goo blog サービス終了のお知らせ 

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ウォルフレン氏の30年前の予言

2024-11-25 00:44:02 | コラムと名言
◎ウォルフレン氏の30年前の予言

 今月になって、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)を読んだ。この本の初版第1刷が刊行されたのは、1994年11月30日である。それから、すでに30年の年月が経とうとしている。
 この本は、刊行当時、日本という国に内在する負のシステムを剔出し、注目を浴びた。しかし当時、これが、その後の日本における「失われた30年」を予言した本になるだろうと予想した読者は、皆無に近かったと思う。しかし、事実としては、この本は、まさにそれを予言することになったのである。
 ウォルフレン氏は、同書に先だって、『日本/権力構造の謎』上下巻(早川書房、1990)という本を出している。この本も、たいへん評判になった。私は、この本の文庫版上下巻(ハヤカワ文庫、1994)が出たのを機に入手し、一読した。言いにくいことをハッキリと言っている稀有な本だという印象を受けた。
 しかし、同じ著者による『人間を幸福にしない日本というシステム』という本は、これまで読んだことがなかった。ごく最近になって読み、刺激を受けた。のみならず、非常に勉強になった。
 遅ればせではあるが、当ブログでは、このあと、この本の、要所要所を紹介してゆきたいと思う。ちなみに、いま机上にあるのは、同書の初版第6刷(1995年2月5日)である。
 本日は、本文の冒頭部分、すなわち、第一部「よい人生を阻むもの」第一章「偽りのリアリティ」の最初のところを引いてみたい。

「この人生はどこかおかしい」と多くの日本の人が感じている。それはなぜか?
居心地の悪さを感じている人の数は、実際、驚くほど多い。そしてこの不満は、あらゆる世代、ほとんどの階層に広がつている。
 その不満の原因は、人間だれしもがしょいこむ個人的問題や家族にまつわる厄介事だけではない。周囲の社会の現実【リアリテイ】も、なにかモヤモヤとした不満の原因になっている。
「マンガ」を見れば現代日本の大衆の意識がよくわかる。そこでは「サラリーマン人生」がとても自嘲的に描かれていて、人々が感じている現実の苦々しさがよく伝わってくる。
 なぜ、この国には学校嫌いの子供がこれほど多いのか?
 なぜ、この国の大学には、表情が暗く、退屈そうで、なんの理想もないとすら見える学生がこれほど多いのか?
 なぜ、この国の女性は世界一晩婚なのか? そして、なぜ結婚しないと決めてしまった女性の数も驚くほど多いのか? また子供を産まないと決めた女性も多い。なぜか?
 これらの現象は、世界でも日本にだけひときわ目立つ現象だ。この国の人々の、顔に貼りついたような笑顔や不自然なはしゃぎかたの下に、その素顔を垣間見てしまった外国人には、この国は「うちひしがれた人々の国」だとわかる。
 日本の社会はゆがんでいる。死・事故・失恋・貧困といった運命ともいうべき理由ではなく、社会のひどいゆがみのせいで大きな悲劇に見舞われた人の例を、あなたも身近にご存じだと思う。……〈13~14ページ〉

 まさに、「いま」の日本について語っているかのごとき文章である。三十年前に、この観察をなしえたがウォルフレン氏の炯眼に驚かざるをえない。一方で、三十年前に観察されたこの情況から、一歩たりとも脱却しえなかった日本という国は、いったい、どういう国なのか。――このことについて、考えこまざるをえなかった。

*このブログの人気記事 2024・11・25(9位になぜか森脇将光、10位になぜか芳賀利輔)
  • 龕(がん)は、山腹に凹処に仏像を安置したもの
  • 仏教経典には、古貝といふ字が屡〻出てゐる
  • 薩は、もとは薛土と書いた
  • 一旅は五百人、五旅が一師
  • 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
  • 支那の文字で外国語の音をあらわすのは難しい
  • 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
  • 火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
  • 万民の意にさからう権力は滅びる(森脇将光)
  • やくざ者・芳賀利輔の「暴力」観



