礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

歴史家の使命は過去の真実を告げ知らすこと

2015-05-15 06:14:46 | コラムと名言

◎歴史家の使命は過去の真実を告げ知らすこと

 昨日の続きである。後南朝史編纂会編『後南朝史論集』(新樹社、一九五六)から、その巻頭にある、瀧川政次郎の論文、「後南朝を論ず」を紹介している。
 本日は、その最後として、「むすび」を紹介する。引用にあたって、正字(旧字)は新字に改めた。また、原文は、改行が少ないので、適宜、改行をおこなった。▼印は、引用者がおこなった改行である。

 む す び
 私は、熊澤天皇を後南朝の亡霊と呼んだが、彼自身も後南朝の亡霊を以て自ら任じている。彼曰く「裕仁天皇が無条件降伏されたのが八月十五日だが、この日には南朝の怨霊〈オンリョウ〉がつきまとっている。後醍醐天皇の御命日は延元二年八月十六日だが、前日すべてを覚悟されて御譲位になっている」と。その言うところの何と時代錯誤であることよだ。
▼こんな次第であるから、社会は熊澤をピエロ扱いにし、熊澤一件は、幸徳事件のような波瀾を起さずにすんだ。しかし、その故をもってこの事件を軽く見てはならない。熊澤天皇の一件が、線香花火のようになって消え去ったのは、最初これをバックアップした進駐軍が、中途で彼を見放してしまったからである。
▼昭和二十一年の世田谷区民の米よこせ騒動が起った頃を転機として、アメリカの日本占領政策は大きく転換し、天皇制を支持することとなった。これは日本にとって大変仕合せなことであったのであって、若しアメリカが天皇制を破壊する意図をもってその政策を推し進めていっていたとしたら、この事件はもっと大きい混乱を起していたに相違ない。
▼熊澤ストーリーが、後南朝に関していうことは、多少の誤謬はあっても、真実である。しかもその事実は国民に知らされていない。熊澤氏がもっと人物〔人格者〕であり、これを助ける吉田氏がもっと手腕家であったとしたら、事件はこの程度では済まなかったであろう。真実ほど強いものはない。真実を含んでいるものを、頭から否定するわけにはゆかない。世の中には、曲学阿世の学者も多い。彼等が占領政府の旨を承けて、熊澤ストーリーを裏づけ、占領政府の圧力をかけてこれを宣伝したら、どんなことになっていたかは知れたものではない。占領政策が天皇制支持に転換したことは、皇室のためにも、日本国民のためにも幸いであったといわねばならない。
 そこで我々の戒心しなければならないことは、今後もこれに類似した事件は起り得るということである。それが軽い事件ですめばよいが、有能な男が強力な団体に支持されて立った場合には、それが現皇室に取って替るということはないにしても、騒ぎは大きくなる。天皇制は早晩なくなってゆくものと考えている人々にとっては、こんなことはつまらぬ杞憂であるかも知れないが、私は日本の天皇制がここ五十年や百年で消えてなくなるものとは思わない。天皇制存否の可否は別問題として、歴史の理法から考えて、そんなことに早晩なろうとは考えられない。かの悪逆無道であったブルボン王朝ですら、これを復興しようとするローヤリストが、フランス革命以後百年も残存していたではないか。戦争中に宮家を担いで〈カツイデ〉暴動を起そうとした軍人の野心家が何人かあったことは、世人の記憶に猶〈ナオ〉新たなるところであろう。亡んだ王朝とて安心はできない。現に日本は、一度亡んだ清朝の廃帝宣統帝をかついで、満洲国を建てている。不幸にして日本が将来或る危機に臨んだ際、後南朝の後胤と称する者をかついで、暴動を起したり、暴動を起した者が、自称南朝後胤を迎えたりすることがないとはいえない。
▼終戦後日本人は、一応南北朝正閏論を返上したとはいうものの、国民感情の上に遺された南朝正統論は、まだまだ政治的にこれを利用する価値がある。天皇制打倒を主義として謳っている政党だって、南朝後胤を戴くことが、政権を握る近道だと考えたら、忽ち看板を塗り替えないものでもない。
 こういう禍乱〈カラン〉の種を完全に刈り取ってしまうには、どうしたらよいであろうか。私は、それには後南朝の史実を国民の前にさらけ出すのが、最良の策であると考える。若し今までに後南朝の史実が、国民一般に知らされていたら、鶴裁判長が幸徳秋水から毒づかれたときも、何とか反駁もできたであろう。また熊澤天皇が現われても、国民はあんなに吃驚しなくともよかったであろう。現に後南朝のことを知っている私は、少しもその事を聞いて驚かなかった。
▼大衆は秘密にされているものに対して好奇心をもっている。秘密であるということは、民衆にとって一つの魅力だ。従って史実を秘密にして置くことは、大きな危険を孕む〈ハラム〉。熊澤ストーリーを聴いて半信半疑になった者も勘くない。大たいはいかさまだと思いながらも、それを全面的に否定できないのは、熊澤の語るところにいくらか真実があるからである。
▼明徳の和約を践み〈フミ〉にじって、後南朝を生ぜしめたことは、たしかに我が皇室史の汚点であり、延いては日本歴史の汚点である。といっても私は、北朝ばかりがわるいというのではない。後醍醐天皇は、両統迭立を定めた文保の議定を破っておられる。天皇が鎌倉慕府を討伐されようとしたのは、この議定を楯にとって、後醍醐天皇に譲位を迫る持明院統を、幕府がバックするからである。故に当時の国民が懐いていた倫理観からいうと、天皇こそ秩序の破壊者であって、太平記や梅松論が「天皇御謀反」といっているのは、決して没条理ではない。
▼南北朝及び後南朝の不祥事を生んだ第一の責任者は、後醍醐天皇とその天皇の御行為を正当化した北畠親房とである。しかし、あったことはあったとするより仕方がない。これをひた隠しにかくして置くことは、却って国民の心理にその汚点を大きく映ぜしめる。前にもいった通り、事実を抹殺することは、いかなる権力者といえども為し能う〈ナシアタウ〉ことではない。
▼維新の元勲や明治の藩閥政治家が、後南朝史を隠していたのは、彼等が百姓町人は愚昧〈グマイ〉なものであると考えていた、封建時代の為政者の臭味の抜け切らない政治家であったからであって、依らしむべし、知らしむべからずというような政治理念は、民主主義の今日の社会では、もはや通用しない。世の中はそれほど甘くないと悟っている苦労人や、人間の業〈ゴウ〉の深さを知っている哲人の眼には、南北朝や後南朝の史実も、それほど醜悪なものには映じまい。
▼後南朝の史実を国民の前にさらけ出すことを、そう惧れる〈オソレル〉ことはない。為政者はもっと国民の良識を信ずべきだ。後南朝を語ることは、私にとって決して愉快なことではない。しかし、私はそれを語らずにはいられない。何とならば、私は真実の愛好者であり、且つ過去の真実を告げ知らすべき使命を負える歴史家であるからだ。乞う読者これを諒せよ〔みきわめよ〕。

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