憑りつかれたかのように、何を急いでいるんでしょうか? 自分のことが可笑しくなります。大丈夫かな。
それぞれの旅路
島田恵津子が、二人の子どもとともに、荷物らしい荷物も持たないまま遠く県外の山間の村を目指したのは、九月も半ばを過ぎた頃だった。
その村がどんな所なのか、斡旋してもらえた空き家が一体どんな状態なのか、その時の恵津子ははっきりとわかってはいなかった。「必要最低限の家電製品や家具は準備済み。入居したその日から生活が始められます」という案内だけが、唯一の拠り所だった。役場担当者の「良い所ですよ。何の心配もいりません」という言葉にすがる思いで、恵津子は今やっと、住み慣れた地を後にしていた。
何度かの乗り換えを経てたどり着いた最寄り駅で、出迎えてくれたのは、柴田という中年の女性職員だった。役場に立ち寄ってひと通りの挨拶をした後、車はこれからの住まいがある集落に向かった。
道すがら、所々で現れるわずかな平地にある田んぼは、一面黄金色となり、稲の穂はどれも重そうに垂れていた。青空とともに目にするその光景は素晴らしいものだったが、いつの間にか黒い雲が押し寄せて来ていたことに気付いた時、「悪戯な雨が降るかもしれない」という、柴田のひとり言が聞こえた気がした。
空き家は想像していたより、きれいだった。家の周囲も、自分たちのために整備してくれたのだろう。雑草なども刈り払われて、まだ間もないように見えた。その様子を目の当たりにして、恵津子は少しほっとした。
思いがけないことに、柴田は始めに、斜め向かいにある家に行った。しかし、中には誰も居ないようだった。
「おかしいわねぇ。稲刈りにでも行ってしまったのかしら。ここには、中年の男性が一人で暮らしているんです。あっ、でも心配はいりませんよ。安田伸之っていう人なんですけど、至って真面目で、それでいてのんきな人ですから。何ヶ月か前までは母親が一緒だったんですが、年老いてしまってね。介護が必要となって、今は町の施設で暮らしています。良い人ですから、どうぞ安心してください」
そんな話の後、恵津子は家の中の案内を受けた。そうして、それがひと通り終わった頃、一台の車が向かいの家の前で止まった音がした時、柴田が外に飛び出し、恵津子も後に続いた。
「安田君、私、三時頃には来るからって伝えてたよね。それなのにどこに行ってたの?」
「悪い。今年頼まれた田んぼが、今の時期になってもなかなか乾けなくてさ。明日から何日か雨の予報だったから、少し早いとは思ったけど、稲刈りに行ってたんだ。昼から急に雲行きが怪しくなって来ただろ。それで何としても雨の前に終わらせてしまわなければと思って、戻ってこられなかった」
「そうだったの。だったら仕方ないね」
二人のやり取りに戸惑った様子でいる恵津子に気付いて、柴田は「私たち同級生なの」と言うと、あらためて安田を紹介し、そして恵津子と子どもたちを紹介した。
「島田さん、これからいろんなことで、どうしたら良いんだろうと思うことが出てくると思います。自分はもちろんのこと、役場のそれぞれの担当がいろいろ手助けさせてもらいますが、もし慣れてきたら、たいていのことは遠慮せず安田君に言ってみてください。この人のアドバイスは、少々年寄りじみたところもありますが、押しつけがましさが無い分、気が楽ですから」
安田はまだ忙しそうだった。顔合わせが済むと、それぞれは別れ、恵津子は新しい住まいへと入って行った。
その夜、子どもたちが寝入ってから、恵津子は外に出てみた。午後の、今にも降り出しそうだった空からは想像もできないくらいの満天の星空に、恵津子は思わず小さな声を上げた。すぐに中に戻り、子どもたちを起こして一緒に見ようと思ったが、ここでは急ぐ必要は無いのだと思い直し、止めた。こんなにきれいな星空なのに、明日は本当に雨が降るのかしらとも思いながら。
翌日、昼前から降り出した雨は、四日も続いた。恵津子は、子どもの学校のことや自分がこれから働くことになる職場での説明会、そして暮らしに必要なものの買い揃えなど、休む間もなく動き回った。