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龕(がん)は、山腹に凹処に仏像を安置したもの

2024-11-24 00:49:22 | コラムと名言
◎龕(がん)は、山腹に凹処に仏像を安置したもの

 松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その八回目(最後)。

 もう一つ簡単に申上げます。私は従来龕【がん】といふ字に就き色々疑をもつてゐたのであります。この龕といふ字は、今では龍の上に合を書いてゐるが、説文ではこれは間違で、今といふ字が正しいのであるといふ。而して音は□、鋡、堪である。恐らくこれは含の字の下の口が略されたのでなからうかと思ふ。一体今の説文では从龍今聲とありますが、一切経音義の中にこの龕といふ字が屢〻出てゐる。而してそれによると,从龍从含、省声也とある。して見ると、今本の説文に「今に从ふ」とある「今」は、唐代の古本には含の字であつたのであらうかと思ふ。次に龕は説文では龍の形なりとあります。しかし其外にも色々な意味がある。或は受なりとか、或は盛なりとか或は取なりとか或は勝なりとかいふやうな意味が出てゐる。龍の形からはこんな意味は出て来ない筈であります。支那の言葉は音通〈オンツウ〉によつて同音の字から義の転ずるものが非常に多いのであります。龕の字の如きも亦それであつて、其字の本義とは全然無関係なものである。此受とか盛とかの義は其同音字鋡から転じたのであり、楊子方言〔書名〕にも「鋡龕受也、齊楚曰鋡、楊越曰龕、受、盛也、猶秦晋言容盛也」(康煕字典所引に拠る)ともある。又取や勝の義は同音字戡から転じたものらしい。戡は、廣雅〔字書名〕には「克也、勝也、殺也、取也」とある。斯くして支那文字には其本義から全然予想せられない、時としては反対の義すらも附せられることが少くないのであります。
 唐時代の写経を見ると色々な宛字〈アテジ〉が書いてあります。吾々が字の形を見て読んでは意義は全く判らない。支那人は音で読むのであるから其意味が能く通ずるのである。例へば唐の写経の中に、名といふ字の代りに明といふ字が書いてある。又一方明の代りに迷の字も書いてある。明と迷とは其義全く相反するのである。だから文字の通りでは意義は更に通じない。又問を聞、文、門等と互ひに仮借して使つてある。此等は音通だけで必ずしも義まで転じたのではないが、斯かる文字が互ひに融通し用ひられ、歳月を経過すれば、遂には其義までも転じ来ることは疑ないのであつて、六書ではこれを仮借〈カシャク〉といつてゐるのであります。だから支那に於ては音通といふことが、字の音義を解釈する上に非常に大切な関係を有するのであります。支那では一の言葉で全く反対の二意をもつてゐるものが少からずある。借と貸、授と受、乞と与、乱と治等何れも皆互用されてゐる。斯く一字で全く反対の意味を有するといふのは甚だ不思議なことで、実際上こんな文字は役に立たないのであります。一万円借りたことが一万円貸した事になつては実際上大変な間違が生ずる。文字は各社会に於ける必要によつて生じたものである。それが同じ文字を以て表はすとすれば到底其必要を充たす事が出来ない筈であつて、これには諸種の原因があるかも知れぬが、主として同音字から次第に意義が転じ来たのでなからうかと考へる。兎も角仮借即ち音通といふことが、支那文字の意義の上に非常に重大な影響をもつてゐるのであります。そこで龕といふ字も亦之と同様であつて音通から諸種の新たな意義が増して来たのであるが、更に外国語の音を写したことによつて又新たるる意義が加はつて来た。例へば仏龕〈ブツガン〉といふ時の龕の如きである。これは山の腹に凹処を作り其処に仏像を安置したものといふ。印度でも、支那でも又我邦にも往々斯かるものが存在する。この時の龕といふのは決して龍の形でもなければ、勝つ、盛り、取る、受るといふやうな意味でもない、此等と全く関係のないものであります。印度でKandaraといふのは窟穴〈クッケツ〉であり、龕は此音を写しただけである。かういふやうに今仏教者が使つてゐる龕といふ字義は、支那には従来無かつた新しいものであります。それ故に龕を解釈して或は「鑿山壁為坎也」とか、「巌中浅小石窟也」といふのは、外国語の龕の本義である。日本の仏間のやうな所、或は日本建築の床の間といふ如きは龕の変態である。これは皆仏像を安置してある窪処である。床の間は日本建築に特有のものであるが、これも寺院の建築から変化し来つたもので、昔は此処に仏器を飾つてゐたことによつても知ることが出来る。それから更に後世では塔とか、塔下室とかいふ解釈も生じて来た。龕は仏像を安置した窟室であるから、塔の如き仏像を置く処をも等しく龕といふやうになつた。特に支那の塔は多く煉瓦造であり、四面窓のところに窪処を造り、仏像を置いたものがある。此等は明らかに龕である。塔下の室とは斯かるものをいつたのでせう。遂には柩までも龕と称するに至つた。塔は本来舎利を置く処であるから、遺体を蔵する柩〈ヒツギ〉にまで転用したのである。斯くして龕にも次第に新しい意味が加はり来つたのであります。
 かういふ例は外にもいくらもありますが、余り長くなりますからこれで終ることに致します。要するに支那の音訳といふものは随分厄介なものでありまして、時としては色々な点から不明混乱が生じ、其解釈に困難を来す場合の少からず存することを一言申上げ、御参考に供した次第であります。

