◎尾高朝雄の社会団体論における全体構成
青木茂雄氏の論考「尾高朝雄『社会団体の理論の基礎づけ』を読む」を掲載している。本日は、その二回目。
尾高朝雄『社会団体の理論の基礎づけ』を読む 2 青木 茂雄
2.社会団体論の全体構成 緒論(Einleitung)を読む その1 ギールケとシュパン
『社会団体理論の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略)は全体が六章(これに「結論」が付される)から構成されている。以下がその内容である。
緒論 (Einleitung)
第一章 社会団体の観念的な存在 (Das ideale Sein des sozialen Verbandes)
第二章 観念的な対象の現実的存在 (Das Wirklichsein des idelen Gegenstandes)
第三章 社会団体の現実的存在 (Das Wirklichsein des sozialen Verbandes)
第四章 社会団体の内的構造 (Die innere Struktur des sozialen Verbandes)
第五章 社会団体の事象に満ちた社会的形象との外的な関連
(Der äußere Zusammenhang des sozialen Verbandes mit den sachhaltigen sozialen
Gebilden)
第六章 社会団体の理論についての学説的回顧
(Methodischer Rückblick auf die Lehre vom sozialen Verband)
結論 (Schluß)
以上の内容に関して本格的に展開することは今後の課題であるが、緒論の検討の中でまず明らかになるのが、「観念的(ideal)」に対する「現実的(wirklich)」の概念である。 それは通常「観念的(ideal)」に対置される「現実的(real)」とは異なった概念であるが、 尾高は本書の中では、 主要にはrealではなくwirklichである。 つまり、 idealとrealの二項対立関係を越えて、 wirklichを鍵概念として展開していることが注目される。
wirklichはrealやidealとは次元を異にする概念、独自の主体概念、 また敢えて言えば時間概念を媒介していると考えられる。このあたりの所は当時の哲学界の議論を踏まえているので今後の追究課題としたい。
さて、緒論(Einleitung)であるが、当時の哲学の一般的な叙述方式に従えば、執筆にあたってのこれまでの到達点の整理であり、問題点の明示である。尾高の『基礎づけ』でもその方式は忠実に踏襲されている。緒論において、執筆以前の到達点と執筆時点での課題が明確に示されている。以下は緒論の部分的な試訳であり、序文と同様大意訳である。
重要な、 論述の鍵となる単語については原語を( )の中に示した。筆者による補足は[ ]で示した。文中の「 」は、原則として本文では原著からの引用を含むものであり“ ”で示されているものである。原注は繁雑になるので割愛し、筆者の注の中で言及した。(1)(2)……とそれに付された簡単なタイトルは筆者が便宜的に付けたものである。
(1) ギールケ 本文訳
緒論(Einleitung)
第1節 社会団体理論の基礎についての論理的必然性(thoretische Notwendigkeit)
社会科学のすべての領域において、社会団体の本質(Wesen)及び現実性(Wirklichkeit)についての問題はほとんど解決されておらず、問題は残されている。 伝統的な見解の原理的な理解しがたさは明らかにされているにもかかわらず、 その理解しがたさは社会団体の「リアルな(reale)」 現実性を素朴に前提としてきたことによるものである。[つまり]社会団体の構造を自然科学的に解明するか或いは独断的な仮説として扱おうとしてきたのであるが、現在に至るまで、認識のひとつの自立的な対象としての社会団体の真実の現存に対する確固とした実証的な論証となるように要求されてはいなかった。それどころか、しかも次のように主張されている。[社会団体論の]統一的な(einheitlicher)そして自己同一的(identischer)な対象(Gegenstand)は「経験的に(empirish)」 認識可能な社会的な諸現象の領域の中に見いだされるのではない。 そして社会団体は、 従って、 人が社会科学を「経験的な」科学としてのみ可能であると考えているところでは、 そのようなものとしては社会科学の対象を形成することはできないのではあるまいか、 と。
現在の社会学は大抵、 社会団体を社会科学の対象として、 社会団体またはその主体的な意味(Sinn)によって規定されている精神的な「表象(Vorstellug)」、 或いは人間の実際の行為、 として理解している。 このことは、 正確に把握されるならば、 社会団体自身の真実のそして自己同一的な現存在、 以外のなにものでもない、ということを意味している。 理論的な社会科学の知見のこの傾向は、 社会的政治または独断的な法解釈学のように、 いやそれどころか実践的な社会生活それ自身、 19世紀の個人主義的な見解から集合主義的な(kollektivistischen)方向への転回点へと達している現在の公然たる傾向に見られるような、 実践的に方向づけられている社会的な諸部門として見いだされる。
