉄砲を向けられ、己の死は覚悟したものの、残される妻や子を思う鹿の心情を唄ったこの唄が、にぎやかな場には不釣合いであることを充分に承知しながらも、幸江はこの唄を唄おうと思った。

「前奏を少し長く」

 幸江がそう言うより早く、お囃子はその気配を感じ取って、そうした。それは出ることが無くなって久しい、幸江の昔からのクセだった。

 幸江は目の前をゆっくりと見渡した。これまでの思いを、わだかまりという一言で片付けるのは、どこか腑に落ちないものがあったが、しかし今はその言葉しか浮かんでこなかった。たくさんの拍手の音がする中、出だしの音を待っている幸江の心の中では、わだかまりという名の幕が、静かに上がり始めていた。

 

 ■当園のお米が、来年もみなさまのちからッコのもととなれますように。

 

 ここにでた秋田民謡、「秋田おはら節」は、ユーチューブでも見られるかと思います。興味を持たれた方は、どうぞご覧になってみてください。