風に吹かれて行こう

お米の便りを、写真でもっとわかりやすく!

してっこ

2024-06-30 | 日記

 「してっこ」はこの辺の方言で、少しの間という意味で使われます。ちょっと手を貸してもらいたい時、「してっこ、手貸してもらえるか?」と、訊きます。ちょっと出かけてくるとき、「してっこえって(行って)来る」と言って出かけたりします。

 「してっこ」には、もうひとつの意味があります。「いぢねん、あんまりしてっこで…」 一年があんまりあっという間で…。こういう意味でつい使ってしまうのは高齢者ですね。どうして年を重ねるほどに、時の流れが速くなるんでしょう。しかも、その加速度のスゴイことと言ったらありません。年齢を重ねれば重ねるほど、加速度にさらに加速度が(笑)。

 この言葉に限らず、方言を使う人は本当に少なくなりました。この先何度も、してっこを使うんだろうな。しみじみ言うのも悪くはないと思うけど、やっぱり笑いながら言うのがいちばんです。これが「あっという間」という表現では、何とも物足りません。

 振り返れば、みんな「してっこ」

 

 ところで、今強い雨が降っています。冬の雪不足から始まって、春も降雨量は少ないまま。農業水利事情の悪い地域では、田んぼの水不足が深刻化しています。雨が降ってとてもありがたいのですが、常日頃の降り方があまりにわずかなぶん、こんな時にどんな降り方になるんだろうと、何となく心配になります。ほどほどにまとまった雨量になってほしいものです。

 今日は今年前半の最終日。明日からはまた、つまらぬダジャレで明るく行きたいと思います。

 


あながあったら…

2024-06-30 | 日記

 育苗箱にそれなりの量の種もみを播いて、よく育った苗を植えても、ところどころ植えられずに抜けてしまう箇所が出ます。その状態のことを欠株というのですが、そこに予備の苗を植えることを、当地では「植えなおし」と言っています。所によっては、「穴植え」とも言ったりするようです。まだ他にも似たような言い方があるのかもしれません。

 

 この「植えなおし」が行われなくなって、ずいぶん年数が経ちました。一番の理由は、田植機の性能が上がって、欠株の発生が少なくなったためかもしれません。そして、ある程度の割合の欠株率ならば、収量に大きな影響はないという試験結果の認知が広がったことも大きな理由でした。そして何より、田植えそのものが済んでも、次々にまだ仕事があるので、それを優先する必要があったり、兼業化の進行で、植えなおしなんかせずに勤め先に出ることが大事になってきました。大きな意味でコストパフォーマンスを考えるなら、植えなおしに時間を割いている場合じゃないというようなことだったのです。実際、田んぼの中を歩いて確認しながら植えていくわけですから、面積に応じた時間を要する仕事でありました。

 でも、そのようなことを考えると確かにその通りなのですが、空いた場所をそのままにしておくというのは、心情的に慣れるまでは、少し時間というか年数を要しました。もちろんこれは自分のことであって、兼業先のある人の順、と言っては少々不正確な面もありますが、ある時期を境に、ほとんどの農家がやらなくなりました。和賀屋でも、周囲に遅れたとしても、2年かそこらの違いだったと思います。

 

 でも、播かぬ種は生えずではないけれど、抜けた穴は最後までそのままなんですよねー。イネだったらまだしも、例えば野菜の苗などを植えてから、ポツポツと生育不良や病虫害なんかで死んでしまったりすると、その穴は決して小さくありません。イネなどよりははるかに大きく見えますし、大きく感じられます。だからその穴をそのままにしてはおけません。生育初期のことだったら、販売用に栽培しているとすれば、必ず予備の苗を植えるはずです。

 自家菜園だっておそらくそんなはずだと思うのですが、さて、どなたかやっておられる方はいらっしゃるでしょうか。

 わかりづらい写真ですが手前の列は、左側の方。奥の列は真ん中より右側の方に抜けている箇所があります。それぞれ、複数粒を播いたのですが、実はこれ、カラスのしわざ。食べたのではありません。いわゆる悪さをして、出た芽を傷めつけ、結果として枯れてしまったのでした。

