礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西部邁氏の「廃憲論」について

2018-01-26 02:29:15 | コラムと名言

◎西部邁氏の「廃憲論」について

 西部邁〈ニシベ・ススム〉氏の思想、あるいは思想遍歴について詳しいわけではないが、以前、このブログに、「西部邁氏の不文憲法支持論(1995)への疑問」(二〇一三年七月二九日)、および「過激派にして保守派の西部邁氏にとっての伝統とは」(二〇一三年七月三〇日)というコラムを書いたことがある。
 また、二〇一七年一月に出した『「ナチス憲法」一問一答』(同時代社)でも、西部邁氏の不文憲法支持論に言及した。本日は、同書から、その部分を引用してみたい。
 引用するのは、同書の「Ⅳ 総括編」の答45の「六 『ナチスの手口』はそう簡単には真似できない」の全文である。

六 「ナチスの手口」はそう簡単には真似できない
 麻生〔太郎〕氏のいう「あの手口」とは、何だったのでしょうか。本書においては、ワイマール憲法を、いつの間にか「ナチス憲法」に変えてしまった、その手口というふうに捉えたいと思います。「五」でも述べましたが、ワイマール憲法は、一挙に空文化したというわけではありません。まさに、「いつの間にか変った」のです。
 また、「あの手口」=「ナチスの手口」というわけでもありません。ワイマール憲法を、いつの間にか「ナチス憲法」に変えてしまった、その全過程における手口を、「あの手口」と呼ぶべきでしょう。ヒトラー内閣成立以前における、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーの三内閣が示した「手口」にも、かなり、問題があったわけです。
 ところで、麻生氏のいう「あの手口」は、そう簡単には真似ができません。特に、全権委任法を手はじめに、次々と「憲法的立法」をおこない、ワイマール憲法を空文化した「ナチスの手口」などは、そう簡単に真似できるものではありません。
 戦前の日本は、ドイツの全権委任法に倣って、「国家総動員法」という法律を制定しました。しかし、これは大日本帝国憲法のもとで成立した戦時法規であって、これによって、大日本帝国憲法が空文化した事実はありません。
 1990年代半ばに、評論家の西部邁【すすむ】氏は、イギリス型の不文憲法を支持する立場から、「廃憲論」を唱えたことがあります〔西部1996〕。いま考えてみますと、これは、「ナチス憲法」と同じ論理です。西部氏が、もし2013年7月の時点で「廃憲論」を維持されていたのであれば、その立場から論争に参加するべきだったと思います。
 今日の自由民主党の中枢部には、たぶん廃憲論者、不文憲法支持者はいないと思います。いたとしても、ごく少数だと思います。自由民主党の「日本国憲法改正草案」(平成24年4月27日)にしても、「廃憲論」ほどは過激ではありません。ただし、この「日本国憲法改正草案」には問題が多すぎます。特に、立案者が「立憲主義」についての理解を欠いている点は問題であり、欠陥草案だと断定されてもやむを得ないでしょう〔礫川2013〕。

 引用文中に、〔西部1996〕とあるのは、西部邁著『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六年三月)所収の論文「読売憲法改正試案を論ずる」を指す。同書の注に、この論文の初出は一九九五年一月とあったので、これを確認するため国立国会図書館に赴いたが、初出論文を閲覧することはできなかった。
 同じく引用文中に、〔礫川2013〕とあるのは、礫川著『日本保守思想のアポリア』(批評社、二〇一三年六月)を指す。

*このブログの人気記事 2018・1・26(9位にやや珍しいものが入っています)

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軍の政治関与は軍人勅諭に反する大逆(石原莞爾)

2018-01-25 01:13:40 | コラムと名言

◎軍の政治関与は軍人勅諭に反する大逆(石原莞爾)

 榊山潤著『石原莞爾』(湊書房、一九五二)から、石原莞爾が、一九四一年(昭和一六)三月に、待命となった際の「挨拶文」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

