◎松川事件、現場に停車した一台のトラック
昨日の続きである。吉原公一郎氏の『松川事件の真犯人』(三一新書、一九六二)によれば、松川事件発生の直前、現場付近に、一台のトラックが停車したという。以下、引用(二二九~二三一ページ)。
二四年〔一九四九〕八月一七日付、阿部卯月・遠藤俊一作成の捜査復命書には、
「金谷川村大字浅川字丸石四番地、慶治の妻・農業渡辺きみ子・当三十三年
右者方に於て昨夜の列車顛覆事件発生時刻に於ける線路及び国道の通行人及び諸車の通行有無について尋ねたる処午前二時五十分頃トラックと思料される自動車の音響がして踏切点の所に於て停車したかの感がしたけれども、それが果して停車せるや否不明である」
と記載されている。
この車の運転手は、習慣から踏切りにおいて一時停止をしたのであろう。だが、犯人たちの使用している車であれば、二時五〇分前後には列車の通遇がないことを知っているはずである。同じ捜査復命書は「この点より見て或は犯人は自動車を利用して若しや現場に行って犯行を犯したのではないかと思料し、当地付近の人家を調査したるも人の通行したるかと思われるものを聞知せず」ともいっている。浅川踏切りを通遇したのはこの自動車一台だけであったと思われる。犯人が自動車を利用したとすれば、この自動車以外に考えられたい。だが、この車は浅川踏切において一時停車をしている。
筆者は、この運転手は犯行の事情を知らない日本人であったと思っている。
ここで、斎藤寛之という人物に登場してもらわなければならない。われわれが、「真犯人はジャップじゃない」という、ジョージ・クレーに関する記事を『新週刊』に発表した直後である。われわれのところに、奇怪な電話がかかってきた。電話の内容は、「自分は陸羽街道と川俣街道の交叉するところから、九人の人間を乗せたが、あるいは平間〔高司〕・村上〔義雄〕証人がみた九人ではないか、ということに、記事をみて気がついた。実は、十五日に、私が勤めていた、芝の保険局の向いにある福田という人からいわれ、救急車を黒く塗りつぶしたような自動車を運転して、仙台を廻って、陸羽街道と川俣街道の交叉するところで待っていた。二一時五〇分ごろだった。場所は地図を書いて渡された。
福田という家には、アメリカ軍の人が出入りしていたが、私たちは郵船ビルから、その仕事をもらったはずだ。
車のなかで、たしか九人だったと思うが、男たちはだまりこくっていた。会話は英語だったが、一言、途中ボサッとした男に会ったな、といったのを聞いた。途中、郡山で非常線にあったが、なかから懐中電灯を三回点滅すると、無事通してくれた。そして、そのまま東京に直行し、朝霞の米軍キャンプに送りとどけた。その翌日、給料をわたされて馘〈クビ〉になったが、そのときの給料袋はいまも持っている。
そして、九人のうちの一人に、後楽園ジムの権藤・海津戦のときに、リングサイドで女とみているのを見た。それは、たしかにあの男だった。福田という表札は変わっているが、その家には、いまもアメリカ人が出入りしている様子だ」
男のいうのは、だいたいこのようなものだった。
彼は、ようやく姓名だけを明かしたが、住所は麻布一丁目の交番の近所という以外何もいわなかった。斎藤寛之というのが、その名前であった。彼は、われわれと会う場所を、夜の八時、港区麻布一丁目の交番のところにある公園のベンチと指定した。
指定の日時に、われわれは、松川事件弁護団の中田弁護土、松対協〔松川事件対策協議会〕の鈴木氏とともに麻布一丁目の公園に出かけた。
しかし、男はついに姿をみせなかった。だが、彼が姿をみせないということで、とくに落胆はしなかった。もしも、彼の話が真実であるとするならば、それはありうることだった。【以下略】
「と記載されている。」以下は、吉原公一郎氏のコメントである。しかし、重要なのは、コメントの前の部分、および、コメント中、捜査復命書を引用した部分である。
吉原氏は、トラックは踏切で一時停止した、だからこの運転手は日本人だ、と述べている。これは吉原氏の思い込みであって、トラックは踏切で一時停止したのではなく、踏切前で停車し、そこで、「実行犯および機材」を降ろしたと見るほうが自然である。すなわち、「犯人は自動車を利用して若しや現場に行って犯行を犯したのではないか」とした、阿部卯月・遠藤俊一復命書の判断を妥当とすべきである。
なお、この「踏切」とは、東北本線と陸羽街道とが交差する浅川踏切のことで、これは事件発生現場より、金谷川駅寄りにある。
吉原氏は、電話をかけてきた「斎藤寛之」を名乗る男の話を信じているようだが、一見して、ガセネタとわかる。犯人の「逃走」のためだけに、東京からトラックと運転手を呼ぶことはありえない。この日、使われたトラックは、一台限りであって、「実行犯および機材」を浅川踏切で降ろし、レールの取り外しが終わったあとは、再び「実行犯および機材」を載せて、すみやかに現場から離脱したとみるべきであろう。
「斎藤寛之」を名乗る男が、吉原氏らの前に姿を見せなかったのは、「彼の話が真実である」からではない。彼の話がガセネタだったからである。
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