◎軍に賢い戦争指導者なく政府に力ある政治家なし
上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
本日も、「痛恨近衛密使逮捕の顛末」の節の続きを紹介する(同節の三回目=最後)。
このようにして、私の一世一代をかけた特殊任務は、出ばなで幕を閉じてしまったのである。
宮崎と私は、神戸憲兵分隊員の護送で横浜駅まで来て、東京憲兵本部から来た、和田少尉以下に引継がれ、横浜駅から自動車で東京憲兵隊本部に護送された。
このとき車中で浮んだ一首がある。
鹿島立ち重きつとめを 持つ人を
呼び止め戻す 須磨の松風
東京憲兵隊は直ちに秋山定輔、実川時次郎の関係者を検挙し、家宅捜索をして渡航目的の背後関係を取調べた。
このとき、宮崎夫人の柳原白蓮〈ヤナギワラ・ビャクレン〉女史も参考人として出頭を求め、はじめてその容姿に接したものである。
宮崎とその関係者は、約二週間ばかりで釈放となったが、たしかにこの時機は、日支事変をめぐる一大転換の好機会であったのに……【ママ】。
近衛首相が日支事変不拡大方針を決めて、杉山〔元〕陸相とも相談し、陸相もこれに賛成していたことは事実のようであったが、この事件が参謀本部支那課の知るところとなると、〝自分達をよそに何事だ〟ということになって、陸軍省の尻をたたいて、特使阻止という非常手段に出たものと考える。そうは言っても、石原〔莞爾〕作戦部長など、満州事変の張本人であった人が、
「近衛を南京に飛ばして、蒋介石と膝詰談判をさせろ」
と、杉山陸相や梅津〔美治郎〕次官に迫ったともいうことである。
石原という人は満州国を完全なものとして理想国家に仕上げることが大切で、支那事変に反対していたのかも知れない。
張群〔当時、国民政府軍事委員会秘書長〕と親交のあった実川時次郎など、宮崎事件の取べ中、監視していた私に対し、
「蒋介石は、日本は決して支那に深入りをしてはいけない。日本はそのため多大の兵力を消耗してしまう。日本が倒れれば、蒋も倒れると言つておる」
と、嘆いていたことがある。
今になって思うことは、軍にも賢い戦争指導者がいなかったことと、政府にもすぐれた力ある政治家がいなかったということであろうか。
青年将校とか少壮官僚の意気が旺盛で、支那事変の拡大をねらう者の多かったことと、一般国民の中にも『対支膺【よう】懲』という声があがり、軍統帥部の勇断も事欠き、政治の迫力も乏しくなって、支那事変を泥沼化してしまったことが侮やまれる。
それに加えて西安事件〔一九三七年一二月〕は蒋介石の後退を余儀なくされ、中共の台頭による国共合作によって、徹底的抗日戦争の遂行となって、遂に事変は長期拡大をみるに至ったのであった。
作戦が政治に先行した場合、国家の破滅的結果を招来することは、ナボレオンの遠征、豊太閤〈ホウタイコウ〉の朝鮮征伐等古今東西歴史の示すところであり、ヒットラーの敗滅、ムッソリーニの敗滅、そして日本の敗戦といずれも後になってこれを実証しているのである。
現在のアメリカのベトナム進出、南アフリカや中近東における軍事援助が、政治に先行しないことを切望するものである。
昭和十二年〔一九三七〕十二月には、日本軍は上海から進んで南京を占領し、国民政府は重慶に移るに及んで、昭和十三年〔一九三八〕一月十六日、近衛内閣は、『国民政府を相手とせず』との声明を発するに至った。
上原文雄著『ある憲兵の一生』の紹介は、このあとも続けるが、明日は、いったん話題を変える。
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