 追 記――前文には佛字を以て佛教者の作つた新字の如く説いたが、其後明の陸容の菽円雑記〈シュクエンザッキ〉(巻二)を見るに次の如くいふ。
 佛本音弼、詩云佛時仔肩、又音拂、礼記云、献鳥者佛其首、註云、佛不順也、謂以翼戻之、…自胡書入中国、佛始作符勿切、…今人反以輔佛之佛…為借用圏科、非知書学者。
といふ。又説文には佛字を解して
 佛仿佛也、从人弗声
とあり、同処段氏註には
 按髟部有髴、解云、髴若似也、即佛之或字、
更に髴若似也の下の段註には
 似者像也、苦似者■言之、髴与人部仿佛之佛義同、許無髣字、後人因髴製髣
ともある。之によつて見れば佛字は必ずしも佛教伝来後新たに作られたのではなく、固より既にあつたので、禅定の禅、木綿の畳、師子の師等と同じく其音背を写す用ひたものといはなければならぬ。恐らく始め復土となり、次に浮屠となし、更に之を単簡化し佛の一字を以て之を表はすに至つたものらしい。〈246~250ページ〉

 最初のほうにある□は、「甚の右に戔がある字」である。「追記」にある■は、「厽の下に糸がある字」で、「累」の本字。
 なお、「追記」の最初に、「前文には」とあるが、この前文とは、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録全体を指しているものと思われる。

*このブログの人気記事 2024・11・24(10位の八王子の奇人は久しぶり、9位に極めて珍しいものが)
  • 仏教経典には、古貝といふ字が屡〻出てゐる
  • 一旅は五百人、五旅が一師
  • 松本文三郎の「支那に於ける印度音訳字」を読む
  • 支那の文字で外国語の音をあらわすのは難しい
  • 薩は、もとは薛土と書いた
  • 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
  • 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
  • 火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
  • 礫川は決して福沢を嫌ってはいない
  • あの三人は八王子の奇人といわれる人達だから……



