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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「かむながら」という言葉は神道の真髄を表わす

2022-09-15 04:15:18 | コラムと名言

◎「かむながら」という言葉は神道の真髄を表わす

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。ただし、「脱線している部分」を中心とした紹介である。本日は、その二回目。本日、紹介するところも、「第一 古典の意義」の一部である。

 ……即ち古典が分れば分る程古典の価値が高まつて来る。それが分れば分る程我が国と云ふものが旺盛になつて来る。先月の末でありました。私は神祇院の講習会と云ふものがありまして、皆様方も或は御いでになつたかも知れませぬが、地方の学務課でも教育に従事して御いでになる方々に対しまして神祇院〈ジンギイン〉で講習会を開きました。私に神道思想と云ふものをやれと云ふので仕方なしに六時間ばかり話をして来ました。其の時にも一言言つた、神道思想史などと云ふやうなそんなむつかしいことを考へなくとも、神道と云ふものがどう云ふ風にして変遷して来て居ると云ふことは一つの言葉ででも分ると云ふ。一つの言葉で分ると云ふのは何であるか。是も少し脱線気味ですが、今此処で序に〈ツイデニ〉申上げて置きます。「かむながら」と云ふ言葉がありますが、是は皆様御存知でせう。此の「かむながら」と云ふ言葉が我が国にどう云ふ風に考へられて居たか、我々日本人にどう云ふ風に考へられて居たかと云ふこと、此の一つの事実で以で日本の神道の盛衰が一言葉で分る。だから神道史と云ふものを私に僅々〈キンキン〉十分で〔10分で〕話をせよと云ふことならば「かむながら」と云ふ言葉の歴史を述べて帰ればそれでもよいと思ふ。それはどうかと申しますと、「かむながら」と云ふ言葉は日本書紀にある。それから萬葉集にある。奈良朝迄「かむながら」と云ふ言葉が盛んに使はれて居る。是が神道の真髄を表はして居る言葉なのです。処が平安朝に入りますと「かむながら」と云ふ言葉が使はれなくなつた。それから鎌倉幕府、室町幕府の執政時代には少しもこの言葉が使はれない。さうして徳川幕府執政時代の中期迄使はれない。ところがその時代の中期以後国学者が興つて国学が勃興すると「かむながら」と云ふ言葉が復活して来ます。さうして近代に及び其の「かむながら」と云ふ言葉が復活した時が、我が国の道が、我が国の神道が復活した時代である。「かむながら」と云ふ言葉が使はれて居る時代は我が国の本当の神道の行はれて居る時代である。「かむながら」と云ふ言葉が使はれなくなつた其の長い間は、此の日本の神道が或は両部神道に喰はれ、或は唯一神道に喰はれ、或は儒教神道に喰はれて、さうして神道の真の姿と云ふものが隠れてしまつて居た時代である。だから「かむながら」と云ふ言葉が使はれて居る時代だけ見て神道の思想史も、盛衰史も皆んな分ると言つて来たのです。〈二二~二四ページ〉

 山田孝雄の講演は、一九四一年(昭和一六)七月から翌年九月まで、五回にわたったという。引用の最初のほうに、「先月の末」とあるが、これは、一九四一年(昭和一六)六月の末ということになろう。なお、神祇院の発足は、一九四〇年(昭和一五)一一月九日だった。

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山田孝雄博士の『古事記講話』(1944)を読む

2022-09-14 00:35:09 | コラムと名言

◎山田孝雄博士の『古事記講話』(1944)を読む

 先日、深い考えなしに、山田孝雄著『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を手に取った。この本は、一九四一年(昭和一六)から翌年にかけて、大阪府の依頼で山田孝雄がおこなった講演の速記録をもとにしているという。
 読んでみると、文字通り講演調である。また、しばしば話が脱線している。いかにも、講演を、そのまま再現しているふうであった。
 この本(この講演)で最も興味深かったのは、「脱線している部分」であった。本日以降、同書を、その「脱線している部分」を中心として紹介してゆきたいと思う。本日、紹介するのは、「第一 古典の意義」の一部。

