礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

四天王寺伽藍の復興(1963年10月)

2018-07-02 03:05:51 | コラムと名言

◎四天王寺伽藍の復興(1963年10月)

 数年前、月刊誌『四天王寺』の第二七四号(一九六三年一〇月一〇日)を入手した。同誌同号は、「四天王寺復興記念特輯号」と銘打たれている。この年の一〇月に四天王寺の伽藍〈ガラン〉の復興が成り、同月一五日に「伽藍落成入仏開眼大法会」がおこなわれたが、この特輯号は、その大法会〈ダイホウエ〉に先立って、発行された模様である。
 興味深い文章が、たくさん収録されているが、本日は、仏教考古学者の石田茂作〈モサク〉による「四天王寺伽藍復興の意義」という文章を紹介してみたい。

 四天王寺伽藍復興の意義
        奈良国立博物館長/文学博士  石 田 茂 作

 四天王寺の創建が崇峻〈スシュン〉天皇丁未年〔五八七〕発願、推古天皇元年〔五九三〕建立である事は、日本書紀の記載によつて動かぬところである。ところが塔を前にして金堂講堂を南北一直線上に配した今の伽藍形態が創建当時のものであるか否かに就いては、従来少からず疑義があつた。四天王寺の創建を孝徳天皇御代〔六五四~六四五〕に下げようとする説の如きも其の一つの現われである。
 明治以来欧米の学問を取り入れ、物事を論理的実証的に研究せられるようになつた。建築史の研究に於いてもその傾向が強かつた。その結果が、日本最古の仏寺建築は法隆寺であり、従つて法隆寺の如く塔と金堂とを東西に対峙させそれを廻廊でまわした所謂仏面伽藍と称する伽藍形態が最も古く、四天王寺の如く縦列式のものはそれに次ぐものであるとの考へが通説のようになつた。其の故は、四天王寺は書紀の記載はあるけれども遺構は江戸時代のものである故〈ユエ〉科学的研究の対象とするわけには行かぬ。そうなると四天王寺式配置伽藍の信ずべきものは奈良県の山田寺址〈アト〉である。山田寺〈ヤマダデラ〉は蘇我山田石川麿〈ソガ・ノ・ヤマダ・ノ・イシカワマロ〉の発願するところで舒明天皇御代〔六二九~六四一〕から天武天皇御代〔六七三~六八六〕に渉つて建造されたものである。そうすると推古天皇十四年〔六〇六〕創建の法隆寺伽藍は天王寺式伽藍に先行するものであろうとは誰もが考えた事である。法隆寺式伽藍が天王寺式伽藍に先行すると考えさせた理由は今一つある。それは伽藍配置の様式論である。我国上代寺院の伽藍配置を大別して塔金堂を東西に配した法隆寺式、前後に配した天王寺式、塔を金堂前に二基作つた薬師寺式、二基の塔を廻廊外にもつて行つた東大寺式となるが、薬師寺式への移りかわりに於いて、それは、法隆寺式よりの移行と見るより、天王寺式よりの移行と見る方が、自然的であると云う見方である。上述のような理由から、法隆寺式伽藍形態は天王寺式に先行するものであろうと云う説が、明治、大正にかけては絶対優勢であつた。四天王寺の孝徳天皇御代創建説、四天王寺移建説も、この説を敷衍する意味から現われたものと思う。
 ところが此の説を根底から考え直さねばならぬ事態があらわれた。それは朝鮮百済の旧都扶余〈フヨ〉の軍守里廃寺〈グンシュリハイジ〉の発掘である(昭和十二年〔一九三七〕)。はじめ宮殿址かという予想のもとに発掘したが以外にも四天王寺式配置の伽藍であつた。そして其の翌々々年(昭和十五年〔一九四〇〕)法隆寺若草伽藍の発掘によって、そこが又、四天王寺式配置である事が判った。更に昭和二十八年〔一九五三〕の橘寺〈タチバナデラ〉の発掘においてもそれが東面する四天王寺式伽藍配置である事が確められ、又昭和三十年〔一九五五〕の飛鳥寺〈アスカデラ〉の発掘の結果も四天王寺式伽藍と類似形式である事が判り、又今発掘中の中宮寺址においても、金堂址南方の地下八尺四寸のところから塔心柱礎が発見されてそれが四天王寺式配置伽藍であつた事が確実となつた。こうした相次ぐ成果によつて、今や天王寺式伽藍配置こそ法隆寺式配置に先行する我国最古の伽藍形態である事は疑う余地のないものとなつた。
 この事は引いて四天王寺伽藍の創建も書記の記載その侭の推古天皇御代〔五九二~六二八〕の建立として何等疑義ないものとしたのである。かくの如くにして天王寺式伽藍形態こそ我国仏教渡来当初のものであるに拘らず、遺構の存するものは一つも無く、遺址の研究により僅かにそれを推知し得るに過ぎない。法隆寺式伽藍には法降寺が残り、薬師寺式伽藍は不完全ではあるが西ノ京薬師寺において尚見られる。東大寺式伽藍は東大寺・唐招提寺・当麻寺の遺構に於いてこれを見る事が出来るが、最も古い天王寺式伽藍は実物として見る事が出来ず誠に遺憾に思つていた。然るに今度の天王寺の復興によつて、それが満たされた事は、日本文化を愛する人の総べての喜びでなければならぬ。終戦以後厳密な発掘調査により創建当初の基址〈キシ〉を捜り伽藍配置の正確を期すると共にその建築に当つては朝鮮をさぐり支那をさぐり、飛鳥時代創建当初の姿に復原された事は、多少の批評はあるにしても、ここまでよくやって戴いた事を感謝せずにはおれない。金堂屋根を錣葺〈シコロブキ〉にしを鴟尾〈シビ〉のせ講堂間口を偶数間にした如き、創建当初の形態を教えるものとして最も注目すべきである。吾々は今復興の天王寺伽藍を仰ぐ事によつて、太子によつて仏教興隆の第一歩を踏み出されて間もない。国民全体の希望に満ちた雄々しい姿、新文化建設への盛んな意気を想見せずにおけない。
 私は此の天王寺復興の聖業に関係された皆さまに甚深の感謝と敬意を捧げる。

*このブログの人気記事 2018・7・2(10位に久しぶりのものがはいっています)

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