四、軍と政治
自由主義政党の没落により軍に政冶的負担のかかつて来たのは真に出むなき時の勢でありました。然し一日も速かに軍は其の本然の任務に専念し得る様にならねば遂に勅諭〔陸海軍軍人に賜はりたる勅諭〕の御精神に反し奉る大逆に陥り、当然の結果として軍内の不統一を来し〈キタシ〉国運を危からしむるに至るべきことを恐れ心安かなるを得ないのであります。
満洲国は外形急速な進歩をして居るものの内容これに伴はず民心の不安は軽視し得ぬ状態にあります。其の根本原因の一は政治に責任のないことであります。尨大な特務部を擁して軍が政治を指導して居た時代は兎に角〈トニカク〉、今日の関東軍には其の様な機能はありません。而も満洲国政府は全責任を以て政治に当つて居るとは申されませぬ。深く考へねばならぬ大問題が此処に伏在して居ります。
国内に於ても軍が政治的行為に近よる程度が日に大きくなりつつあるではないでせうか。軍に対し「幕府的存在」等と蔭口を申す者が生じて来たことは事実であります。此の如き誤解が大きくなれば自然国内政治にも全責任を積極的に負ふ者がなくなる恐れがあります。国家の為最大の危険信号と申さねばなりませぬ。
私は政治行為は文官である大臣次官に限るべきものと堅く信じて居ます。局長以下大臣の幕僚は大臣の政治行為に必要なる資料を整理し大臣を補佐するのであつて断じて自ら政沾的行為をなすべきものではありませぬ。勅諭の御精神と確信します。又軍以外の職務に出て居る軍人の一日も速かに軍隊に復帰し得るに至らんことを念じて居ります。
五、自由主義の清算
軍中央部並高等司令部の執務は下級者より事を運ぶ連帯式の自由主義的方式であることは断じて否定出来ませぬ。世に革新を迫るに先ち〈サキダチ〉軍自ら革新せねばなりませぬ。病根深く私の経験では師団司令部でさへ幕僚の熱心なる努力にもかかはらずまだ自由主義的傾向を清算し切つたとは申されませんでした。
「幕僚が方針を定め上官細部を修正する」のが実に今日依然一般ではないでせうか。世間で軍部の不統一を云々するのは必ずしも不当とのみは申されません。
此の根本改革については陸大〔陸軍大学校〕教育や業務処理方式の果敢な革新を必要とするのですが、特に重要なのは人事の根本的刷新と確信致します。
温情主義の平等人事を一抛し司令官、隊長たるに適する少数の徳と力ある人を永く其位置に止まらせねばなりません。これを空想とするならば軍の革新は全く夢と申す外ないのです。全体主義の根底は此責任ある人事であります。特に師団長と連隊長が最も肝要と考へます。
盛〈サカン〉に唱えらるる事務簡捷や軍の能率化も此指導者原理を断行し得ない限り結局空文に終ります。人を信頼出来ず文書による事務方式では軍の能率は決して揚りません。これは私も連隊長二年間師団長一年半身を以て深刻に体験したところであります。
隊長を尊重し其の全責任の下に敏活果敢に軍務を処理せしむる為には中央部の職員や高等司令部の幕僚は特に謙讓にして礼儀を正さねばなりません。幕僚の適任者は永く幕僚勤務に服せしむべく無理に短日月の隊附勤務は却て〈カエッテ〉弊害をも生じます。
以上少々乱暴の申分もありませうが悪口屋で通つて来ました私の現役最後の赤誠こめた苦言として御許しを願ひます。
最後に私の今後の生活予定について申上げます。私は現役を退いたならば軍事学特にフリードリヒ大王とナポレオンの研究に従ふ考で、永年これを楽しみにして参りました。相当に資料を集めて居ります。ところが中耳炎後記憶力と読書力が著しく減退し、昨年から少しづつ心掛けて見ましたが遂に大体断念致しました。甚だ未練があるのですが致し方ありません。
私の最終戦争論は勿論未熟なものですが、決して時局便乗の一夜漬のものではありませぬ。三十年近くの空想と若干の研究の結果で、少しは世に問ふ価値があるかと考へますからその説明を求めらるるところには喜んで御話しする考であります。
「民族協和」「東亜連盟」は満洲建国の所産であり私は之を昭和維新の重要な指導原理であると確信するものであります。勿論私には深い理論的説明は不可能ですが十年間の体験により、有力な人々が表はれる迄の若干年の間は私の体験談も少しは意義あるものと考へます。今日迄と同様私の意見を求めらるる方々には私の力の及ぶ限り常に喜んで所信を御伝へする決心であります。これが私として今後君恩の万分の一に報ずると共に満洲事変並今次事変〔支那事変〕の英霊に回向〈エコウ〉する唯一の道であると確信致して居ります。
居を 京都市上京区等持院上町五二番地 に定めました。今後兎角御無沙汰勝〈ガチ〉となる事と存じますから不悪〈アシカラズ〉御許し下さい。   敬具
  昭和十六年三月        石 原 莞 爾

