礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

相馬ケ原弾拾い射殺事件、一名「ジラード事件」(1957)

2014-03-28 04:53:07 | 日記

◎相馬ケ原弾拾い射殺事件、一名「ジラード事件」(1957)

 数年前、池田正映著『群馬県重要犯罪史』(高城書店)という本を入手した。この本は、どういうわけか、奥付に発行年月日の記載がない。しかし、一九五七年(昭和三二)に起きた「相馬ケ原弾拾い射殺事件」(一名「ジラード事件」)の判決文(同年一一月)が載っていることなどから、それから、さほど経過していない時期に刊行されたものと思われる。
 今回、この本でジラード事件の判決文というものを初めて読み、この事件の「全貌」を知った。被害者を死にいたらしめたものが、ジラード三等特技兵(判決当時二〇歳)が、手榴弾発射装置(グレネードランチャー)を使って発射した空包小銃弾空薬莢であったことも、はじめて知った次第である。
 以下に、前掲書で池田が引用している判決文(前橋地裁刑事部、昭和三二年一一月一九日)の一部を、そのまま再引用する。ここで池田が引用している判決文は、原本の一部にとどまり、しかも、誤引用と思われる部分が散見される。このコラムでは、あえてそのまま再引用したが、疑問の箇所には、〔ママ〕と注記しておいた。
 なお、インターネット上には、「東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室」が公開している同事件判決もある。こちらは、原本に近いものだが、これにもやはり、誤植(たぶん、スキャナーの読み取りミス)と思われる部分が散見される。