 余談でありますけれども、是は実は余談でない。ことに触れ、折に触れて私は御参考になることを申上げて置く方が良いかと思ふのであります。昭和十二年〔一九三七〕年の夏か、十三年の夏であつたと思ひますが、文部省で高等学校の教授要綱を改正した時のことでありますが、其の教授要綱を改正したことに付て、協議会と云ふ名前で一種の講習会を文部省で開いたことがあります。其の時の国語漢文科の協議会の時、漢文の方の人と国語の方の人が出て協議会を開いたことがあつたのであります。其の最後の日に国語担当の高校の先生方に当時の或る大学教授の漢文の方の先生が講演をした時に、少し強いことを言はれたらしいのであります。私は、始めの日は他所〈ヨソ〉へ何か文部省の用事で行つて居りまして其の話は私は知らないのであります。二日目と三日目と私は出たのであります。其の席上で漢文の先生と国語の先生が喧嘩でもしさうな大議論を初めてしまつたのであります。納まりが着かない。さうして漢文の先生に国語の先生の中の或る人々が喰つてかかつて居る。どつちもどつちである。我々委員の仲間の先生も少しは言ひ過ぎたのである。国語の方の先生も言ひ過ぎたのであつて、両方で煽動したやうな形になつて居る。是が別々になつて居ればそれはそれで済んだのでありますが、一緒になつてしまつたものだから、そこで議論が沸騰したのであります。――それですから私が立つて斯う云ふことを言つた。「御承知の通り私は国語を専門にやつて居る。さうして漢文は大嫌ひなんだ。併しながら今我が国語教育から漢文を除いてしまつたら国語はどうなるか。大嫌ひな僕が之を重要だと認めるのだ。今我々はそんなことを言つて争ふべき時ではない。国文の為に漢文の教育は極めて重要であつて、今現在の状態に於て漢文を排斥したら、国語の教育はどうなるのだ。大嫌ひだけれども、賛成だ」と云ふ演説をして、それで納まつたのであります。今も其のことを申上げて見る。今古典を研究するとか、或は古事記を重要視するとか申しますと、極端に走りまして漢文排斥、漢語排斥などを致しますとする。若しさうなれば古典と云ふ言葉はそれ自体がもう分りはしませぬ、古典の本義と云ふものが分らない、我々が古典と云ふ言葉を使つて居る以上は漢文、漢語の古典と云ふ意味を応用して居るのであります。〈六~八ページ〉