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教経典には、古貝といふ字が屡〻出てゐる

2024-11-23 00:07:00 | コラムと名言
◎仏教経典には、古貝といふ字が屡〻出てゐる

 松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その七回目。

 それからもう一つ之と相似たものには、貝【ばい】といふ字があります。これは支那の古い象形文字で、説文には「海介属也」とあり、貝殼の貝の恰好から来たものである。又昔は貝を貨幣の代りに使つてゐたから銭の意味も出来た。これらは其物の性質から当然生じ来つたもので、極めて明瞭である。ところが此他に貝といふ字に織物を現はす意味がある。これは貝といふ字そのものからは出て来ないものである。書経の禹貢〔書名〕には淮海〈ワイカイ〉といふ所の物産として織貝といふものが挙げてあります。その鄭註を見ると、織貝の貝とは錦の名なりとあります。又呉氏云ふ、其糸を五色に染めて之を織つて文〔もよう〕を成すものを織貝と云ふともあります。とにかく織物の名前であります。さういふ点から考へて、この貝といふ字は矢張り外国語であり、外国の音を写したものではなからうかと思はれます。
 仏教の経典には古貝、或は刼貝といふ字が屡〻出てゐる。これは織物であり、梵語Karpasa の俗語Kappasaといふ字の音を写して古貝となしたのである。この古貝の上を略して貝ともいふ。古貝といふのは一切経の音義を見ると、木の花の名であるといひ、又以て布を造るべしともある。更に高昌には氎と名附く。カシミヤから南には大なるもの樹をなし、北の方では形が小さく、その状は葵のやうなものである。花から実が出来、実の殼が割れてふき出るものは柳絮〈リュウジョ〉の如く紡いで布を成し、之を用ひて衣を為るといふ。要するにカッパサーといふのは棉の木であります。而してヒマラヤ山の北と南とで木の大きさも違ふらしい。がとにかく花が咲いて実が成り、其殼が割れると綿がふき出て来る、それを紡いで糸にして着物を織るのであります。昔は木綿が珍らしかつたと見えて、絹と同様に尊ばれ王侯貴人でなければ綿服は着ることが出来なかつたらしい。で古代には支那へも西域南海の諸国から貢物として献上せられてゐる。この氎といふ字はこれも音を写したに過ぎないので、古くは単に畳と書いたが、後世綿の繊維から成れるにより毛を附し氎となしたので毛織物のことではない。而して此畳の名は高昌国の名称であつたらしい、が印度でカッバサといつた。尚ほ一切経音義の中には五色の氎ともあるから、色織物もあつたらしい。木綿糸を染めて織れば色々の模様の織物が出来るわけである。単に無地であれば白木綿である、若し然りとすれば、貝は禹貢には淮海の土産物として挙げてあるが果して土産物であつたらうか、或は南海地方から輸入されて来たものではなかつたかとも思はれる。さうして鄭註が錦の名なりといふのも頗る怪しむべきであります。又支那の学者は時として貝を解して貝の模様の織物だともいふが、これも恐らく貝字に附会した解釈ではなからうか。但し織物としての貝字は支那にあつても頗る古く用ひられてゐたやうであるから、これは必ずしも仏教伝来後始めて現はれたものではないのであります。〈244~246ページ〉【以下、次回】

 文中、「刼貝」という言葉が出てくる。「刼」は「劫」の俗字。「劫」の読みは、キョウ(漢音)、コウ(呉音)、ゴウ(慣用)。
 また、「氎」という字がある。原文では、そのツクリが、「疉」でなく「疊」となっているが、「氎」で代用した。ちなみに、「疉」と「疊」は同字だという。「氎」の読みは、チョウ(漢音)、ジョウ(呉音)。

*このブログの人気記事 2024・11・23(9・10位に極めて珍しいものが入っています)
  • 一旅は五百人、五旅が一師
  • 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
  • 支那の文字で外国語の音をあらわすのは難しい
  • 薩は、もとは薛土と書いた
  • 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
  • 松本文三郎の「支那に於ける印度音訳字」を読む
  • イカヅチの語源は、霓突(ik. tut.)である
  • 火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
  • 読んでいただきたかったコラム・2017年後半
  • 牧野富太郎はどのように英語力をつけたのか(付・...