 若干、コメントする。この「挨拶文」の中では、特に「四、軍と政治」の内容が重要ではないか。ここで、軍の政治関与は、軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)に反するということを、ハッキリ指摘しており、また、それが「軍内の不統一を来し国運を危からしむる」可能性があるという警告も発しているからである。
 なお、『石原莞爾』(一九五二)では、石原の挨拶文のうち、「一、軍人精神の反省」から、「五、自由主義の清算」の最後、「却て弊害をも生じます。」 までは、小さい活字で組まれている。つまり、挨拶文内の「所見」という位置づけになっている。しかし、『小説 石原莞爾』(一九五四)では、活字の大きさに変化がなく、このあたりの位置づけが明確でない。この点、ひとこと、読者諸氏の注意を喚起しておきたい。

*このブログの人気記事 2018・1・25(東欧の反ユダヤ主義がなぜか1位、9・10位も珍しい)

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明確な目標なき新体制論議は国民を困惑させる

2018-01-24 04:38:01 | コラムと名言

◎明確な目標なき新体制論議は国民を困惑させる

 昨日の続きである。榊山潤著『石原莞爾』(湊書房、一九五二)から、石原莞爾が、一九四一年(昭和一六)三月に、待命となった際の「挨拶文」を紹介している。本日は、その二回目。

三、国防力の積極的建設
蘇連〈ソレン〉の極東に使用し得る兵力に対抗し得る兵力を保有し且其の在極東兵力に劣らざる兵力を北満に配置することが陸軍軍備の根本方針たるべきことは申す迄もありませぬ。
然るに蘇連の全体主義的極東兵力に対し日本の自由主義的建設は彼我〈ヒガ〉の極東兵備に甚しい差を生じました。断乎として一日も速かに此差をなくすることが国家の最重要急務であります。国防国家建設の基礎は此明確な決意にあります。蘇連の生産力は十数年前迄は遥かに日本の下位にありました。我国が蘇連の増強に追及し得ない等と考ふるものあるならばそれは日本を侮蔑し、且時代を認識しないものであります。昭和十一年〔一九三六〕の生産力拡充計画を強行して居たならば(今次事変の為全面的実現は勿論不可能であるが)昭和十六年〔一九四一〕は例へば鋼は千万乃至千二百万噸〈トン〉を生産し得る訳であつたのです。さうなれば東亜の形勢は丸で変つて居たと思ひます。
国防上絶対必要とする尨大なる生産力の一歩も退かぬ断乎たる要求が昭和維新の原動力であり新体制は自然に生れて参ります。明確なる目標なく新体制の機構論議は徒に〈イタズラニ〉国民を困惑せしむるのみです。
資源は勿論必要です。然し今日の文明は科学と生産能力を更に重要ならしめました。如何に資源を獲得しても今日の様な生産力では近く恐るべき苦境に立つことを覚悟せねばなりませぬ。
蘇連は中立のよき立場を利用して其の計画の進展に全力を注いで居ります。
自由主義時代特に我〈ワガ〉機械工業未発達の時は兵器工業を軍の直営とする必要がありました。然し今日は時代が変化しつつあります。国防上の要求は明確ならしめねばなりませぬが其の建設は 国家各担任機関の全責任によりて遂行せらねばなりません。それが国防国家の姿であります。兵器の製作は国家の全工業力の綜合的運用に俟つべく一日も速かに天才的人物を戴く軍需工業省の創設を熱望致します。軍が自ら兵器を製造するのは国防国家の本則に合せず〈ガッセズ〉生産能力の飛躍的増進は困難と考へられます。
北満兵備の充実のためには北満振興の必要は申す迄もありません。然し軍自体として更に積極的研究をすすめ、速かに蘇連以上の兵力を北満に移し得るに至らねばなりませぬ。簡易にして而も実用的なる兵営の軍隊の労力による建築、兵力による食糧の生産等あらゆる点に新機軸を必要とします。軍人は卒先無住の地に移り義勇軍や開拓民の中核となつて故東宮大佐の所謂「第二の高千穂」を北満の地に建設すべく全熱情を傾注すべきであります。昭和軍人の使命も安心も此処〈ココ〉にあらねばなりませぬ。「軍人は質素を旨とすべし」との聖諭今日の如く軍人の生活に切実なる日は未だ嘗てありませんでした。【以下、次回】

