礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国民から切り離された「覆面の大戦争」(大屋久寿雄)

2015-09-20 05:11:33 | コラムと名言

◎国民から切り離された「覆面の大戦争」(大屋久寿雄)

 昨年五月三日ののコラムで、「時事叢書」の一冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)について紹介した。昨日、ふと、この本のことを思い出したので、ザッと読んでみた。敗戦直後に出された本(というよりパンフレット)としては、なかなかシッカリ書かれているという印象だった。
 本日は、その「はしがき」の全文を紹介してみよう。
 大屋久寿雄〈オオヤ・クスオ〉については、詳しいことは不明だが、この本を出した時点で、時事通信社内信部長だったようである(一九〇九~一九五一)。

 は し が き
 今次の戦争に対する批判に、或る程度の歴史的価値を与へるためには、今後なほ相当の時間を必要とするであらうが、今日すでに一応の確信をもつていへることは、この戦争の持つ最大の特徴は、それが終始一貫して国民の大多数からは全く切り離された「覆面の大戦争」であつたといふことであり、国内政治の面に現れたこの戦争の姿は徹頭徹尾「独断と欺瞞」によつて厚く塗りこめられた、不可知な神秘的存在であつたといふことである。
 今次の戦争の開戦に関して、日本国民は果してどれだけのことを今日知つてゐるであらうか。いふところの日米交渉たるものについて、その真相をわれわれ国民は果してどれだけ知つてゐるか。
緒戦に続く極く短い期間、一時的に甚だ優勢らしく見えた戦局が、その後果していつ頃から、そしていかにして漸次逆転し、遂に今日の破局を見るに至つたかについて、われわれは一体どの程度の真相説明をうけてゐるのか。
 この間、国内における戦力諸元の動向について、日本国民は果してどれだけのことを知らされて来たか。また国際関係から見て、戦時中の日本が置かれた地位、自ら居らんとした地位、それがために払つた努力と打つた手等々についてわれわれは果して何を知らされてゐるか。
 更にまた、終戦に至るまでの息詰まるやうな運命的なあの何ケ月間かの出来事について、国民の大多数は果して何を知つてゐるか。
 一切は曖昧である、模糊としてゐる。国民の大多数は恰かも〈アタカモ〉通り魔の巨大な一撃にあつて呆然自失したものの放心状態の中で、今日、「無条件降伏」といふ峻烈な現実をみつめてゐるのである。
 このやうな圧制は今後再び繰り返されてはならない。国民は己れの運命に関しては少なくとも相当自主的な判断を持ち得るだけの事実を知らされてゐなけばならない。一国の運命を決し一民族の興亡を左右するがごとき重大外交は、国民の耳目の前に堂々と公開されつつ行はれなければならない。
 われわれはこの意味において敢へて「過去を問ふ」ものである。勿諭、もはや過去は問ふととも還らない。しかし過去を明かにすることによつて、われわれは将来に備へなければならない。 
 光輝ある二千六百年の皇国歴史を一朝にして泥土に委し〈イシ〉、われわれ七千八百万同胞を今日この悲境に陥れたあらゆる原囚は、冷厳な追求をうけるべきである。殊に今次の戦争に関する経緯は今後機会あるごとに明かにされて、国民的批判の前に置かるべきである。
 終戦後日なほ浅き現在、われわれがこの小冊子を敢へて公にする所以のものも実はここにある。
 これは勿論完全な記録ではない。後日補はるべき点も多々ある。しかし、終戦に至るまでの大筋としては、国民の「今次の戦争批判」に充分一個の資料たり得る内容のものであることを信じてゐる。併せてまた、他日、より権威ある人々によつて編まれるであらう歴史への些か〈イササカ〉たりとも参考となり得べきことを信じつつ、無条件降伏受諾に至るまでの経緯を能ふ限り忠実にし記述したわけである。文中多少の私的批判を混へた個所もあるが、これらに関しては事実の解釈乃至判断において或ひは失当の点もあるかとも思ふ。関係諸氏の御教示を得ることができれば、正誤の労を惜しまないことはもとより、筆者として幸甚の至りである。

「この戦争の持つ最大の特徴は、それが終始一貫して国民の大多数からは全く切り離された『覆面の大戦争』であつた」、「緒戦に続く極く短い期間、一時的に甚だ優勢らしく見えた戦局が、その後果していつ頃から、そしていかにして漸次逆転し、遂に今日の破局を見るに至つたかについて、われわれは一体どの程度の真相説明をうけてゐるのか」などの問題提起は鋭い。
 しかし、昭和初年以降、多くの国民が軍部の対外進出を支持していたこと、マスコミも軍部をあおっていたこと、戦中、マスコミが戦争の実相を伝えてこなかったことについて、全く言及がないのはどうしたことか。
 とはいえ、「国民は己れの運命に関しては少なくとも相当自主的な判断を持ち得るだけの事実を知らされてゐなけばならない」という主張に関しては、その通りだと思った。

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