 普通は、穴があったら**たい、でしょう。でもこの場合、メルモちゃんの持っている不思議なキャンデーでもない限り、それは無理です。抜けた穴にオマエが入ってどうするっ! そうなんです。だから、穴があったら、ふさぎたい(笑)。凡夫の素朴な思いです。

 

 ちなみにこちらは、作業場の高い屋根の軒先に開いた穴。家の周囲でひなの鳴く声がよく聞こえた頃、作業場に入ると同じような声がして、中にはいないようだけどどこから聞こえてくるんだろうと、不思議に思っていました。何と、ここに穴があって、スズメがここから出入りをしていたのでした。アッと驚くタメゴロー、です。横穴などならまだしも、この穴から内側に入り込んでいくことは、なかなか難しそうに見えます。お見事と言えなくもないのですが、当事者からすれば、素直には喜べないような…。遠慮というものを知らないんですよねー(苦笑)。一歩引けば、間違いなく一歩出てくる。

 ブブ茶漬けでも、いかがどすかー。

  よう聞くけど、どんなもんか知らんから、いっぺんごちそうなってみよかー。どんな味がするんでしょう?

 こちらは完全に、穴があったらふさぎたい、ですっ! 巣を作る以上に難しそうだナー。


近くの神さまより遠くの神さま

2024-06-29 | 日記

 一昨日は朝早くに家を出て、遠くの神さまのところに行ってきました。

 目的の神社の前に、せっかくだからということで、その神社に祀られた方の資料館へと向かいました。神社のある駅から電車で20分くらい。降りてから15分くらい歩いたかと思います。朝の6時ころに家を出て、この時点で12時半を過ぎていたような…。何とも余裕のない日程となってしまいました。

 資料館では、よろしければボランティアの案内が可能ですと言っていただき、ご厚意を受けることにしました。自分一人のために、突然の訪問にもかかわらず、ありがたいことでした。

 思いもかけず、ていねいな説明をいただき、さて、資料館を後にしたときは、考えていたよりもずっと遅い時間となってしまいました。暑い中をまた駅まで15分くらい。資料館が2つの駅のちょうど中間に位置していたので、帰りはもう一方の駅を目指して歩きました。でもなかなか駅にたどり着かず、道行く人に尋ねたら少し来すぎたとのこと。自分も駅に行くところなので、一緒に行きましょうと言われ、あとをついて歩きました。持っていたカバンが重く感じられ、どうにかついていくのが精一杯でした。その方と自分の目指す方向は正反対ということで、別のホームへ。お礼を述べて、ホームの椅子でぺたり。電車が来るまで、呼吸を整えるためにジュースを飲みました。

 

 そしてまた20分ほど電車に揺られ、いよいよ神社のある駅です。2時をとうに過ぎていたような…。もう記憶があいまいです。朝にあんパンを一つ食べたあと、口に入れたものはジュースだけ。カバンがさらに重く感じられます。

 目指す神社は、大きなお城の近くでした。というより、お城の広い敷地?の一角にありました。駅から1キロ以上ありました。最初からここを目指したら、少しは足取りも軽かったかもしれませんが、もうすっかり疲れてしまっていました。結局神社のみの参拝で、もったいないことでしたが有名なお城の方へは、足を向けることなく駅に向かいました。

 

 この日、行きたいと思っていた箇所は、もう一つありました。帰路のための列車は、19時過ぎの発車です。城のある駅から、まず基点となる駅までは1時間半。行きたい場所は、乗り換えや地理に詳しい人でも30分のゆうに超えるはずです。でもとにかく、基点駅までは向かわなければなりません。あいかわらずおなかに物を入れるタイミングを見つけられないまま、基点駅、そして地下鉄を乗り継ぎました。さらに乗り継ごうとして、いや、目指す場所は、電車を降りてから徒歩10分?だったような…。そうなると、どう考えても帰りの列車に間に合いそうもありません。それで地下鉄駅で地上に出て、やっと簡単な蕎麦うどん屋さんで、腹ごしらえをしました。そして基点駅まで同じ方法で帰りました。

 

 ハードな日程の一日でした。どんなに乗り物がひんぱんに往来していても、そもそも距離がそれなりにあれば、どうしても移動のための時間が多くかかってしまう。そんな当たり前のことに気づかされた一日でもありました。