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一旅は五百人、五旅が一師

2024-11-22 00:02:11 | コラムと名言
◎一旅は五百人、五旅が一師

 松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その六回目。

 又音だけ写したものならば間違もないやうですが、実際に於て混乱を来し易いことが屢〻起り、文字だけを見ては、それが支那語であるか外国語であるか判らないやうな場合があります。支那の言葉に師といふ字がある。師とはもと二千五百人をいふのである。師団の師である。一旅といふのは五百人であり、五旅が一師となる。これが師本来の意義らしい。それから師といふ字は衆といふ意味にも転用された。京師といふ時のは即ち大衆の称と解せられる。又更に大衆が団体生活をするには必ず之を統率するものを要する所から、長を師ともいつた。それから道を以て人を教へるものも師といふことになつた。これだけの意義は説文にも既に載つてをり、支那字の本義から次第に転じ生じたものであります。ところが師には又後世此等以外の新たなる意義が加はつて来た。それは師子といふ時の師である。これは即ち梵語のSimbaの俗語 Sihaの音訳である。師子は動物であるから、後世では獣扁〈ケモノヘン〉を附し獅の字が成立した。而して師は既に音を写したのであるから、この一字で十分なのである。子の字を附したのはこれは単に支那の助辞に過ぎない。此師の意義は従来ない新たなるものであり、又獅も新たなる字である。古来支那では六書といひ六種の原理によつて字の構成から発音及び意義を説明することになつてゐますが、昔の支那の文字はこれで説明が出来るとしても今日の支那文字には到底六書のみでは解釈の出来ない新しい字が沢山出来てゐる。時には字の構成を解釈し得ないものもあれば、又時には発音の由来を説明し得ないものもあり、又別の系統から新たなる意味の加はつたものも少くないのであります。
 師に関連した語としては、支那には狻猊〈サンゲイ〉といふ文字があります。これは獅子のことだといはれ、穆天子伝〈ボクテンシデン〉中に野馬とあり、又走る事五百里ともあります。註には狻猊は獅子なりとある。而して野馬とは馬に似て小さいものとしてある。野馬といふのが果して獅子と同一なるものか否かは明らかではないが、何れにしてもこれは想像を以て書かれたものでなからうかと思はれる。此には穆天子が色々の動物を連れて西の方に行つたといふのであるが、其中に狻猊といふものが出てゐるのである。若しこれが果して師子であるとすれば、獅子は元来支那に居ないものであるから、狻猊といふ語も矢張り支那の言葉でないに相違ない。狻猊といふ語は二字で一つの意味を現はしてゐるが、狻といふのは獅子を現はすものと字書にも出てゐるが、猊だけでは何の意義もない、後と合して始めて一義をなすものである。狩谷掖齋〈カリヤ・エキサイ〉の箋註和名頼聚抄〈センチュウワミョウルイジュショウ〉には、師子の条下に釈の潮音――これは真宗の坊さんで江戸時代に在世した人であるが――この人の説を引いて次のやうなことを云つてゐる。「獅子とは梵語には枲伽といふ、梵語雑名に見ゆ。猊、麑は即ち枲伽の一転、師も亦枲伽の下略なり。しからば即ち狻猊も師も、梵語の偽略なり」と。これは梵語の音写だといふのであります。狻〈サイ〉とか、枲〈シ〉とかいふ字音は梵語シンハのシン、俗語シーハのシーに幾らか近いが、猊〈ゲイ〉といふ字を以てハの音を現はすごとは殆んど其例がない。ハは普通伽、訶を以て現はしてゐる。で果して猊がハの音を現はしたものか否かに就いては大なる疑があるのである。私は寧ろ次のやうに考へたらどうかと思ひます。狻猊の獣扁は、獅子のそれと同じく其物の性質を表はすために後世附けられたものである、本来は音だけを現はしたもので、夋であつたのである。而して兒は獅子の子と同じく助字である。例へば花兒といふときの兒と同様である、実は狻だけで其音を写したものである。かういふやうに考へたらどうかと思ひます。而して後世犭を附する時、夋兒を以て師子を現はしてゐたから兒にまでも犭扁を附するに至つたのでせう。斯く考へることによつて狻猊の語は始めてはつきりと理解が出来るやうに思はれるのであります。若し果してさうであるならば,何時頃からか知らぬが、高僧に対して何々猊下といふやうな尊称を用ひることゝなつてゐるが、しかし猊下の猊だけでは何の意味もない事であつて頗る奇怪な語であるといはなければならぬことになる。かういふやうに、本来支那の言葉か外国の言葉か判らないやうになつてゐる語の例は随分他にもあるのであります。又かういふ事から考へて来ると、穆天子伝といふのは何時頃出来たか少くともいつ頃現在の形となつて来たかといふ大体の推察も出来るわけである。即ち獅子といふ言葉が支那に伝はつてから出来たものでなければならぬと思ひます。〈241~244ページ〉【以下、次回】

