俺はワルポンだっ!

ちょいワルおやじを卒業したワルポンの斜め下から見た現代社会

『渋沢栄一生家』

2018-02-06 14:48:21 | 観光地
先日、「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれる渋沢栄一の生家がある深谷市血洗島へ下道を4時間もかかって走り、行ってきました。

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7歳の頃からいとこの尾高淳忠(じゅんちゅう)に師事し論語をはじめ学問を学んだそうです。20代で惇忠らと倒幕計画したものの中止、京都に逃れ一橋(徳川)慶喜の家臣となり領内の経営面で力を発揮、慶喜の勧めで2年間の渡欧、ヨーロッパの思想、文化、社会に大いなる影響を受けたのです。淳忠の生家であり私塾です。


1868年(明治元年)11月幕府が倒れたため帰国。大隈重信に説得され明治維新政府に仕官しました。

明治初期の日本の最大の輸出品であった生糸の生産をするために官営の富岡製糸工場を建てることになり、栄一が建設の推進者となって、工場長に尾高淳忠、建設資材調達担当に韮塚直次郎(幼馴染で瓦職人、レンガ造りを担当)を決めて、計画通りの2年間で完成させました。

建設から145年経った富岡製糸工場は、今や世界遺産に登録され、当時のままの姿を見ることが出来ます。

富岡製糸工場が操業した翌年に大蔵省を退官し、「第一国立銀行」をはじめ500余の企業を設立しました。ちなみに第一国立銀行は現在の「みずほ銀行」に引き継がれていますが、日本の銀行には「金融機関コード」という4桁のナンバーが付与されていますが、0001は「みずほ銀行」となっています。

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渋沢一族の祖先は武田信玄に仕えた武将でしたが、徳川に武田が滅ぼされたため、ここ深谷の血洗島に落ち延び隠れ住んだという。

余談ですが、血洗島とは滅相もない地名ですけれど、一説には平安時代に源義家(八幡太郎)が奥州遠征の途中で合戦となり家臣の一人が切落された片手を洗ったので血洗島の地名が付いたそうです。

武田の残党であったことからか尊王攘夷の思想に感化され、倒幕に加担し高崎城乗っ取り計画等を尾高淳忠らと企てましたが、計らずも徳川慶喜に仕えるようになってからは佐幕派となっていったようです。

渋沢邸のあった集落はすべてが渋沢性のため、集落の真ん中に建っていたので「中の家」(なかんち)が屋号になったそうです。
「中の家」は代々農業を営んで来ましたが、名字帯刀を許され、養蚕や藍玉づくりとその販売、雑貨屋、質屋業も兼ねて大変裕福だったそうです。




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埼玉県の北のはずれの町は「上州空っ風」と呼ばれる赤城颪(おろし)が吹いて特別に寒い日でした。

でも、地元ボランティアの方たちから熱心に説明して頂き、明治の国づくりに貢献した熱い思いの偉人たちの物語に触れた一日でした。


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