 引用の最後のほうに、「故東宮大佐」とあるのは、「満蒙開拓移民の父」と呼ばれた東宮鉄男〈トウミヤ・カネオ〉陸軍大佐のことである(一八九二~一九三七)。

*このブログの人気記事 2018・1・24(4・9・10位に珍しいものが入っています)

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石原莞爾、待命の際の挨拶(1941年3月)

2018-01-23 02:15:34 | コラムと名言

◎石原莞爾、待命の際の挨拶(1941年3月)

 榊山潤著『石原莞爾』(湊書房、一九五二)と、同著『小説 石原莞爾』(元々社、一九五四)とが、基本的に同じ本であることは、昨日、指摘した。そして、両書の巻末には、「後記と補遺」という文章が付されている。もちろん、同文である。そして、その「後記と補遺」の最後に、石原莞爾の「挨拶文」が引用されている。これは、石原が、一九四一年(昭和一六)三月に、待命となった際、一部に配ったものとされる。
 この挨拶文の背景をよく理解できていない私にとっては、意味が通じがたいところも多いが、これがひとつの「史料」であることは間違いないだろう。
 本日は、以下、その挨拶文を紹介してみよう。

拝 啓
今回待命被仰付〈オオセツケラレ〉近く現役を去るに当りまして、永年の御好誼に対し厚く御礼申上げます。
私は既に昭和六年〔一九三一〕末に身を引くべきだと考へました。二・二六事件〔一九三六〕には更に責任の重大を痛感、是非引退すべく決心したのでしたが遂に願ひが達せられませんでした。
今次事変〔支那事変〕勃発の時作戦部長〔参謀本部第一部長〕の重職にあつた私は申上げ様もない責任を感じて居ります。「事変はとうとう君の予言の如くなつた。」とて私の先見でもある如く申す人も少くありません。さういはれて私は益々苦しむ外ありません。当時部隊すら統制する徳と力に欠けて居た我身を省みて真に身の措き所に苦しむ次第であります。今度宿望〈シュクボウ〉叶'ひまして第一線を退かしていただくこととなりましたに就ては衷心感謝の念に満たされて居り心から御礼を申上げる次第であります。
今日我陸軍は国家同様甚しい困難の渦中に立つて居り、全軍心を一〈イツ〉にして此危局を突破することが国難を救ふ根本であることを確信致します。此際率直に所見を開陳して御参考に供したいと存じます。
一、軍人精神の反省
明治以来の西洋中毒は今日殆ど頂点に達して居り、自ら日本主義者を標榜する人々すら功利主義的言動を平気で行つて居ります。軍人も自然其の影響下にあります。クリステイの「奉天三十年」を見ますと日清戦争に比し日露戦争の時は軍紀が紊れて〈ミダレテ〉居ることが明かです。日本軍が今次事変に若し北清事変〔一九〇〇〕当時の道義を守つたならば蒋介石はとつくに日本の戦力に屈伏して居たであらうといはれます。
時局の波に乗じて「常々人に接するには温和を第一とし諸人の愛敬〈アイギョウ〉を得むと心掛けよ」との聖諭〔陸海軍軍人に賜はりたる勅諭〕をわすれ、「豺狼〈サイロウ〉などの如く」思はるる戦友の逐次増加しつつあるは残念ながら否定出来ません。又軍人の「信義」や「誠心」をうたがふ世間の評判も断じて軽視を許しませぬ。軍人の責務いよいよ重大なるにつれ益々一心に勅諭の御示しに恭順ならんことを念じて全軍の団結を鞏固〈キョウコ〉にせねばなりません。
「戦陣訓」は誠に時宜に適した教訓ですが、其の取扱若し万一適正を欠くが如きことあつたならば勅諭に対し奉る信仰の統一を妨ぐる恐れ絶無とは申されませぬ。
二、戦闘力の増進
メモンハンに於ける戦友の力戦〔一九三九〕を思ふ毎〈ゴト〉に深刻徹底せる軍事学の研究と適切なる訓練の切要を痛感致します。然るに独逸〈ドイツ〉や蘇連〈ソレン〉の軍事研究に比し残念ながら日本には見るべき研究発表がありません。訓練第一主義は流行語ですが軍隊の実情は私共青年将校時代だけの熱もありませうか。中央部も各隊も深き反省を必要と信ぜざるを得ません。【以下、次回】