現代の社会科学の発展史の中で、 それにもかわらず、 社会団体の理論を精神科学的な基礎の上に、 自主的・自立的な科学として構築するという、 様々な試みが見いだされた。 とりわけても、 今世紀の初めの頃に、 社会団体の理論の構築の要請が最も強く主張されたということを、 人は忘れないほうが良い。 オットー・フォン・ギールケが彼の学長就任式の機会に行われた1902年の演説において(1)、 間違いようもなく明らかに、人間的な団体の精神的な現実性を指し示した時には、 精神科学的の団体理論の構築のための試みの礎石がすでに敷かれていたのである。 彼がまた、 彼の理論を「有機的(organische)」と名付け、 それにより社会団体の存在構造を生物学的な有機体との類比によって解明しようとしたのであるが、その時このような関係とこのような類比は、 次のことを具象化する以外のいかなる目的をも持っていなかった。 即ち、人間的な共同社会が「部分を構成している全体の生命統一体(Lebenseinheit eines aus Teilen bestehenden Ganzen)」にほかならないことを。 ギールケはむしろこの類比によって人間的な団体に本源的なものを精神科学的な領域において議論するために、 人間的な団体の自然科学的の領域の外的な限界を知ろうとしたのである。 この間人間的に形象化された全体性(zwischenmenschlich gebildeten Ganzheit) の現存在は、 ギールケによれば感性的には知覚できないものである。 社会団体の認識においては、 我々はそれゆえに、 原理的に「目に見えない」世界において動くものだからである。このことは、 決して社会団体が現実性(Wirklichkeit)を持っていないということを意味するものではない。 なぜならば、 現実的なものは、 感性的な知覚と一致しないことはないからである。 完全に正しい方向づけの上に、 ギールケは社会団体の現実性を精神科学的な認識の超感覚的な領域(übersinnlichen Sphäre)の上に確立しようと試みるのである。 (『Grudlegung』 s.1)
(2)筆者によるコメント①
尾高がまず問題としたのは学としての「社会団体論」における認識の対象についてである。経験的にも認識可能な社会的な諸現象の領域は、従来の実証科学におけるような、「リアルな(reale)」現実ではない。静止した「現実」ではなく、活動的な働いている現実、つまりwirklichな現実の領域である。しかし、尾高は更にもう一つ条件を付け加える。それが統一的なそして自己同一的というものである。単にwirklichなだけではなく、einheitlichそしてidentischでなければならないのである。これは「社会団体論」のハードルを高めている、と言える。そして、このハードルの高さが尾高の『Grndlegung』における悪戦苦闘のそもそもの原因である。この、最高にeinheitlichでidentischであるものこそ最高にwirklichであるという彼の思念の源は、京都で西田と米田から受けた薫陶であることは間違いない。そういう問題意識から尾高は二十世紀初頭の主としてドイツとオーストリアの「社会学(Gesellschaftslehre)」をひもといて行くのである。まずギールケであった。ギールケは、日本でもドイツ団体法の大成者として名前は良く知られている(しかし、その重要性にもかかわらず、現在の日本では最も研究されていない法学者の一人である)。
(3)シュパン 本文訳
精神的な全体性としての社会団体についての解釈は、 今日の社会学、 とりわけてもオトマール・シュパンに立ち至る(2)。 この「普遍的な(universalistischen)」理論によれば、 社会団体はその本質から言って、 「精神的な行動する全体性」である。 そのことは、 三つのことを意味する。 第一に、 全体性としての社会団体を、 流出する根源的な現実性(Ganzheit ursprungliche Wirklichkeit)として示すのである。 一方、 社会団体を構成している個々の構成員は、 全体の部分として、 この全体の分肢(Glied)として現実的に存在することが出来るのである。 団体はそれゆえに根元的なものである。 個々人の存在はそこから導きだされるものである。 第二に、 社会団体は自然的な全体性から自分自身を区別する。 それはつまり、 精神的なものというその導かれた特性を通した生物学的な有機体から社会団体は自分自身を区別するのである。 なぜならば、 人間的な精神というものは本質的な現存形式への共同性を持っているからである。 