その足となったのは、どんなに古くても構いませんから、出所のはっきりした物をお願いできないでしょうかという、事前のやりとりで用意されていた軽自動車であった。
行く先々で、恵津子のことを知らない人たちは、稲刈りの出鼻をくじく雨について、困った天気ですねぇと挨拶代わりに話した。
車を走らせている最中に、恵津子はただ一カ所、稲が刈られた田んぼを見つけ、車を止めて降りてみた。そこには幅が広くて深い轍が何本もあり、降った雨がたくさん溜まっていた。安田さんが刈ったという田んぼだろうか。刈った跡というのはみなこんなふうなのかしら。恵津子はぼんやりと思った。
新しい地に越して来てから、瞬く間に一ヶ月が過ぎた。いつの間にか田んぼの稲はすべて刈り取られ、山間の村の風景は一変していた。気持ちがまだ落ち着かないまま毎日を過ごしていた恵津子の眼にさえ、この間の景色の変化は生き生きと見えていた。
そうして、少しずつ職場にも、子どもたちが学校にも慣れ出したと思われた、ある日の夕方、たまたま家の前にいた安田と言葉を交わす機会が訪れた。それまでも目にすることは何度もあったが、いつも忙しそうに動き回っている安田に、あらたまって声をかけて話しかけることができないまま今日まで来ていたのだった。
「忙しさは少し落ち着きましたか?」
遠慮がちに尋ねた恵津子に、一瞬の間を置いて「とりあえず少しはね」と安田は答えた。田んぼから稲が無くなりさえすれば、あとはどんな仕事が続くのかなどと考えたことも無い恵津子の問いは、考えてみれば無理のないことであった。安田も何となくそう思ったからであろう。だから、とりあえずなどという言葉が出たのかもしれなかった。
「島田さんはどう? 少しは慣れた?」
そう聞き返され、恵津子は、「えぇ、でもまだわからないことだらけです」と当たり障りのない答えをして、安田の反応を待った。
「良い時に来たと思うよ」
突然聞こえた安田の言葉の真意を図りかね、「ここは素敵なところですね。自然がいっぱいの所で、毎日が清々しいです」と恵津子は言った。
「じっくり見ている余裕なんか無かったと思うけど、心和む風景があったでしょ。でもそんなのは、一年の中では、わずかな期間なんだ。これから日いちにちと寒さが増して、雪が降り始めるその日まで、時雨れる日が多くなるんだよ。晴れの日なんて、少しさ。そしていよいよ本格的な冬がやって来たら、雪の怖さをうんと思い知らされ、途方に暮れてしまうことも絶対あると思うんだ。島田さんは、ここが一番厳しくなる時期に来たことになるね。だから良い時に来たって言ったんだ。ひと冬過ごしたら、たぶん覚悟が決まる。ここでずっと暮らせそうかどうかがね。でも、雪は大変だけど、その雪に向き合いながらゆっくり考えれば良い。何かに追い立てられる心配も無いし、周りの声に惑わされる必要も無いからね」
初雪は早かったが、その後はそれほど降ることも無く、年が暮れようとしていた。
「年が明けたらいよいよ、安田さんの話してた、長い長い一月がやってきますね。でも除雪だけは任せておけって言ってもらえたから気が楽なんです」
笑いながら言った恵津子に、
「うん、それだけは心配しないでくれ。でも冬道の運転は気を付けてくれよ。あっ、また言ってしまった。これだから中年は、しつこいって言われるんだな」
安田が苦笑いしながら答えた。
多くの人がいやになるくらい長く感じられる一月ってどんなだろう。「二月は三月の子どもみたいなもの」ってどんな意味なんだろう。私も、春が来たら何倍もうれしくなるのかな。恵津子は、これまで聞いた安田の言葉を思い出しながら、とにかくいちにち一日を大事に過ごしていけばわかるかも知れないと思った。
恵津子には、決めなくてはならないことがいくつもあった。この場所で、じっくり考えよう。いまはまだわずかに白いだけのこの地に立って、そう心に決めた。
最後まで読んでくださったとしたら、ありがたいことでした。