 山田孝雄(やまだ・よしお、一八七三~一九五八)は、国語学者、国文学者、文学博士。『古事記講話』刊行時は、神宮皇學館大學長、文部省教学局神祇院参与。

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アウグストゥスは「現に生ける神なる皇帝」を意味した

2022-09-13 02:25:35 | コラムと名言

◎アウグストゥスは「現に生ける神なる皇帝」を意味した

 松木治三郎の『新約聖書に於ける宗教と政治』(新教出版社、一九四八)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 かくてユリウス・カエサルはその死後、後継者オクタヴィヤヌスによつて神ユリウス(Divo Juliuo)として祭られた(前四四年)。更に元老院は神ユリウスの祭を法律をもつて決定した(前四三年)。しかしそこには尚未だ生けるカエサルは礼拝されてゐなかつた。が諸民族は征服せられ領土は拡大せられ、しかもオクタヴィヤヌスの治世よろしきを得て何処も所謂「ロマの平和」である。そこには武力によらず精神的に帝国を統一すべき、国民の忠誠を生命づける具体的対象が必要であつたらう。ここにまづロマそのものを神化する「女神ロマ」(Dea Roma)の観念が現はれた。ロマ市民と属州民とは国家の神聖なる力〈チカラ〉ゲニウスを「女神ロマ」に於いて礼拝したのである。しかしこれは所詮抽象的で人為的観念である事はまぬがれない。そこで皇帝の人格が忠誠の具体的対象として現はれて来たのである。勿論そこには「ロマの平和」の創設者としてあらゆる点で偉大なオクタヴィヤヌスの、個人的人格と徳と功とに対する尊敬と讃美とがあつた。しかしかかる要求は、始めロマ本国に於いてではなく地方の属州に於いて起つた。本来のロマ市民には往時の共和的民主的精神が残つてゐる。先述せし如く皇帝は第一市民であり、最高官吏である。そこから東洋的絶対君主に至るには尚相当の距離がある。しかし属州に於いては事情が異つてゐる。特に東方地方に於いては現に生ける皇帝を神と崇めることは伝統的精神であつた。本国を遠く離れてゐただけにそのロマ中心の愛国心は具体的対象を切に要望したであらう。かくてかの地からオクタヴィヤヌスを眺める眼には彼が「平和の神」、「人類の救主〈スクイヌシ〉」として映じたであらう。遂に東方の小アジヤは皇帝の神殿を建立したいとオクタヴィヤヌスに出願した。しかしロマ人たる彼は神として崇められ礼拝されることに躊躇を感じた。彼は決して阿諛を好まなかつた。しかし、彼は賢明なる政治家である。ロマ人の性格を熟知してゐると共に、その広い領土を統治する為にはそれぞれ土地の事情に応じた政策が必要である事を知つてゐた。かくて彼は小アジヤからの要望に答へた(前二九年)。が、彼は属州に於いてロマ市民が「女神ロマ」の礼拝に彼アウグストゥス皇帝の礼拝を加へてよいといふ彼の特別な恵みとして許可したのである。この答へは非常に歓迎せられた。「アウグストゥス」或ひは「口マとアウグストゥス」の礼拝はまれたく間に州より州に伝はり、小アジヤよりすべての属州にひろまり、遂にスペインにまで達したのである。がイタリヤ本国とロマ市内にはこれが要求はされず、計画もされなかつた。しかし彼の死後アクグストゥス第一世――神なるアウグストゥス(divus Augusus)の為に特別な礼拝が法律として元老院を通過し(紀元後一四年)、彼の為に各地に多くの神殿が建立せられた。更に「ロマのアクグストゥス」のアウグストゥス即ちギリシヤ語のセバストス(Σεβαστοζ)は、常に「現に生ける神なる皇帝」を意味した。かくてやうやく皇帝礼拝が盛んになり、半ば気狂へるカリグラ、又はネロが自らこれを要求した。特にドミティヤヌスは自ら「主にして神」(Dominus et Deus)と称し、スエトニウスによれば彼が一度離婚した妻を復縁した時「彼女は神々の位に呼びもどされた」と云つたといふ。さうして人々に「主にして神」と録する事を求め、彼を祀る神殿を建立せしめ、その像の前で犠牲を供へしめ、これに服しない者は反逆罪として処罰した。そこには政治と宗教との混同が見うけられる。しかし何れ〈イズレ〉かと云へばロマの皇帝礼拝は政策的の意義が本旨であつた。それは忠誠や愛国心の熱烈な表現であつて、特別に宗教的教義的信仰に依存するものではなかつた。随つてイシス、ミトラの信徒、ガルデンやホルクの懐疑的な弟子達は、ロマの官令による祭や礼拝を無視し、ロマの神々を心では少しも信じてゐなかつたのに、唯これを激しく惜んだり拒絶したりはしなかつたといふ丈〈ダケ〉で、大きな迫害は受けずにすんだのである。がこの皇帝礼拝を偶像崇拝の恐るべき罪として拒絶したものがある。それはユダヤ教徒と原始キリスト教徒とであつた。

 文中、「かくて彼は小アジヤからの要望に答へた(前二九年)。が、彼は」というところがあるが、原文のまま。ここは、途中の句点(マル)を削らないと、意味が通らない。
 今回、紹介したのは古代ローマ帝国の話だったが、戦前・戦中の大日本帝国の話ではないのか、と思えるところがある。もちろん著者も、それを念頭に置きながら論じているのであろう。

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ローマ帝国における皇帝礼拝の起源

2022-09-12 02:13:23 | コラムと名言

◎ローマ帝国における皇帝礼拝の起源

 松木治三郎の『新約聖書に於ける宗教と政治』(新教出版社、一九四八)を紹介している。本日は、その二回目。
 本日は、同書の第一章「ロマ帝国とその宗教政策」の「2 ロマの宗教」の後半にあたる部分、すなわちローマ帝国における皇帝礼拝について論じている部分を紹介してみたい。