精神はそれゆえに精神的な共同性の成員(Glied)としてのみ現実的なのである。 人間的な団体の本質と流出点はこの精神的な共同性の中に存在しているのである。 第三に、 社会団体は行動する全体性である。 なぜなら、 その生 (Leben) は人間的な行動から成り立っているからであり、 その行動は、経済的行動のように 精神的な目的の手段としてか、 或いはそれ自身の目的としてか設定される。 それぞれの現実化が精神的な価値自体であるように。 この精神的全体性に関して、 シュパンによれば、 その全体性は単なる感性的に知覚できる世界において解明されるものではない、 という特性を持っている。 社会団体の普遍主義的な考察方法は、 経験的な、 自然科学的な帰納法による方法には、 そもそも関係がないのである。 それ(普遍主義的な方法)はそれに対して、 それからその分岐をたどって降りるために、 真実に現存する、 精神的な全体に由来しなければならないのである。 社会団体についてのシュパンの理論はそれゆえに、 その本質に従えば「分析的、 帰納的であり概念科学」である。 同様に、 次のことがそれゆえに深い意味において強調される。 社会団体の現存在は因果的に規定され、 そして感性的に把握可能なものではなく、 なによりもまず超感覚的で、 純粋に精神的な領域において確立することができる。 (『Grundlegung』 s.2-3)
(4)筆者によるコメント②
シュパンは日本では戦前でこそ読まれたが(3)現在は全く顧みられない(古書店の店頭からもすっかり姿を消した)。全体主義の理論的バックボーンとして、戦前日本ではカール・シュミットと同様、或いはシュミット以上に読まれたが、シュパン自身はやがてナチズムによっても排除された。同じ全体主義とは言っても(シュパンの場合はuniversalismus)指導者原理にもとづくナチズムのそれとは違って飽くまでもカトリック的な普遍主義である。個々の構成員は全体の分岐であり、団体有機体説とも言えよう。ヘーゲルの国家有機体説の系統にたつものであるが、ヘーゲルの国家有機体説はナチズムとはそもそも異なるものとされたのである。
また、シュパンは尾高の指摘のように、個に対する全体の優位を「流出説」で根拠づけている。尾高は「流出説」こそとっていないが、後に見るように、「原初」、 「第一」、 「固有」として換骨奪胎している。「流出説」は新プラトン主義等の影響と見られるが、日本思想史の中では、丸山真男らにも大きな影響を与えている。
(5)ギールケとシュパンの到達点と課題 本文訳
しかし、 社会団体の理論のこれまでの理論構築の試みには、 次の点で共通の欠点がある。即ち、 その正しく方向づけられた推論が、 一般的に認識されている哲学的な基礎と論証に基づいていないということである。 ギールケは、 それどころか社会的な生の統一性の現存在の直接的な証明可能性を最初から自分から断念している。 彼は単に次のことで満足なのだ、 人はその真実の存在は、 それゆえに否定しなくてもよい、 なぜならば個別の生の統一(die individuelle Lebenseinheit) は同様に僅かしか直接的にはわからないからである。それゆえに、ギールケにとって社会団体の現実性はただ単に「間接的(mittelbar)」でしかあり得ない。そしてたしかに一方では外的な経験を通して、 他方では内的な経験(innere Erlebnis) を通して把握されることができる。 なぜならば、 我々にとって進行する社会的出来事の考察は、とりわけ「人間の歴史における深化」 は我々に次のことを示す。 人間の活動と働きは、 個人だけではなく、 同時に共同社会 (Gemeinschaft) に由来している、 即ち共同社会はいずれにせよ 「活動している何か」である。
しかし、このような外的な経験[つまり共同社会における歴史的経験]によって[間接的に社会団体の現実性]が教えられたとしても、 その確証を我々の内的な経験の中に見いだす以外にないのである。なぜならば、 我々のおのおのは、 それ自体として個別の生の一体性を見いだすだけではなく、我々は同時により高い生の統一を部分一体性(Teileinheit)として属していること、 そのことを我々にとって確信とともに経験できることだからである。 ただひとえに、 社会団体の現実的な現存在の彼の主張の確証のために、 この双方の「間接的な」根拠をギールケは提出するのである。 社会的な生活において実践的に行動する人間は、 その生活からかれらの確信をつくる。 科学的な根拠づけについて彼らがそれ自身の価値を要求することができないときに。
