イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

ソシュールは今日まで

2008年06月02日 20時46分48秒 | Weblog
さて、ソシュールは何を言わんとしているのかというのです。言葉はものの名前ではない。
それはつまり誰にでも通じるような普遍的なある「もの」があり、それに名前をつけていった(名称目録的言語観)ということではないということなのです。
むしろ名前をつけることによってそこに後付ででさまざまな概念が生じてくるものなのだといっているのです。
なるほどね。でもそれがどうして構造主義と結びつくの。
そうですよね。
それだけでは、人にはそれぞれその人の背景というものがあり、
たとえば、私が思う正義は誰にでも通じる普遍的なものの様でいて、実はそうではなく、本当は私が持つ背景によって強く規定されているのだ、ということの説明には結びつきませんよね。
いや、
説明はつくのです。
言葉とはその使われている国によって、同じものを指しているものであっても微妙にその意味合いが変わってくるのです。
たとえば豚と羊、
日本人にとっては豚であれ羊であれ価値的に見てそれほどの違いはありませんよね。
むしろ好んで食べるのは豚のほうなので、豚のほうが価値があるのかもしれない。
しかし、これがイスラエルに行けばその価値は決定的に違うのです。
羊は神が与えしまことにすばらしい動物なのです。それに引き換え豚は禁忌、食べることはもちろん、同じ調理器具を使って調理することも許されません。
イスラエルでは豚と羊がなぜそのように厳格に分けられているのかについてはここでは触れませんが、言葉とは生成された国ごとにその概念を異にするものなのす。
そしてそのような言葉を使っているということ自体、すでに私たちは日常使っている言葉に規定されているということにはならないでしょうか。
だからね、マルクスのように階級によるなどといわなくても、フロイトに様にむしろ無意識に支配されているなんて言わなくても、普通にあなたが生まれた国の母国語を使っているというただそれだけで、ある価値体系にすでに規定されているのですよ。
さらにいうならば
言葉とは心そのものなのです。
心にある思いを言葉に表現するのではなく、言葉によって表現されることにより、私たちは何を考えていたのかを事後的に知るのです。もちろんそれは心の中で独白する場合でも同じことです。
極論すれば「心」とは言語を運用した結果、事後的に得られたものであるともいえます。
このように日本なら日本という背景の中で生成されてきた言葉に私たちは規定され、私自身を培ってきたのです。
それはつまり、私の思いなどと表現されるおよそほとんどのものが、本当は誰から聞き、どこかで読んだものにほぼ間違いないでしょう。ということなのですよ。
ごくごく簡単ではありましたが以上でソシュールの説明を終わりたいと思います。
どうです。
はじめに言葉ありきでしょう。
ね。




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