 最後に、ロマの宗教史に於いて重要な位置を占め特に本書の問題に直接に関係ある皇帝礼拝に就いて簡述しておかねばならない。
 まづ古代ロマに於いてすべての男はゲニウス(genius)をもち、すべての女はユノー(juno)をもつと信ぜられた。ゲニウスは今日明確な表現は困難であるが、もし人間をスコラ的に分析し、体、魂、霊と見るならばゲニウスは人間の魂よりもむしろ霊に似てゐると云はれる。ゲニウスは活ける純粋な精髄であり、人の生命と共に生れ、死の後も尚活きつづける人間の霊である。恰度〈チョウド〉天に在る活ける精霊と人の守り神との混合の如きものである。このゲニウスが家長たる父の死後、絶ゆることなく燃えつづける聖火の前にて祭られたことは先に述べた。が更に父の誕生日等に家族は父のゲニウスに供物をし、又人は自己のゲニウスを、或ひは友のゲニウスを慰撫することを許された。だから父の父(Pater Pateriae)としての皇帝のゲニウスを尊びこれを祭ることはロマ国民一般に不自然ではなかつた。事実ロマの創設者と信ぜられたロムルスの祭は共和制時代を通じて行はれた。彼は既に死せりとは云へ尚地下に生存して国家を守護すると信ぜられ、これの祭が行はれた。しかしこれ等は皇帝礼拝の素地とはなり得ても、まだそこには随分と大きな距離がある。これを埋めるものは外から来た。
 他方ギリシヤの哲学者達は、すべての神々オリンピアの神々でさへも結局偉大なる人々であると教へた。又その民族を保護し繁栄せしめた王や英雄はその徳と功とによつて、不滅性と活ける威力とをもつとせられ、後の時代の伝説的讃美も加つて、神々と共に祀られた。かかる素地に、王を神として崇めこれに絶対に服従する東方諸国の伝統的信仰と思想とが入り込んで来た。その決定的契機となつたのはアレキサンドロス大王の東征である。これによつて西洋のギリシヤ文化と東洋の宗教的文化とが混淆し、へレニズム即ち東洋化されたギリシヤ文化が生れたのであるが、彼の軍隊が東洋諸国に連勝の旅を進めた時、いたるところで、君主を神として崇め拝跪するのを目撃し、自らも亦神として歓呼せられたであらう。かくてギリシヤ人なる彼の胸中に神的英雄の自覚が生じて来たであらう。その植民地よりは、半ば阿諛〈アユ〉的に彼を神として崇めると申出でた。がこれによつて彼自ら生前神と称したかは不明である。しかし死後直ちに神とせられ、更に彼の後継者達特にエジプト、シリヤ、小アジヤに於いては国家統一の政策として遂に生ける国王自らが神と称し、これを国民が礼拝する事を要求した。かくてやうやく皇帝礼拝が一般に盛んになつた。ロマはかかる東洋化せるギリシヤから決定的な影響をうけたのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・9・12(10位に極めて珍しいものが入っています)

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キリスト者は、なぜ憎悪され迫害されたのか

2022-09-11 02:45:46 | コラムと名言

◎キリスト者は、なぜ憎悪され迫害されたのか

 数年前に、松木治三郎著『新約聖書に於ける宗教と政治』(新教出版社、一九四八)という本を買い求めた。最近になって読んでみたが、なかなか面白い。面白いだけではない、キリスト教という宗教について、宗教とは何か、信仰とは何かという問題について、いろいろ考えさせられる内容を含んでいる。
 紹介してみたい箇所がいくつかあるが、本日は、第四章「ロマ帝国の迫害と新約聖書の証人達」の「一 ロマ帝国最初のキリスト者迫害」の「1 ロマの大火(六十四年)とネロ皇帝のキリスト者迫害」のあとに置かれている「(附・一)ロマ世界に於けるキリスト者憎悪の原因」という文章(全文)を紹介してみたい。