ギールケにおいて、 深い基礎的考察なしに、 社会団体の理論を構築しようという試みがなされる一方で、 シュパンは彼の普遍主義的な社会理論に、 哲学的な熟慮による入念に構築されたシステム、 「全体性というカテゴリー理論(Logik der Kategorienlehre der Ganzheit)」を基礎においた。 しかしながら、 次のことは疑いの余地のあることである。その理論を詳しく解明しようと没頭している時に、 シュパンはむしろ、 社会的全体性という彼の理論が疑う余地のない公準を前提としていることで満足してしまっていることである。 全体(das Ganze)は決してその構成要素によって決定されるのではなく、 全体は、 反対に、 原初のもの(Primär)、 第一のもの(Erste)、 固有のもの(Ureigne)を表現するのだということ、 つまり、 全体はその構成要素から分離しているものだという、 そういう純粋な事実性を疑うべきではない。
全体がその部分に対して論理的に優位にたつことは自明のことである。 けれども何が我々の議論の中核をなさねばならないかのかは、 この純粋な事実性それ自身ではなく、 むしろ具体的な問題が、 いかに広く、 社会団体のどのような意味において、 その全体性が現実的にそこにあるのか、ということである。 社会団体、 それが社会科学として取り扱われるためには、 単に論理的ではなく、 歴史的・社会的な世界の現実的な現存在の何かが重要である。 そしてしかも、 社会団体の現存在は明らかに、 物や身体の様式と同等のものではない。どのような存在の様式社会団体を示すことができるであろうか。 社会団体の現実的な存在を超個人的な全体を一般的にそしてまたより厳密な科学性でもって証明することができるであろうか。 人はこの問題を、 次の見解を繰り返すことによって解決してきた。 社会団体は全体としてのみ理解される、 彼は「全体」として根元的で本来的な「現実性(Realität)」を社会団体を構成する個々人よりも示すのである。
すでに多くの深遠な思想家によって熟慮により言明されてきた社会団体の現実的な現存在についての主張の最終的な理論的基礎について正確に論じることが、 社会団体の理論が自立的な現実科学としてしっかりと根拠づけることができるようになるためには、 それゆえに無条件に必要である。 社会団体の理論の哲学的基礎づけは、 それゆえに、 現在の社会科学的思想にとって、 疑いもなくもっとも重要な、 差し迫った課題である。 (『Grundlegung』 s.3-4)
(6)筆者によるコメント③
ギールケはたしかに共同社会に注目している。しかし彼の捉えているのは、外的な経験つまり共同社会における歴史的経験という間接的な経験である。ギールケによっても社会団体の直接的現実性まで把握できず、内的な経験の把握は課題として残されている、尾高は言う。
ギールケに比べれば、シュパンの場合は共同社会(Gemeinschaft)をとらえるには、それが由来している「何か」を把握することが必要である。共同社会はいずれにせよ「活動している何か」であるから、 と。
しかし、このようなことが教えられたとしても、 その確証を我々の内的な経験の中に見いだす以外にない。全体(das Ganze)は決してその構成要素によって決定されるのではなく、 全体は、 反対に、 原初のもの(Primär)、 第一のもの(Erste)、 固有のもの(Ureigne)を表現するのだということ、 つまり、 全体はその構成要素から分離しているものだという、 そういう純粋な事実性を疑うべきではない、とシュパンは言うのである。
シュパンの言う、 原初のもの(Primär)、 第一のもの(Erste)、 固有のもの(Ureigne)は当時の日本国内で流布されていた「國體」という言葉でも表されるのではなかろうか。 しかし、 尾高はそのようには言っていない。 やはり、 脱するルートを考えていたのである。
注
(1)ギールケからの引用は次の書による。 GIERKE: Das Wesen der menschlichen Verbände. Rede, bei Antritt des Rektorats am 15.October1902, S.12ff(『人間的団体の本質について─1902年10月15日の入学式での挨拶 』12頁以下)。
(2)シュパンからの引用はすべて SPANN:Gesellschaftslehre,Ⅱ. 1923,s.509(『社会学』第2部 509頁等)
(3)たとえば、シュパン『全体主義の原理』(原著Kämpfende Wissenschaft「戦闘的科学」1934)秋沢修二訳、1938年、白揚社。 プロパガンダ文書だが、 第2部の「哲学」の部分だけは読みごたえある。 他にも幾冊か翻訳紹介されているがおおむねプロパガンダである。
*このブログの人気記事 2025・7・30(9位は読んでいただきたかった記事、8位に極めて珍しいものが)
- 青木茂雄氏の尾高朝雄論を掲載する
- ポツダム宣言は、ただ黙殺するのみ(鈴木首相)
- 戦争犯罪人への処断、民主主義傾向の復活強化
- 爆弾を抱いて戦車の下敷になる猛訓練
- 木材屑などの粉食、モミガラ食などの奨励
- 閣下には最終内閣の名に背かず熟慮断行
- 義勇隊問題はこじれにこじれた
- 臣子としてこれ程の感激を覚えたことはない(東久...
- ひとのことに手だし口だしが多すぎる(石川武美)
- 調布の一住民が回想した関東大震災