イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

今年はこれにて

2009年12月29日 11時11分32秒 | Weblog
これが今年最後のブログアップになります。

このところ、文章を書く気になれないのです。

文章で表現することの難しさや困難さが僕を文章に向かわせないのです。

自分で書いていて、なんてキザったらしい文章なのかと思いました。

ふん、僕を文章に向かわせないかぁ、

聞いただけで鳥肌が立ちそうです。

よくそんなことが書けたものです。

ひとつの表現が浮かび、そのたびにこんなことの繰り返しなのです。

こうじゃない、そんなんじゃない、どう表現すれば

この頭の中のものをきれいに言い表すことができるのだろう、といつも思うのです。


言葉は他者の為にある。

僕たちはあらゆる存在の中で唯一自発的に「何かのためにありたい」と願う存在。

あらゆるものは何かのためになっている。

でもそれはほとんどの場合「結果として」というに過ぎない。

結果的に何かのためになっているのであって、自発的に何かのためになっているのではない。

ただ唯一人間だけが自発的に何かのためにありたい願い、そのような行動をする。

なぜ人間は何かのためにありたいと願うのか、

それは言葉を得たから。

言葉を習得していく過程にある人間を観察すればそれは明らかなことである。

言葉を習得していない赤ちゃんのころはすべてが自己中心的、

それが言葉を習得する過程で少しずつ他者中心になっていくのである。

人間の行動は生存的本能を除いて、ほとんどの場合何かのためにありたいと

願うところがその発端になっている。

過激なテロを繰り返すイスラム教も、愛をとくキリスト教も、仏教も、その他

ありとあらゆるもののその発端は何かのためにありたいという人間特有の、人間

しか持ち得ない願いからである。

その発端は「ためにありたい」という願いからなのに、

結果的には衝突しあうものとなってしまっている。


僕はもっと多角的に「人間とは何か」を知りたい。

来年も哲学、宗教、サイエンス、歴史などにこだわらず、

もっとさまざまな本を読めたらなぁ、と思っています。