 それにしても、行く先々や電車で、外国人観光客の多かったこと。円安で訪日客が多くなる以前もそれなりにいたのでしょうけど、今回のように何人も何人も目に飛び込んできた外国人がいなかったら、どれくらいの賑わいだったのでしょう。もちろん、この物価高をものともせずに暮らしている人も大勢でしょうが、国内の人の動きは、どういうもんなんでしょう。そんなことが、ふと頭をよぎりました。

 

 まぁ、それはそれ。もう一か所、行ってみたいと思ったのは、西新井の御大師さま。いつかテレビを録画したまま見ずにいたものを今月見て、機会があったら行ってみたいなと漠然と思っていたのでした。

 行ってみたい場所はいくつもありますねー。それが仮に100あるとすれば、実際に行ったのは二つか三つ(苦笑)。そんな人生なんですけれど、こうやって生きているのだから、ありがたいことです。一日いちにちを生きているってことは、文字通り、有り難いことなんだと思います。

 おいしかった。

 


代表的な草

2024-06-29 | 日記

 除草剤を使わないと、田んぼは一面草だらけとなります。イネも伸びますが、雑草の生長力は、イネをはるかにしのぎます。ただでさえ旺盛な生命力なのが、土の中の養分を先取りして、どんどん繁茂してしまうのです。除草剤の無かったころ、農家は始めから終わりまで雑草との格闘を余儀なくされました。除草剤が開発されたことは、その危険性うんぬんの議論は別として、農家にとってはこの上ない喜びでした。

 

 雑草と除草剤の開発は、イタチごっこの一面があります。良く効く薬の開発普及は、同時に、耐性のある雑草が猛威を振るう下準備ということにも通じます。それでも、使わなければ、大多数の農家にとって稲作はとても難しいことにあいなります。

 

 薬剤の使用基準では、雑草の発生に応じて、3回くらいまでの除草剤の使用が認められています。3回といってもそれぞれの除草剤の成分数を合計すれば7つか8つになるかもしれません。一回の使用なら、3もしくは4成分で済みます。

 

 一回目の使用は、百姓(自身)の身体を守るために必要と思います。2回目を「不使用」にしようとするのは、農家はもちろんのこと、お米を食べる人の身体に、少しでも負担が無いようにとの思いからです。なので、何とか使わずに手取りでと思っています。

 念のため重ねて書き添えますが、基準では3回までは認められています。結果的に3回使わざるを得なかった農家であっても、自分の家で収穫できたお米を自家消費するのです。無農薬、減農薬、慣行(栽培)、そのどれもが、農家一戸一戸の事情に合わせて選択されています。良いも悪いも無いのです。


理屈なの何とでもつぐのだー

2024-06-29 | 日記

 (先付けであれ後付けであれ)理由なんか何とでもつけられるのだ。方言っぽく言えば、こんな感じになります。

 今朝、田んぼの見回りをしていたら、トンボがとても多く飛んでいました。イネにつかまったままのものもたくさんです。シオカラトンボの羽化が始まっていたのでした。昨日は、今日ほど見かけなかったのです。

 家の前の小さな田んぼで多く見かけました。それに比べて大きな四角の田んぼでは、今朝はそれほどではありません。この時点で、その理由らしきものを考えるなら、ひとつふたつは思い浮かびます。ですが、それはこれから数日間の大小すべての田んぼの様子を見てからでないと、当たっているかどうかはわかりません。いや、もし今朝と似たような感じで推移したとしても、自分が想像したことが正しかったとは言えないのです。ことほどさように、物事が起きる因果関係は単純ではありません。自然界のみならず、人の世もです。それに、それを目にしたタイミングが、たまたま、ということもあったりしますから…。

 

 いろはがるたの「り」は、「理屈と膏薬はどこにでもつく」でした。ということは、自分でも何かの説明をするときに、それらしく言う気になればそれなりにできることだし、誰かがその気になれば、そうしているってことですよねー。何かにつけ、ずーっとそうされているんじゃないですかねー。

 理屈と膏薬は~、なんだかまた同じようなこと書いたような気がするけど、もしそうだったら、トシだなっていうことで。