 若干、注釈する。最初のほうに「昭和六年」とあるが、これは、いわゆる満洲事変があった年である。「一、軍人精神の反省」の初めのほうに、「北清事変」という言葉があるが、これは義和団事件とも呼ばれる。「一、軍人精神の反省」の真ん中あたりに、「豺狼」という言葉があるが、残酷な人々の喩えである(豺はやまいぬ、狼はおおかみ)。

*このブログの人気記事 2018・1・23

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榊山潤『小説石原莞爾』(1954)の序文

2018-01-22 00:36:27 | コラムと名言

◎榊山潤『小説石原莞爾』(1954)の序文 

 石原莞爾(一八八九~一九四九)は、戦中から今日まで、つねに人々の注目を浴びてきた人物である。戦中の一九三七年(昭和一二)、すでに、西郷鋼作著『石原莞爾』(橘書店)、および、菅原節雄著『板垣征四郎と石原莞爾』(今日の問題社)という二冊の本が出ている。
 戦後は、一九五〇年(昭和二五)に、精華会中央事務所から、『石原莞爾研究 第一集』というものが出ている。一九五二年(昭和二七)には、榊山潤著『石原莞爾』(湊書房)、および、山口重次著『石原莞爾 悲劇の将軍』(世界社)という二冊の本が出ている。一九五四年(昭和二九)には、高木清寿著『東亜の父 石原莞爾』(錦文書院)、および、榊山潤著『小説 石原莞爾』(元々社)という二冊の本が出ている。
 それ以降も今日まで、タイトルに「石原莞爾」を含む本(図書)が、多数、出版されている。
 一九五四年までに出た本のうち、榊山潤著『小説 石原莞爾』(元々社)は、だいぶ前に読んだことがあるが、それ以外の本は、一冊も手にしたことがない。『小説 石原莞爾』にしても、ほとんど内容を覚えていない。
 本年になって、久しぶりに同書を引っぱり出してみた。一九五四年一一月二五日の発行で、元々社「民族教養新書」の20にあたる。巻頭に、「新版の序に代へて」という一文があり、同書は、榊山潤著『石原莞爾』(湊書房、一九五二)の「新版」であるらしいことがわかった。図書館で確認してみたところ、『石原莞爾』と『小説 石原莞爾』の内容は、ほとんど同一であり、後者の巻頭に、「新版の序に代へて」という一文が置かれている点のみが相違点であった。
 さて、本日は、榊山潤著『小説 石原莞爾』から、「新版の序に代へて」を紹介してみたい。

  新版の序に代へて

 これは「石原莞爾」の伝記でもなければ、頌徳表でもなく、飽くまでも小説である。私はこの作品によつて、日本の旧軍閥の中にも、かういふ流れのあつたことを書いて見たかつた。この流れは結局は無力であつて、玉とも瓦とも砕けずに終戦を迎へたが、さういふ生き方自身もまた悲劇である。私はこの悲劇を究めたかつたと同時に、とかく一辺倒になりがちな風潮に対して些かの天邪鬼を発揮して見たかつた。これを書いた昭和二十五年とは大分情勢も違つて来たが、逆コースといはれる今日、この題名のために蒙つた愚かな誤解を、別の意味で再び蒙るかも知れぬ。が、そんなことはどうでもいい。唯、ダイジェスト的でない読者には、些か私の意のある処を汲取つて貰へるだろう。
  昭和二十九年十一月         著 者

 榊山潤(一九〇〇~一九八〇)は、昭和期の作家で、『歴史』(一九三九~一九四〇)などの作品がある。なお、村岡素一郎著の奇書『史疑』(一九〇二)を再発見し、世に知らせたのは、榊山潤である(『特集人物往来』一九五六年五月号)。

今日の名言 2018・1・22

◎私はほとんど変態せぬカマキリよりもきちんと変態するチョウのほうが好きなのだ

 西部邁氏の言葉。その著書『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六)の二〇五ページに出てくる。みずからの思想遍歴(思想的「変態」)を振りかえり、それを肯定した言葉。報道によれば、昨21日、西部邁氏が亡くなられたという。ご冥福をお祈りします。

*このブログの人気記事 2018・1・22(7位に西部邁氏が入っています)

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