〔犯罪事実〕被告人は一九三五年八月十一日米合衆国〔ママ〕イリノイ州ストリタ市で出生し小学校八年中学校一年の課程を修めた後、一九五三年十一月米合衆国陸軍に志願して服役し日本国と米合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定いわゆる〔ママ〕米合衆国陸軍の一員として一九五四年四月日本国に入国し、北海道駐留部隊勤務を経て同年九月埼玉県大里郡三尻村所在キヤンプウイテイントンに移り以来同キヤンプに駐留し本件当時米合衆国陸軍第一騎兵師団第八騎兵連隊第二大隊F中隊所属の三等特技兵として自動車運転手をつとめその後肩書部隊に転属し現に服役中のものである。
 被告人は昭和三十二年一月三十日群馬県群馬郡相馬村(この村名は本件当時のもので以下の記載も同様である)所在キヤンプウエア演習場(榛名山の東南ろくに位置し面積約七百万坪に及ぶ旧日本陸軍相馬ケ原演習場)で行はれた。〔ママ〕右F中隊所属将兵三十余名による演習に小銃手として参加し、同日午前八時前後頃ごろ同演習場内相馬村大字広駒所属〔ママ〕御岳山(米軍による呼称名はシユライン・ヒル以下括弧中の名称はすべて同趣旨である)附近から小銃および軽機関銃の実包射撃による陣地攻撃演習を開始し、その北西方約一キロメートルの附近にある天神山(チヨコレート、ドロツプ)を経て、その北西方約二百メートルに在る同大字所在物見塚(六五五ヒル、標高約六百五十五メートル)を攻撃し、午前十一時過頃ひとまず午前中の演習を終了し、昼食のため物見塚附近で休憩に入つたのである。
 そもそも日米両当局はかねてより同演習場周辺の要所に立入禁止の標柱および制札を設置するほか演習実施の際にはその周辺の住民に対し、関係機関を通じて演習を行う旨予告するとともに演習当日同演習場周辺など各所から見易い特定の場所に赤旗を掲揚して危険につき演習場内への立入を禁止する旨警告し地元日本国警察当局も演習中一般民衆の立入禁止のため種々の方策を実施しかつ日米両国の関係機関においてしばしば協議を開きその実効をあげるための対策を講じもつて危害の発生を未然に防止するよう努力していたが同演習場が前記の行政協定第二条にいわゆる合衆国軍隊が使用する施設又は区域であるか否かが明らかでないため同演習場内の立入行為そのものをとくに処罰できなかつたことと他方銃弾の空薬きよう〈カラヤッキョウ〉や砲弾の破片などの金属が高価で売れるところ米軍当局がこれら物資の処理に殆んど関心を示さなかつたことからこれを拾得して生計の足しにするなどのため右住民のうち演習場内へ立ち入る者も漸次ふえついには右の警告などをも無視演習実施中にもかかわらず場内へ立ち入りしかもこれら弾拾い〈タマヒロイ〉の増加に伴いその相互間の競争も激化し演習のため行動する将兵につきまとつて拾い集める者も出てくる一方米軍将兵のうちには右弾拾いに対し好意的に多量の空薬きようを与える者もあつて弾拾いに対する日米双方の取締も所期の成果をあげ得ない実状であつた。
 本件の一月三十日におけるF中隊の演習に際してはしんちゆうの小銃弾や軽機関銃弾の空薬きようが拾えるためか演習開始の頃から少なくとも六、七十名に余る弾拾いが前記警告を犯して演習場内に立ち入りある者は演習中の将兵につきまといある者は散兵線の前方に飛出しある者は射撃直後の焼けた軽機関銃の周囲に群がり先を争つて空薬きようの拾得に熱中する余り演習の執行を妨げるとともに将兵ならびに弾拾いの身命に危険を招いたため実包による演習を中止し午後の演習においては空包を使用することにその予定を変更させてしまう程の状況であつた。
 かかる状況の下にF中隊は昼食後午後零時半過頃より演習を再開し部隊をモーホン少尉指揮の一隊とジガンテイ少尉指揮の一隊とに二分し被告人はモーホン少尉の隊に属しまずモーホン少尉指揮の下に御岳山付近に至り同所から行動を開始物見塚東峯およびその周辺に布陣するジガンテイ少尉の隊を攻撃しての攻撃において匍伏前進しあるいは実包〔ママ〕を撃ちながら進撃し物見塚東南ろく付近に到達した。
 午後一時半頃攻撃を終止して将兵一同物見塚東峯に登り続いてジガンテイ少尉の隊が右同様の演習を実施するためモーホン少尉の隊と交代して物見塚を降り御岳山に向かい出発したがその交代にさいしモーホン少尉はじめジガンテイ少尉より物見塚の東西両峯の中間に存する鞍部〈アンブ〉中央付近に存置する軽機関銃一挺およびフイールド、ジヤケツなど数点の管理を引き継いだのである。
 当時モーホン少尉指揮下の将兵は右のような攻撃演習を実施した直後であつてその多くの者はかなり疲労していたため物見塚東峯頂上付近からその東側斜面上にかけてモーホン少尉をはじめ各自思い思いの姿態で休憩をとつていたのであるが同少尉はたまたまその身辺にいた被告人およびビクター・N・ニクル三等特技兵の両名に対し前記軽機関銃などの警備を命じこれがため被告人はニクル三等特技兵とともに右の鞍部に赴き休憩を兼ねながら右軽機関銃などの警備の任に就いたのである。たまたまそのころ物見塚西峯の東側斜面およびその南側ふもと付近に少なくとも数名以上の弾拾いが空薬きようを拾う機会をうかがいながら演習の推移や将兵の挙勤を見守るようにしていたのであるがニクル三等特技兵は右の警備に就くや間もなく身辺に落ちていた銃弾の空薬きようを拾つて右の鞍部南斜側面下方に投げ捨てはじめこの動作を数回繰り返し行なううち被告人は右ニクルをして被告人の所在位置からほど遠くない右の鞍部南側斜面上の個所に空薬きようを投げさせた。前記西峯の東側斜面に待機していた弾拾いに向かつて手招きをしながら声をかけ右の空薬きようが投げ捨てられた個所を指したので弾拾いの一人が右の斜面上から下りその場にかけつけ空薬きようを拾い始めたが同時に右鞍部の西端北側付近からも弾拾いの一人である相馬村大字柏木沢六五四番地の二農業坂井秋吉の妻女なか(明治四十三年八月十三日生)が同所にかけつけ空薬きようを拾得しようとしたところ被告人ジラードは同女に対し鞍部西端附近にあるごうを指さし「ママサンダイジヨウビ、プラス〔ママ〕ステイ」といいもつて同女をして右の壕内に空薬きようが多量にあるから拾つてよい旨を理解させよつて同女をごう内に赴かせたうえ(時に午後一時五十分頃と思われる)所携のMⅠ〈エムワン〉小銃の銃先に装置せる手りゆう弾発射装置に空包小銃弾空薬きよう(長さ約六二・六ミリメートル底部の直径約一一、九ミリメートル)をその開口部を奥にして差し込み空包一発を装てんした上突如同女に向かい「ゲラルヒア」と叫ぶとともに右小銃を携えたまま前記の壕に向い走り寄りもつて同女を威嚇しこれに驚いた坂井なかが壕から這い上りその北西方へ逃げのびようとして走り行くその背後十メートル内外の距離から同女の身辺をねらつて空包を撃ちこの空包のガス圧により前記空薬きようを発射しもつて同女に対し暴行を加えたところ意外にも右空薬きようが同女の左背面第七肋間部に命中しその射入に因つて同女は左背部から下行〈カコウ〉大動脈上部に達する全長約十一センチメートルの盲管射創に基づく大動脈裂創を負わせ右裂創による失血のため即時その場において右坂井なかを落命させたものである。

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2014-04-07 21:29:20
 何か怖い事件ですね…。

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