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どうする家康 第46~47回大坂の陣~乱世の亡霊

2023-12-16 16:54:41 | どうする家康

 

 

🔔「国家安康」

方広寺鐘銘事件が原因で「大阪冬の陣」が勃発

 

 

片桐且元

徳川と豊臣の間の橋渡し役として働く

*德川方→豊臣へ伝えた条件は

 

・大坂を退去し国替え

・秀頼は江戸屋敷に参勤交代

・茶々を人質にして江戸詰め

 

三択でしたが結果は決裂、片桐の働きも虚しく

 

戦はもう逃れることが出来ない、家康はそう思った

 

家康

德川が汚名をかぶる戦となる地獄を背負いあの世へ行く

それが最期の役目じゃ

 

正信

それがしもお供いたしますかのお~

 

家康

いやな、連れじゃのお

 

 

過去に裏切る正信を何度も許した家康の

最後の連れは悪友です、最後はすてきな悪友です

 

今までどうして、正信が最後まで家康のそばに居たのか

不思議でしたが、その理由が何となく分かりました

 

 

慶長十九年十一月 「大坂冬の陣」

 

家康本陣:大坂城から南へ一里の「茶臼山」

 

茶臼山は、ちょっと寂しそうな所でした

 

 

 

茶臼山近くにある「天王寺動物園」

 

 

動物園の中から見た通天閣

 

 

 

冬の陣では真田信繁は大坂城の出丸、

「真田丸」で徳川をむかえ討ちました

 

 

 

 

 

 

大坂城への抜け道と言われています

 

安居天満宮(大阪天王寺区)

 

12月、徳川軍が真田丸を攻めるも

真田の鉄砲隊により甚大な被害が出た

 

とうとう家康は大砲を使う命を出し

一日中放たれる砲弾に、天主閣も崩れた

 

家康は和睦のため、阿茶を京へ向かわせ

そこで初と交渉をした

茶々、初、江 三姉妹は複雑な立場になりました

 

家康の出した条件

(豊臣秀頼と茶々の身を守ること)

(本領の安堵)

(牢人の罪を問わない)

(惣構えの堀を埋める

更に約束にない

二の丸三の丸の堀まで埋めた

 

慶長二十年(1615)五月

夏の陣が始まる

 

豊臣秀頼は

「信じる者を決して裏切らず、

我が身の危険を顧みず人に尽くす

これが秀頼の真である

戦場でこの命燃やし尽くしたい

共に乱世の夢を見ようぞ」

 

千姫は、おじい様家康を待っていたのでしょうね

でも、秀頼の力強い自ずからの言葉に

私は豊臣の人間、と強く自覚したようで、

 

千姫「德川を倒しましょう」

 

と驚くほどの強い言葉を言い放った

 

そういえば

幕末の天璋院さんと言い和宮さんと言い

薩摩や朝廷にはつかず徳川幕府に尽くしましたね

「家」に縛られたのではなく、自ずからの意志で

 

 

 

大坂夏の陣図屏風

 

左隻

 

 

右隻

(ブログに挙げましたこの2枚は写真でポスターです

数年前に、大阪城内で買い求めました

くるくる巻いて仕舞ってたので真っ直ぐするのに苦労しました

結局今も、くるくるです)

 

重要文化財(大阪城天守閣蔵)

大坂夏の陣図屏風  六曲一双

(右隻の左端の天守閣が中央になる)

 

慶長二十年(元和元年・1615)の大坂夏の陣

とくに五月七日の決戦は大坂城から南に連なる上町台地一帯に

くり広げられた大規模な激戦であった

 

 

東軍十五万五千人、西軍五万五千人

合計二十一万人もの大軍が

四時間余り死闘を展開した

 

その中には真田丸を出て茶臼山辺りで死闘を繰り広げた

真田信繁の姿もあった

 

 

この屏風は、夏の陣に参戦した東軍の黒田長政が

戦後まもなく参戦の記念に描かせたと伝わるもので

五月七日の城南の決戦の火ぶたが切られた直後の様子を

克明に描いた右半双と、

敗残兵や戦火を必死に逃れる市民たちの様子を

極めてリアルに描いた左半双とからなっている

 

 

 

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