  (附・一)ロマ世界に於けるキリスト者憎悪の原因

 このあたりで一応口マの世界に於いてキリスト者がかく誤解され憎まれるに至つた原因を、簡単にまとめて知くと後の理解に便宜であらう。
(一)歴史的には先述せし如く、キリスト教がユダヤ民族とその宗教とを母胎として生れ出でたところに宿命的な原因があつた。ユダヤ人は異邦人「罪人」として軽蔑し、ロマ人はユダヤ人を嫌悪し、あらゆる迷信と頑固と害悪との魔窟の如く思ひこんでゐた。がこの悪感情を、キリスト者はユダヤ教と分離した後も、そのまま移り受けねばならなかつた(13)。しかも他方ロマの各地に在るユダヤ人からも異端として憎悪せられ、後にテルトゥリアヌスの云つた如く、ユダヤ人のシナゴグが「迫害の源泉」であつたのである。(synagogar Judaecorm fonts persecutionum (14))尚若いキリストの教会はかくの如くロマ人とユダヤ人の双方から挟撃せられ、その立場は極めて困難、不利であつた。
(二)しかし更に深い原因が人心の底に存してゐた。当時ロマ人は、異教的諸宗教の影響下に非常に迷信深くあつた。「人類社会に対する憎悪」とは毒害者や魔術者の罪であつた。信徒の心に魔術をかけて社会に害悪を流させると迷信してゐた。後にであるがテルトゥリアヌスが「ティベルの河が市に氾濫しても、ナイル河が増水しないでも、空が雨を降らさないでも、地震や飢饉や悪疫があつても、直ちにキリスト者をライオンに、と云ふ叫びがあげられる(15)」と云つてゐる。
(三)併し更にその本質をつきつめてゆけば、ロマ人にとつてキリスト教とその生活の特異性(peculiarity)が躓き〈ツマズキ〉であつた。まづ(1)彼らの家庭を分裂せしめ、ロマ的社会の組織を破壊するとみた。この点キリスト者の側にも責はあつた。イエスの「我に勝つて父母を愛する者は我に値ひしない…」(マタイ伝一〇・三七等)より始つて、後には地上の関係を極端に蔑視するに至り、キリスト者となつた妻が異教の夫と争ひ又離婚しようとしたこともあつた。又奴隸と主人との間にも悶着が起つたであらう。この事はパウロの書簡、特に牧会書簡やペテロ前書(コリント前書七・一以下、テモテ前書六・一以下、テトス書二・四、五、ぺテロ前書二・一三~三・一二)等が、かへつてこの世の秩序を重んずべきことを勧告してゐる所から推察出来る。又(2)キリスト者の集会、アガペェ(愛餐)特に聖礼典に何か泌密があると信ぜられた。始めの集会は一般人も与り〈アズカリ〉、むしろ歓迎せられたであらうが、聖餐はバプテスマを受けた信徒のみが与り而も「我が肉を食ひ、わが血を飲まなければ汝らの内に生命がない」といふ様な言葉が語られる。そこに殺人や食人の疑ひが抱かれたのである。更に(3)初代教会の合言葉とも云ふべきμαράν άθα(主よ来り給へ)、即ち暗い運命と悪の権威に支配されてゐるこの人間世界の急激な終末による全き解放の信仰は、内にロマ的否ひろく人類社会に対する否定と憎悪、更に実際に崩壊の陰謀を含むものと見られた。キリスト者は魔術使ひであつて、ロマの大火もその魔術力の現れであり、そのままに放置しておけばやがて世界を崩壊せしむるに至るであらう、と信ぜられた。(4)最後に皇帝礼拝の問題がある。ロマの側ではキリスト者はその宗敎的信仰又は神学的見解の故に罪せらるべしとしたのではない。キリスト者はロマ法律と皇帝の他に絶対な忠誠を神の律法と栄光の座に捧げ、その故に皇帝礼拝に参加しなかつたのであるが、これはロマの官憲と民衆とにはその宗教的理由を問はず、ただ皇帝に対する不忠誠の表明とのみ解釈された。「不服従」「頑固」といふことはロマ人には甚しい没道義であつた。
 かくて、支配階級が迫害したのはキリスト教は明らかに政治的に危険であると見たからであり、又一般民来は性来新宗教に対しては親しめずそれが自分達より非常にかけ離れてゐると感じ、公憤に近い思ひから遂に憎みを抱くに至つたからであつた。「しかし実際は二つの階級は一つである。無知と帝国主義とは個人的精神を僧むことにおいて一つになつてゐる(16)」。ロマの側に於ける誤解むしろ無知は、覆ひ得ない事実である。キリスト者をいきなり「人類の敵」「有害なる迷信」と頭から断定してかかつた所に、反面ロマ人の徳と力と知とに対する誇りがあつた。そこにロマの帝国主義とその一時的成功と繁栄とに対する傲慢があり、これを権力と法とをもつて維持せんとする苦しい努力がある。この力の法はやがて歴史的必然性をもつて盛り上つて来る個人的精神のために破られざるを得なかつた。更に又口マはキリスト教を公認し、国家宗教にまでせざるを得なかつた。さうしてそこにロマ帝国の衰亡の顕著な徴〈キザシ〉が現はれて来たのである。しかし勿論この時代には、まだかかる破綻は少くとも表面化することなく、実にめでたいロマの黄金時代であつた。

(13) 第一章3参照。
(14) Scorpial 10
(15)  Apologia 40 ad Nationes
(16) H. B. workman : Persecution  p.165 本書は我らの時代より更に後期にまで及んで初代教会の迫害史を述べ、通俗的ではあるが興味深い。特にChap. Ⅲ The Causes of Hatred pp. 105-195が面白い。

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