 文中に、「釈の潮音――これは真宗の坊さんで江戸時代に在世した人であるが――」とあるが、この「釈の潮音」とは、潮音道海禅師(1628~1695)を指すか。だとすれば、「真宗の坊さんで」というところは「黄檗宗の坊さんで」と訂正されなくてはならない。

*このブログの人気記事 2024・11・22(9位になぜか高田保馬、10位になぜか鶴見俊輔)
  • 火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
  • 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
  • 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
  • 支那の文字で外国語の音をあらわすのは難しい
  • 松本文三郎の「支那に於ける印度音訳字」を読む
  • 薩は、もとは薛土と書いた
  • 松村任三著『溯源語彙』(1921)について
  • イカヅチの語源は、霓突(ik. tut.)である
  • 高田保馬は、いつ「基礎社会衰耗の法則」を発表し...
  • 大衆小説の特長はやさしい文体にある(鶴見俊輔)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写

2024-11-21 01:08:24 | コラムと名言
◎鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写

 松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その五回目。

 第三種の俗字に至つてはなかなか判り難いのであります。今普通に使はれてゐる文字に刹といふ字がありますが、どうしてこれがサツと読めるか頗る不思議なのであります。が本来これは擦の字を用ひてゐた。今でも擦柱などといつて塔の上の柱を表はしてゐる。之にも木扁のも手扁のもある。支那文字の意味は違ふが音だけ現はすにはどちらでも差支ない。何れもサツの音を現はすだけである。梵語はクセトラ(Ksetra)である。此音は支那字で写し出すのが難しいから、初めは之に近い❶といふ字を用ひてゐました。この字はシとかシツといふ音の字で、その意義は「割る」とか「傷つける」といふのである、しかし支那字本来の義は之に何等の関係もないのであつて、音だけを現はすのに他に適当な文字がないからこの❶といふ字を宛てたものゝやうであります。この❶は元からある支那の字であつたが、それが段々変化して、終には今の刹となつたのです。で字書にも略とも訛ともいつてある。古写経を見ると、刹といふ字は❷と書いてある。それから更に❸ともなつてゐる。誤字といへば誤字であります。而して最後に最も簡単になつたのが刹であります。今は総べて刹を用ひてゐるが、これは元来支那に存しない新字であります。又其意義から云つても、刹はもと土田と解釈せられ、場所とか国土とかの意味であります。で仏教者は刹土ともいひ、刹は神聖なる場所、神聖なる区域といふ意味に使つたものだと思はれる。けれども普通はそんな意味に使つてゐない。刹といふのは塔の真中に立つてゐる柱で、之を刹柱〈サッチュウ〉と云つてをり、仏塔中心の柱と解釈してゐる。如何にして土田といふやうな義から、塔中心の柱を意味するに至つたかといふと、塔には舎利―仏舎利を収めるのが常則であり、本来は舎利を収めた印として塔を作つたのです。舎利は仏身の一部で最も神聖なものであるから、其神聖な場所の印として、塔上に柱、実は蓋〈フタ〉を樹てたのである。斯かる意味からして塔上の蓋即ち柱(蓋の支柱)をも刹と称するに至つたのであります。又次に塔上の柱を刹と云つたことから更に意味が広くなつて、仏塔そのものをも刹と称した。古詩に「刹々相望」といふ句があり、註には刹々とは仏塔なりとある。即ち塔があちらにもこちらにも沢山幷び〈ナラビ〉立つことを云つたものであります。又「五山十刹」といふ時の刹の如きは単に塔だけではなく、寧ろ寺院そのもののことを云ふのであります。だから塔の意義も支那では後世次第に広くなり、吾々の思想の結び附きによつて意味が変つて来ました。そして文字の形に於ても、又其意義に於ても、幾多の変遷を来したのであります。
