穏やかな奇跡
数日前から続いていた雄太の迷いは、最高潮に達していた。家路を急ぐ自転車のペダルがことさら重く感じられたのは、いつもなら隣にいる孝之が、この時もいないことに大きく関係していた。
雄太は高校三年生。修明高校の弓道部員である。高校生活最後の大会が、雄太の住む市の隣町にある弓道場で行われていた。
この日、修明高校は団体戦の予選を好成績で終えたことで、翌日の決勝進出を決めていた。地元に近い場所での開催ということに加え、これまで一度も予選通過をしたことの無い修明高校の快挙ということで、翌日の盛り上がりは充分に予想されることとなった。
その大事な決勝の日にさえ、このままいけば、頭ひとつ抜きん出た技量の持ち主である孝之がいない。今日の予選では、補欠としてその大任を果たせた雄太であったが、決勝ともなればその重圧が今日の比ではないことは容易に想像できた。やる前からあれこれ考えてもどうにもなるものでもないとは分かっていても、期待と不安が不規則なリズムで雄太の胸中を行き来していたのである。
しかし、雄太の迷いはそのことではなかった。それが日を追う毎に大きくなり出したのは、孝之が大会を目前にして、突然練習を休み出した原因を知ったのがきっかけだった。
「孝之君の家の苗が病気になってしまって、半分以上もダメになったんだって」
どこから聞いてきたのか、夕食の最中に母がそんなことを口にした。
「何だって? 今、この時期にか」
思わず大きな声を発した父がそれに続けた言葉は、雄太の心を暗くするものであった。
「これから種を播き直したとしても、もう田植えには間に合わないだろう。田植えの済んだ家から、余った苗を分けてもらって植えるしかないだろうな。けれども半分もダメになったとすれば、それはかなり大変なことだ。余った苗が集まり次第の田植えだから、すっかりできるのが一体いつになるのか。人手がいくらあっても足りないことになるな」
父の予想通りと言うべきかどうか、孝之が練習を休んだのは、その話題が出た翌日からであった。その日の練習が終わった後に、監督が、孝之は大会に出られないかもしれないと言った。
ずっと頑張り続けてきて、しかも初めて優勝できるかもしれないという時に、孝之がいない。最後の大会となることは雄太にとっても同じであったが、何としても孝之に出てもらいたいという思いが、その時静かに芽吹いたのだった。
選手として出場する部員の技量は、孝之以外ほぼ同じだった。あとは、本番でいかに普段の力を出し切れるかどうかの違いだったのである。その点に関して雄太は、自分が他の部員に比べて若干劣っていることを認めざるを得なかった。そして補欠となっていた理由も、まさにそれだった。
自分が手伝いに行けば、孝之は出ることができる。雄太の思いは、これ以上は無いと思えるくらいに膨らんでいた。
農家の息子として、それなりの手伝いをしてきたという自信が無かったなら、雄太の迷いもどこかで止まっていたに違いなかった。しかし、そのささやかな自信は、今は迷いを勢いづける何ものでもなかった。
帰宅して玄関の戸を開けた雄太に、中から父の声がした。
「やったな、雄太。明日も今日のようにできればいいな」
その声にどう返事をしてよいのか分からず、雄太はその場に立ち尽くしていたが、入って来る気配が無いことを心配して出てきた父に向かって、絞り出すような声で言った。
「父さん、おれ、明日は孝之から出てもらおうと思ってるんだ」
「何っ、一体どういうことだ。本気でそんなことを言っているのか。試合に出るのが怖くなったか」
「そうじゃない。そんな気持ちが無いと言えば嘘になるけど、一緒にやってきた孝之の気持ちを思うと、どうしてもそのままにしておけないんだ。それに孝之が出られたとしたら、優勝できるかもしれない」
ありったけの思いから発せられた言葉であったが、その時、雄太は父の顔を見ることができなかった。
「そうか、そうしたいと言うなら、そうすればいい。その方が後々悔やむことも無いだろう。父さんとしては、どんな結果であれ、雄太が明日も矢を射るものと思っていたんだがな」
少し力の抜けた父の言葉に、雄太はごめんとだけ答えた。そしてすぐに、監督と孝之に電話をかけた。
翌朝早く、雄太は孝之の家に向かった。だが、着いた時には孝之の自転車は、もうどこにも無かった。
作業場の戸はすでに開いていた。入り口近くにはツバメの巣があって、親鳥がヒナに一生懸命餌を運んでいる最中だった。それは、小さなころから見慣れていた、孝之の家での光景だった。中にいた孝之の両親が雄太に気付き、迎え入れてくれた。
「雄太君、ごめんね。でも本当にありがとう。電話をもらってみんなずいぶん迷ったけど、あなたの気持ちを受取らせてもらうことにしたわ。今日は大変だろうから、無理しないでね」
すまなそうな表情をした両親を見て、雄太は「大丈夫です」と答えた。
しかし、さんざん迷ったあげく決めたはずだったのに、作業を手伝う雄太の心は、急に揺れ動いたりした。「自分はもうここにいるというのに、自分の心はなんということだ」と、情けない思いが込み上げてくるのを感じたのは、一度きりのことではなかった。
そんな複雑な気持ちとは裏腹に、雄太の仕事ぶりは手馴れたもので、田植えはそれなりに進んだ。
そして間もなく昼食の時間という時、車でやって来た父と母の声が、雄太に会場に行くよう促した。その時、父は朝と違い、作業服姿となっていた。
「父さんね、雄太の思いを尊重することも、雄太を応援することなんだよなって言ってたのよ」
車内で母がそう言ったのを聞いた時、父の思いも同時に届いた気がした。
会場に着くと、雄太は、屋外にある弓道場に向かって走った。その時、二羽のツバメが的場の側から飛び上がったのが見えた。
観客の立ち並ぶ場所に着いた雄太の目に飛び込んだのは、大きく体勢を崩した孝之の姿だった。すでに放たれたらしい矢は、並んだ的の上に張られた安土幕の所に見えた。紫色のその幕には、至誠の二文字が白く染め抜かれていて、矢はその文字のすぐ近くにささったまま、だらりと垂れ下がっていた。
目の前の光景が何を意味しているのか瞬時には判断がつかなかったが、二羽のツバメのことを思い出して、雄太はそこで何が起こったかが分かったような気がした。
大勢の観客は、孝之の放った最後の一矢が的を外したことで、勝負の結果を理解したのだが、その決着にどう対応したら良いのか決めかねているようであった。
その静寂は、しかし、孝之が静かに体勢を立て直し、修明高校の射手全員が揃って一礼をした時に、ゆっくりと破られた。事情を呑み込んだ観客の順に、拍手は静かに広がっていった。その間に、的や安土にささった矢は、係の生徒たちに素早く抜かれていたが、ただ一本だけは残されたままだった。拍手は高ぶることなく長く続いた。
孝之と帰るのは何日ぶりのことだろうと思いながら、雄太は自転車のペダルを踏んでいた。ついさっき、「ありがとうな」と照れくさそうに言った孝之の一言が、雄太の心を温かくしていた。
目にすることはできなかったが、最後の一射の穏やかな軌跡と、自分の選択を支えてくれた周りの行為の中に、多くの誠があったことを、今の雄太は感じていた。何よりも、この先ずっと、孝之とは今日の話ができる。そのことがいちばんうれしかった。
雄太の心の中には、光の矢が至誠の二文字を携えて、どこまでも進んで行く様子が浮かび上がっていた。
さわやかな五月の風が、間もなくやって来る六月に向かって、それとは気付かせぬくらいにやさしく吹いていた。