俺はワルポンだっ!

ちょいワルおやじを卒業したワルポンの斜め下から見た現代社会

『木曽路・寝覚の床』

2009-12-01 19:47:37 | Weblog


江戸時代、天下四大関所のあった木曽福島から木曽川を下り、木曽ヒノキの集散地である上松宿を過ぎると、木曽一の景勝地「寝覚の床」です。

「寝覚の床」と「浦島太郎」が関係あるのをご存知でしたか?

“知らざあ言って聞かせやしょう!”

       ☆       ☆       ☆       ☆

その前に、「浦島太郎」の昔話をご存知無い方のために、文部省唱歌を歌いましょう。

  ♪むかしむかし、浦島は~、助けた亀に連れられて~
      龍宮城へ来て見れば~、絵にもかけない美しさ~♪
  ♪乙姫様のご馳走に~、鯛や比目魚(ひらめ)の舞踊(まいおどり)~
      ただ珍しくおもしろく~、月日の経つのも夢の中(うち)~♪
  ♪遊びにあきて気が付いて~、お暇乞(おいとまごい)もそこそこに~
      帰る途中の楽しみは~、土産に貰った玉手箱~♪
  ♪帰って見れば、こは如何に~、元居た家も村も無く~
      路(みち)に行き会う人々は~、顔も知らない者ばかり~♪
  ♪心細さに、蓋取れば~、開けて悔(くや)しき玉手箱~
      中からぱっと白煙~、たちまち太郎はお爺さん~♪

       ☆       ☆       ☆       ☆

「浦島太郎」と「寝覚の床」の関係、「浦島太郎」の“後日談”です。

《 昔、丹後の国竹野郡浦島というところに、水江という領主が住んでいました。この息子に太郎という少年がいました。ある日小舟で沖に出た太郎は、大きな白亀を釣り上げました。お供の者が亀をなぐり殺そうとしたので、太郎はそれを止めて、亀を海へ放してあげました。

太郎が家へ帰ろうとすると、一人の美しい少女がどこからともなく近づいてきて、「私は先ほどの亀です。助けていただいてありがとう」と礼を述べ、太郎を常世の国龍宮城へ案内しました。

たいそうなもてなしを受け、月日の経つのも忘れて遊んでいた太郎は、ある日故郷を思い出し、龍王にいとまごいを申し出ました。龍王は弁財天の尊像と、万宝神書を一巻、そして決して開けてはいけないという玉手箱を渡してくれました。

太郎が故郷へ帰ってみると、見知らぬ人ばかりで、「浦島太郎といえば、三百年ほど昔、沖に出てそれきり帰らぬ人」と近所の人に語られていたのでした。親兄弟はもちろん誰一人知るものが無く、淋しさに耐えかねた太郎は、諸国の旅に出ました。そして、たまたまこの美しい里に足を止め、その景色が気に入り、住みついたのでした。

ある日太郎は、龍宮での生活が忘れられず、「今、一度」と貰ってきた玉手箱を開けてみると、立ちのぼる白煙とともに白髪の翁となりました。「ああ、今までの事は夢だったのか」と目覚めたことからこの地を、「寝覚め」といい、床をしいたような岩を見て、人々は「寝覚の床」と呼ぶようになりました。

その後翁は、天慶年間にどこへともなく立ち去ってしまいました。立ち去った後の床岩の上には弁財天の像一体が残され、これを祠に祀って建立したのが現在の臨川寺といわれています 》
(「レストハウス木曽路」内の説明板・「浦島太郎伝説」から転記させて頂きました)

(注)天慶年間とは、西暦938~947年です

       ☆       ☆       ☆       ☆

レストハウス内のお土産物売り場で、おじいさんたちが漬物を試食していました。
「旨いから食べろっ!」と箸でつまんでワルポンの手に勝手にのせてくれた。
かなり、訛っていたので、「栃木けっ?」と、昔一年ほど住んだことのある栃木弁で訊いたら、「会津だ」と云う。

「この間、会津の大内宿へ行って来たよ」と云うと、「んだ、おらほの方がもっといい」と、宿場の自慢をした。
「塔のへつり」の方がよっぽどいい」と、今度は「寝覚の床」と比較した。
「紅葉だって、会津の方がキレイだ」

「観音沼へ行ったことあっかい?」と聞いてきたが、知らないので何処にあるか聞いたら、「知らねえのか?下郷にあるべよ、観音沼の紅葉は日本一だゾゥ!」
「漬物だって会津には敵わない」、「南山通り(会津西街道)の方がいい」「鶴ヶ城もある、磐梯山だって、猪苗代だって・・・、・・・」と、お国自慢が尽きない。

「ここは木曽路だよっ!」と、言おうと思ったが言わなかった。
だって、あのおじいさんの一団は、会津観光案内の回し者だったに違いない・・・



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