 又鉢の字は普通ハチとかハツとか読んでゐる。斯かる不思議な音は何処から起つたのであらうか。今の字の形に於ては之はホンとでも読まなければならないものである。而して斯かる字も亦支那には元無かつたのである。これがどうしてハチと読まれるのか、又どういふ字から変つて来たかといふと、ハツといふのは梵語はパトラー(Patra)、俗語ではパッタ(Patta)である。だから始め支那で之を音訳した時には、跋陁羅と書いてゐた。これはPatra の音訳である。所が支那では普通一語の首又は尾音を略して用ひる。さういふ事は人間の名ですら屢〻見られるのである。例へば般若留志といふ人が居る。さうすると其初めのハンニャを略して単に留志〈ルシ〉といふ。菩提達摩といふ人が居れば其初めのボダイを略して単に達摩〈ダルマ〉といふが如きである。この跋陁羅も亦之と同様であつて、跋陁羅では長いから其終を略して単に跋としたのである。これが抑〻今のハツの音の生じ来つた所以である。しかし跋の字は足扁であるから、これは事物の性質を表はすに不適当であるので、これを金扁にし鈸とした。これは食事をする時の僧の食器である。それから楽器にも使ひます。食器のハツは焼物であるので皿を下に書いて盋といふ字を以て現はすことにもなつた。而して最後に鈸が鉢と変つて来たのである。鈸の右側は夲に似てゐる所から誤つたものである。所がこの夲は支那では一般に本の俗字であつて、之を正しい字に書き替へたものが今俗間一般に用ひてゐる鉢の字であります。要するに之は誤りの上に誤りを重ねたものではあるが、今日では字書にも之を挙げ正しい文字となつてゐる。かういふやうな俗字、訛字、誤字が新たなる字と認められるやうになつた例は此外にも沢山あります。〈238~241ページ〉【以下、次回】

 文中、❶は、「黍」が左側にあり、それにリットウ(刂)が付いた字である。❷は、「久の下に氺がある字」が左側にあり、それにリットウが付いた字である。❸は、「爻の下に木がある字」が左側にあり、それにリットウが付いた字である。いずれも、ワードでは出せなかった。
「鉢」は、梵語パトラー(Patra)の音写とある。出家修行者が用いる食器の意味である。「鉢」は、転じて、「頭」の意味で使われることがある(鉢巻など)。これは、頭の形が鉢に似ているからだという。

*このブログの人気記事 2024・11・21(火野正平さんにアクセスが集中、9位になぜか松下大三郎)
  • 火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
  • 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
  • 薩は、もとは薛土と書いた
  • 日本語はどうしてできあがったか
  • イカヅチの語源は、霓突(ik. tut.)である
  • 支那の文字で外国語の音をあらわすのは難しい
  • 松本文三郎の「支那に於ける印度音訳字」を読む
  • 松村任三著『溯源語彙』(1921)について
  • 松下大三郎のいう「利益態」は、国語特有の語法
  • 籠目紋はイスラエルの国章



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする