不良おやじの小言

思いのまま、自分で考え 人の生きる人生を認めた上で 

自由に、のびのびと、たった一度の人生

不正融資事件(2)

2008年08月09日 | 国内不正・汚職事件
不正融資事件(2)
この中の事件は表面にでたものばかりです。
この日本の仕組みではまだいっぱい同様のことがあると思います
(例えば元K総理と広域暴力団稲川会)。
これからも過去の亡霊のような事件が多発すると思います。私もお金は欲しいのですが、
金のことは不浄だと教わってきたのです、でもやっぱりお金?
この事件たちをみていると、金融破綻の時の税金投入は、国民や中小企業のためでなく
、税金を食い物にした人たちへの、また税金の穴埋めだったようですね。

1)コスモ信金事件-1990年(楽天ブログより)
経営破たんしたコスモ信組(本店・東京)が高値で買い集めたエスエス製薬株への投資で
約六十五億円の含み損をかかえていることが、
十日、同信組がまとめた昨年九月期の仮中間決算から分かった。
バブル全盛期の天井相場で買い込んだ株が半値前後まで値下がりした結果だ。
この株買い集めは、泰道三八前理事長がエスエス製薬への影響力を確保するために指示したとされ、
同製薬の会長になるなど、「経営私物化」で破たんを招いた一端が、また浮かび上がった。
コスモ信組が保有するエスエス製薬株は一千百十七万三千株。仮中間決算によると、
この購入原価(簿価)は百三十二億千六十三万円なのに対し、
昨年九月末現在の時価は六十六億四千七百九十四万円しかない。
この差額の六十五億六千二百六十九万円が含み損となっている。
コスモ信組によるエスエス製薬株の買い集めは一九八一年から始まり、九四年まで続いた。
バブル最盛期には年間二百万―三百万株を一株千百―千七百円の高値で購入した。
しかし、株式相場の暴落に伴い、昨年以降は五百二十―八百円で推移している。
また、時価を数百円上回る単価で購入したケースもあり、
正常な取引なのかどうか、コスモ信組内部でも疑問が出ていた。

同信組の複数の元役職員の証言では、株買い集めは、泰道前理事長の指令で進められた。
前理事長は、大株主の地位を背景に、九〇年にはエスエス製薬の代表取締役会長に就任。
元役員らは、泰道前理事長が買い集めを指示した理由として
(1)コスモ信組への帰属意識が薄いエスエス製薬への支配力を強める
(2)泰道前理事長個人がエスエス製薬の経営トップに入ることを希望していた
などを指摘している。 エスエス製薬は二七年に設立され、
戦後になって泰道前理事長の父親が経営権を握った。
現在の社長は泰道前理事長の義兄の直方氏だが、
両者は疎遠といわれている。コスモ信組に十億円を出資しているものの、
無借金経営のためコスモからの借り入れはなく、泰道一族が経営するグループの中でも、
コスモ信組からの独立色が強い。
このため、泰道前理事長は大株主の立場でエスエス製薬への支配力を強めようとした、とみられている。
破たん後、泰道前理事長はエスエス製薬会長を辞任したが、
同信組職員の間には「個人的覇権への思惑から信組を私物化した結果であり、経営責任を取るべきだ」
との批判が高まっていた。
小泉元総理とは親戚筋にあたる。

2)金丸信脱税事件-1995年
(月刊基礎知識より抜粋) 
平成5年3月6日、東京地検は、自民党元副総裁の金丸信と秘書の生原正久を、
所得税法違反(脱税)の容疑で逮捕した。
金丸は、前年の「佐川急便事件」で、巨額の金を受け取っていながら
申告していなかったことで略式起訴されていた。
しかし世論は、略式起訴で片付けてしまった検察に強い不満をもっていた。
そのような状況の中、金丸が、
日本債券信用銀行の割引金融債「ワリシン」を大量に購入しているとの情報を得た。
そこで、東京地検が、金丸の事務所・自宅を家宅捜索した。この結果、
金丸の金庫から何とワリシンなど70億円の有価証券類がでてきた。
このワリシンは3000万円以下であれば無記名で購入が可能で、脱税する側は都合が良かった。
更に、金丸は名義を分散して複数の銀行口座を使うなど悪質であった。政界のドン金丸は、
ゼネコンからの資金がベースになっていた。正規の政治献金以外に、
巨額の盆暮れの付け届けや闇献金でワリシンを購入して、所得申告をせず金庫に貯め込んでいた。
捜査は、このゼネコンも対象となった
。東京地検・特捜部は、金丸の献金元であるゼネコン20社の家宅捜索を実施。
そこで押収した各社の帳簿から賄賂授受の実体が明らかにされる。
6月末、宮城県・仙台市の石井亨市長が、市の公共工事の発注に伴う賄賂1億円を
ハザマ、西松建設、三井建設、清水建設の4社から受け取っていた。
更に茨城県、埼玉県などの市長、知事なとが逮捕される。
ゼネコンも上記4社以外に大成建設や鹿島などの会長・社長等も逮捕され、
24人が贈賄容疑で逮捕、起訴された。金丸の追徴税額は、
43億円を超えると見られていたが、
平成8年3月26日、山梨県の自宅で脳梗塞によって死去した為、公訴棄却となった。


3)阪和銀行・副頭取射殺事件-1995年(事件史探求より抜粋引用)
平成5年8月5日午前7時50分頃、和歌山県を本拠地とする
地方銀行の阪和銀行副頭取・小山友三郎さんが自宅に迎えにきたハイヤーに乗り込んだところ、
突然白ヘルメットでサングラスの中年男が近づき、
不思議なことに「部長!」と叫んでピストルを3発発射。小山副頭取は30分後に死亡した。

名門地方銀行の副頭取が白昼堂々と射殺されたことに大きな衝撃が走った。
特に、バブル崩壊後の債権回収や融資打ち切りなどトラブルが続出している銀行業界では
恐怖のどん底に陥った。が、結局この事件は警察の懸命な捜査にもかかわらず迷宮入りとなった。
同行では以前から闇社会とのトラブルがあり様々な憶測が続いた。

特に事件から4年後の平成9年11月、和歌山県警が特別背任容疑で同行の橋本元頭取等が逮捕され、
複数の暴力団・右翼団体に食い物にされ「ヤクザの貯金箱」とまで
呼ばれるようになっていた実態が明らかになった。
同行は前年の平成8年11月に業務停止命令をうけ事実上倒産した。
この時に当局が入手した資料に「特殊案件貸し出しリスト」があり、廃業直前まで暴力団関係、
右翼団体関係などに総額14億5000万円の不正融資をしていたことが発覚した。
同行が廃業まで転落するきっかけは平成3年9月に月刊誌「SEIKAI」で
同行経営陣への批判記事からだった。同行は当初無視していたが、
福田秀男頭取(当時、以下同)の長男である
福田文七郎常務の私生活を暴露されるなど多大な影響を及ぼした。
そこで、発行元の政界出版社を相手取り損害賠償を求める民事訴訟をおこした。
これに対し同誌はインサイダー取引疑惑など同行への攻撃を益々強めていった。
この頃、同行では橋本副頭取と福田常務、小山専務の3人の経営陣抗争が激化していた。
そのため橋本副頭取は小山専務が自分の失脚を目的に出版社へ記事内容をリークしていると憶測し
、知人の紹介で和興開発の前田喬社長へ出版社との仲介役を依頼した。だが、
この時の話し合いで同行は仲介を断った(恐らく、同行にとって不利な条件が多々あったと思われる)。

だが、前田喬社長は「SEIKAI」の記事中止をさせれば
阪和銀行からの融資を得ることができると考え、今度は小山専務へアプローチを始めた。
そこで自分の長男・前田雅生が社長を務める不動産会社で三共土地開発に融資依頼する
ことを思いついた。ここに和興開発と暴力団組長らが共同で三共土地開発に阪和銀行から融資させる
構図が出来上がった(この会社は設立当時、広域暴力団組長や右翼団体幹部が役員を勤めていた)。
平成4年5月、阪和銀行の小山専務、暴力団組長、前田喬社長、政界出版社の社長が一同に集まり
「福田常務による政界出版社への損害賠償請求訴訟の取り下げ」を条件に
同誌の連載記事中止が決定した。ところが、福田常務は訴訟取り消しを拒否した。
この頃、株主総会で福田秀男頭取の引退、福田文七郎常務の解任が決定し小山専務が副頭取に、
橋本副頭取が頭取に昇格した。
が、その裏では福田元常務の政界出版社への訴訟取り下げの約束が実行できず、
小山副頭取は苦しい立場に追い込まれていた。

この結果、約束違反だとして暴力団組長や前田喬社長らは同行からの融資話をエスカレート。
小山副頭取は行内の反対を押し切って、不正融資を重ねていった。
平成9年11月、特別背任に連座したとして、
橋本元頭取ら旧経営陣と融資先である三共土地開発の
前田雅生社長、実父・和興開発の前田喬社長、暴力団組長等を逮捕した。
しかし、結局は橋本元頭取だけが起訴され
平成11年3月、一審で懲役2年、執行猶予3年を言い渡された。

4)山一証券粉飾決算「廃業」事件-1998年(月刊基礎知識より抜粋)
山一証券はかつての4大証券会社のひとつで、法人営業に強く、「法人の山一」ともいわれた。
創業は1897(明治29)年。1960年代なかば頃の証券恐慌で危機を迎えるが、
日銀特融により持ち直す。しかし30年後の97(平成9)年11月、
経営破たんを招き、自主廃業した。1998(平成10)年3月4日、
山一証券の経営破綻を招いた約2700億円の債務隠し事件で、
商法違反(違法配当)などに問われた
前会長行平次雄、前社長三木敦夫、前副社長白井隆二各容疑者ら3人が東京地検特捜部に逮捕され、
同年9月16日、東京地裁で行平、三木両被告の初公判が開かれた。検察側の冒頭陳述によると、
「法人の山一」とよばれた同証券は、事業法人から直接資金を預かり一任勘定で運用するなど、
いわゆる「ファンド」営業を展開していたが、株式相場の急落以降、膨大な損失を抱え込んだ。
行平被告らは、この巨額の含み損を「顧客企業との取引で評価損を生じた場合、
決算で損失が表面化しないよう決算期の異なる企業間で含み損のある有価証券を転売する=飛ばし」
方式で粉飾決算を重ね、約3500億円の簿外債務を発生させ会社を破綻に追い込んだ責任を追及された。
この山一証券破綻の核心である飛ばし処理について、
大蔵省の証券局ぐるみの指導・助言があったとの疑惑がある

5)東京協和信用組合・安全信用組合破綻事件-1995年(広瀬隆著「私物国家」より)
95年6月27日、東京地検特捜部は、経営破綻したふたつの信用組合、「
東京協和信用組合」の理事長だった高橋治則と、
「安全信用組合」の理事長だった鈴木紳介を、背任容疑で逮捕した。
この事件では、小沢一郎や中西啓介らの政治家が、大蔵官僚たちと共に、
高橋治則の自家用ジェット機で、オーストラリアなどのカジノ遊びに明け暮れ、
そのような乱脈の限りをつくす遊興費が、信用組合を舞台に捻出されていたのである。
最後には、倒産したこのふたつの金融機関の再建のため、東京共同銀行を設立して、
彼らが遊んだ金の穴埋めにわれわれの都民税を投入しようという計画が、
堂々と大蔵官僚や日銀総裁・松下康雄たちの手で進められた。
小沢一郎は、中曾根康弘内閣の自治大臣として、
国家公安委員会委員長のポストについてから闇の世界を動き周り、
自民党の幹事長時代には、財界に300億円の献金を請求して、
今日の日本全土にはびこる政財界の腐敗を生み出す土壌をつくった。
次には新生党の幹事長を経て、新進党の幹事長となり、
比例名簿の順位決定権をにぎってオレンジ共済組合詐欺事件をひき起こし、
それでも新進党の党首となった土建業界の利権者であった。
中西にとっては、小沢一郎と遊んだオーストラリアへのカジノ旅行は序の口で、
自民党当時すでに、イ・アイ・イ・インターナショナルから月額82万円のマンションを無償提供され、
87年にはイ・アイ・イが中西のためにパーティー券6000万円分を購入しながら、
使途不明金として処理していた。さらに、イ・アイ・イ・グループが
中西の公設秘書・小川博光の関係先に26億円を融資していたことが発覚したのである。
その後の中西は、小沢幹事長が支配する新生党で細川護熙内閣の防衛庁長官をつとめ、
続いて、新進党の選挙対策事務局長として、やはり小沢と一体となって、
オレンジ共済事件の主犯として逮捕された参議院議員・友部達夫と密談を重ねていた。
これに対して、逮捕された山口敏夫は、建設政務次官だった山口六郎次の三男として
土建業界の小さな利権屋となり、小沢と共に中曾根内閣に入閣すると、労働大臣となり、
その後も小沢幹事長の側近として新進党の幹事長代理をつとめてきた。
イ・アイ・イの高橋治則とは 20年来の付き合いで、ふたつの信用組合から山口側に流れた金は、
合計300億円以上とされている。泉井事件で絵画を贈られた涌井洋治が主計局主計官だったように、
高橋と密着して "訓告"を受けた中島義雄は85年に、田谷廣明は87年に、いずれも主計局主計官とし
て国家予算を動かしてきた。
大蔵省が彼らを免職にできなかったのは、彼らが喋ると困る上司が、山のようにいるからである。

6)厚生省汚職事件-1996年(事件史探求より抜粋引用)
平成8年11月18日、警視庁と埼玉県警は厚生省課長補佐の茶谷滋と
社会福祉法人「彩福祉」グループ代表の小山博史を贈収賄の容疑で逮捕した。
更に翌19日、小山代表から6000万円を受け取っていた疑惑で厚生省事務次官・岡光序治が辞任。
12月4日に収賄容疑で逮捕された。
この3人は福祉を食い物にして「私腹を肥やす」という典型的な官僚-民間の汚職事件を引き起こした。

小山は昭和55年頃、玉置和郎参議院秘書を経て福祉を目的とした「彩福祉」グループを設立した。
一方、厚生省の岡光は平成元年6月に厚生省の老人保健福祉部長に就任。
このポストは社会福祉法人を認可する都道府県知事の監督、
特別養護老人ホームへの補助金許認可を担当するもので、 ここに岡光と小山の利害関係が一致した。
更に岡光は厚生省から埼玉県に出向していた高齢者福祉課長の茶谷滋を小山に紹介し
3者一体の汚職が開始された。
平成5年8月、小山が申請した社会福祉法人「桃泉園」が茶谷らの便宜で認可された。
この認可を端緒に社会福祉法人「彩吹会」・「彩光会」、特別養護老人ホーム「吹上苑」など
次々に法人を設立。小山は埼玉県内に6つの特別養護老人ホームを建設するという異常ぶりだった。
また彩光会の理事に岡光の妻が就任していた事実も判明した。
この許認可に便宜を図ってもらうため小山は茶谷の埼玉県出向を1年間延長する要請を岡光にしていた。
小山は、この特別養護老人ホームの建設にあたってJWMという建設会社を設立。
県からの建設認可でJWMを通して大手ゼネコンに請負させて利ざやを稼いでいた。
日本は高齢者社会に変遷していくなかで「高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(ゴールドプラン)」
を制定したが、岡光、小山、茶谷らは、この政策(補助金)につけこんで私腹を肥やしていた。
岡光は「要求型汚職」の典型で小山に数々の便宜の見返りとして、
自動車・ゴルフ会員権・自宅マンションの購入資金など約6000万円を受け取っていた。
茶谷も同様に1020万円を受け取っていた。
平成8年10月、茶谷は衆議院選挙で埼玉6区から出馬したが次点で落選した。
この落選を待っていたかのように警視庁、埼玉県警は11月18日、収賄容疑で茶谷を逮捕、
小山を贈賄容疑で逮捕した。12月になると厚生省最高トップの岡光次官を収賄容疑で逮捕した。
さらに厚生省の幹部職員16人が小山から接待を受けていたとして処分を受けた
(当時、小泉厚生大臣)。
平成10年6月24日、東京地裁は岡光元厚生省事務次官に懲役2年、
追徴金6369万円の実刑判決。岡光は判決を不服として東京高裁に控訴。
茶谷は懲役1年6ヶ月、執行猶予4年、追徴金1122万円の判決。
小山は懲役1年6ヶ月、追徴金600万円の実刑判決。小山は判決を不服として控訴した
(いずれも平成10年6月24日現在)。平成10年1月に発覚した「大蔵省・日銀接待事件」
と同様、官僚が国民ではなく自身の私腹を肥やす事のみに目が向いていた事件であった。

7)大蔵省・日銀接待事件-1998年(事件史探求より抜粋引用)
平成10年1月26日、東京地検・特捜部は、大蔵省(当時)の銀行局や金融検査部を家宅捜索した。
その結果、大蔵省・金融検査金融証券検査官室長の宮川宏一と
同部管理課課長補佐の谷内敏美を収賄の容疑で逮捕した。宮川は、
第一勧業銀行(当時)への検査で手心を加え、その見返りに過度な接待を受けていた。
谷内は、自宅マンション購入の際、あさひ銀行(当時)の関連会社から400万円の値引きをさせ、
その見返りとして検査に手心を加えていた。この逮捕のきっかけは、
証券会社による総会屋への利益供与事件であった。
総会屋の小池隆一(平成9年5月14日商法違反で逮捕)は、4大証券の株を大量に購入し、
大株主の立場を利用して不正な取引を要求していた。東京地検は、
小池の株購入資金の出所を調査した結果、第一勧業銀行であることを突き止めた。
第一勧業銀行は、担保も殆ど無い状態で小池に500億円の融資をしていた。

そこで東京地検は、第一勧業銀行に対して事情聴取を開始。
厳しい事情聴取で、宮崎邦次会長が自殺した。第一勧業銀行への取調べで発覚したのが、
「MOF(Ministry-of-Finance)担」と呼ばれる銀行幹部社員達だった。彼らMOF担は、
大蔵官僚に対する接待を目的とした担当者で、一日中、大蔵省に張り付き、
銀行への検査日程や金融行政の動向を探っていた。大手銀行は、このMOF担を複数配置して、
大蔵官僚を銀座や赤坂の高級クラブ、料亭で饗応したり、休日のゴルフなどで接待漬けにした。
日本興行銀行では、大蔵官僚や特殊法人への接待は、年間1億円を超えていたという。

馬鹿げた接待で特に有名だったのが、「ノーパン・しゃぶしゃぶ」接待である。
しゃぶしゃぶ料理店のウェートレスが、ノーパン・ミニスカートで料理を運んでくるという店が、
官僚達には好評だったらしい。
大蔵官僚、MOF担も、共に東大卒のエリート。
それ故に、この馬鹿げた接待が好評であったのだろう。この一連の接待饗応で、
銀行のMOF担に、銀行への検査日や金融行政動向などをリークする官僚が多数いたという。
大蔵省と日銀は、幹部職員百数名に対して、停職・減給・戒告などの処分を実施したが、
本丸である証券局長や銀行保険部長など高級官僚は、司直の追及から逃れることができた。
よく大蔵官僚は「自分達が居なければ、日本はどうなるのか」と言う。
が、彼達が居たから、日本はここまで低迷してしまったことに気づいていない

8)日債銀社長怪死事件-2000年(事件史探求より抜粋引用)
平成12年9月20日午前8時30分頃、
日本債権信用銀行(以下、日債銀)・本間忠世社長(当時60歳)が、
出張先の大阪市内にある阪急インターナショナルホテルの一室で首を吊っているのを発見され
直ちに病院に搬送されたが同9時11分、病院で死亡が確認された。

大阪府警曽根崎署は、本間社長が首を吊った部屋から5通の遺書が見つかったことから自殺と断定。
この遺書は3通が会社関係宛、2通が家族宛だった。
このため、警察は司法解剖することなく本間社長の遺体は荼毘にふされた。
だが、その後次々と他殺説を裏付ける状況が明らかにされると、
「本間社長は殺害されたのではないか」という噂が絶え間なく続いた。
まず、首吊り自殺したとされる19日夜に、
偶然隣の部屋に宿泊していた女性歌手でタレントの森公子さんが、「隣の部屋が騒がしい」と
ホテル側にクレームをつけていた事が判明。
更に、本間社長が首吊りしたとされるカーテンレールになんら変形が無かった事や
紐の入手先が判明しなかった事など不自然な点が多々あった。

日債銀は平成9年に、バブル崩壊で生じた約3000億円にのぼる不良債権を
処理しきれなくなった系列ノンバンク3社の自己破産を申請。こ
のため同行に対する経営不安は一気に高まった。
この頃、次々と金融機関が破綻し日本の金融界は世界的な規模で信用を凋落させていた。
そのため、もうこれ以上、銀行の倒産は避けねばならないと判断した大蔵省(同時)と日銀は、
日債銀の救済のため大手銀行34社に増資を要請した。
銀行側は強い反発を抱きながらも゛お上゛の意向には逆らえず、
総額2000億円の資金を日債銀に供出した。この時、
日債銀への増資をお願いして回ったのが当時の日銀理事だった本間氏だった。
それから3年後に、こともあろうに本間氏が日債銀の社長に就任したのだから、
金融業界からは納得がいかないとの声が多かった。

いずれにしても、日債銀は大蔵省、日銀主導の下で一時的に国有化されたあと、
ソフトバンク、オリックス、東京海上3社の企業連合に譲渡され
平成12年9月4日に本間氏は同行の社長に就任し新生゛日債銀゛として再スタートを切った。
それから、僅か半月後に本間社長は自殺した。
金融再生委員会は、日債銀がバブル期に貸し付けた債権のうち、
約1000億円が゛反社会的勢力゛に貸し付けていたと公表した。
このため、闇社会とのトラブルに巻き込まれ殺害されたのではないかとの噂が広まった。
その後、平成13年1月に日債銀は、「あおぞら銀行」としてデビューした。

(参考)泉井事件-広瀬隆著「私物国家」より
総会屋事件で、主犯格の第一勧銀副頭取の金沢彰が逮捕された。
その義父が徳永久次で、通産事務次官から石油公団総裁への天下りであった。
その徳永を動かす石油資源開発の代表社長が和田敏信で、
これも通産事務次官から石油公団総裁への天下りであった。
しかも和田は、霞ヶ関の通産官僚天下りの支配者と目されてきた。
国家予算を握る大蔵省主計局で、主計官として大きな実権を握り、
近く事務次官になるだろうと目されていた涌井洋治官房長(現・主計局長)が、
逮捕された泉井純一から結婚祝いに絵画を受け取っていたことが発覚した。
これまで日本で起こった無数の金融事件で、絵画などの美術品が重要な役割を果たしてきた。
まず、公職にある政治家や官僚が、その職権にかかわる分野の人間から現金を受け取ることは、
ワイロの収賄罪にあたるので、役得を利用したい人間は、ほかの合法的な手段を考える。
政治家は、いくらでも現金を入れることができる政治献金という大きな魔法の壺を持っている。
官僚の場合は、天下りポストである。その天下り先で約束される給与と退職金は、
たちまち数億円に達する法外なものである。 「政治献金が少ない」と、
グチをこぼす政治家や、天下る日まで我慢できない若手の官僚たちは、
美術品というものが、法外な価値を生み出す謎を知っているのである。

ワイロを贈って官僚の歓心を買い、手心を期待する輩が、
この値段不明の美術品を、官僚に贈ったとする。ところが実際、
それが、百万円の価値しかない美術品であっても、
なぜかその贈賄業者の使途不明金から、美術商には百倍の一億円が闇のなかで支払われる。
そのあと、「なに、大したものではございません」と言って、
片目をつぶって、美術品が官僚に贈られる。
美術商が、これで百倍の利益を得るのではない。こうした取引きに登場する美術商は、
いつでも決まっており、一億円をひとまず預かる形になる。しばらくたってから、
彼らはその一億円を持って官僚のもとを訪れ、美術品を一億円で買い戻す。
これで、贈賄業者から官僚に一億円が渡ったことになる。
美術商は、あらかじめそれを知って、うまく事を運び、相応のコミッションを受け取る。
涌井洋治の場合は、泉井から贈られたのが数十万円の絵画なので、
大した事件ではないと思ってはいけない。それは彼らの表面上の付け値であって、
値段は、あとでどのようにでも調整できるのである。
大蔵大臣の三塚博が、口頭で涌井に厳重注意した、という程度ですまされる問題ではない。
石油業界からこのような好意を受けた涌井が、今では大蔵省で復活し、
主計局長となってわれわれの税金を動かしている状況が、許されるであろうか。

国税当局によると、泉井純一は、泉井石油商会の代表で、92年から94年にかけて、
三井鉱山から24億円を受け取り、
三菱石油と三井鉱山の石油取引きの仲介手数料という名目で 30億円、
さらに三菱石油と中堅商者の石油取引きの仲介手数料という名目で10億円、
総額およそ64億円が泉井純一に提供されたのである。
問題は、これらの大金が政治家と官僚の接待に使われたことにあり、その目的は、
ベトナム油田開発の利権を誰がとるか、その帰趨を決するところにあった。
97年9月に泉井本人が記者会見をして、自民党の山崎拓が、
泉井から2億円を超える"政治献金"を受けとっていた事実を明らかにしたが、
山崎だけでなく、数えきれない数の政治家に汚染が広がっていた。

この事件が報道界を騒がせた97年初め、通産官房長として
泉井事件の調査担当官に任命された広瀬勝貞は、省内の全調査をしたそうだが、
大山鳴動鼠一匹出ず、という結果を報告し、通産大臣の佐藤信二もまた、
官僚たちにお叱りをした程度で、われわれから見れば、全員がほとんど無処分となった。
通産大臣だった森喜朗が泉井と会っていた疑惑は重大である。

政治家としては、渡辺美智雄が主導権を握ってベトナム油田に熱中したが、
彼は、泉井が活発に活動した時期の85年12月から中曽根内閣の通産大臣として
石油の利権にかかわってきた。その当時、渡部と組んだ通産事務次官が、
田中角栄の首相秘書官時代に『日本列島改造論』の原案を作った小長啓一であった。
そして小長は、天下りしてアラビア石油の社長に就任し、示し合わせたように、
ベトナム油田開発に参入した。小長の後を継いで事務次官に就任し、
渡部通産大臣と組んだのが、福川伸次だったのである。
そして福川が、事務次官を退任したあと、野村総研に天下りして、
野村證券会長と社長の田淵節也と田淵義久とベトナム事業を検討することになった。
それを円滑に進めるために登場したのが、総会屋の小池隆一だったのである。

日本の検察の能力は、政治家や高級官僚を調査する段階にはいると、
著しくレベルが低くなる。そのような人選が、司法当局によってなされるからである。
蔵相・三塚博の場合は、彼の地元・宮城県で、山口組系の暴力団との関係が噂された当時、
県警がそこにかかわる重大な捜査に踏み込んだあと、
刑事部長以下すべての担当者が退職か異動で、捜査からはずされているのである。
泉井の接待は、80年ごろからはじまったというから、すでに20年近く、
この腐敗が進行してきたことになる。
特に、70年代に四代にわたって「通産事務次官」をつとめた
両角良彦・山下英明・小松勇五郎・和田敏信の四人が、
現在われわれが見ている高級官僚の人事を決定してきた重要な責任者である。
とりわけ、事務次官を退任したのに、82年から石油公団総裁として君臨し、
この公団傘下の石油資源開発と、日本海洋石油資源開発をはじめとする海外石油開発の関連会社で、
実に十数社の社長を勤めた前述の和田敏信こそ、泉井純一がこの事件でベトナム油田開発のため、
三菱石油に接触する事業の中心にいた人物であった。 そのため泉井は、和田敏信のような次官らの
、かつての部下にあたる日本全土の石油人脈を
招いては、東京都内のホテルで豪華な"忘年会"を毎年開催し、
ホテルにスイートルームを確保して「自由に使ってください」と、
銀座のクラブの女性まで招くパーティーを主催するまでに至った。
これは、事実上の高級売春パーティーであったと考えられる。

そうした中、ベトナム沖の油田開発に、最初に名乗りをあげたのが三菱石油であり
、89年にその社長に就任したのが、泉井のパーティーの出席者で、
のちにワンマン経営者として知られるようになった山田菊男であった。
しかも山田菊男社長のもとで、部下として立ち働いていたのが、
たまたま同姓の山田繁常務であった。泉井事件で大金を出費した最大の責任者である山田菊男は、
かつての日銀総裁・三島弥太郎の一族であり、弥太郎の姪と結婚したのが、
戦後の名物ワンマン宰相・吉田茂であった。 吉田茂の近親者がほかならぬ、
霞ヶ関の大騒動を見ながら泉井事件を無視した通産相・佐藤信二である。
三菱石油の山田菊男社長がこのような一族であったなら、一方、石油公団総裁となり
、石油業界を私物化した和田敏信は、長男が三井物産勤務であり、
長女の娘ムコが三菱石油勤務であった。三菱石油に勤務するその娘ムコの伯父が、
満鉄総裁として日本の満州・蒙古侵略積極論を展開した外務大臣・松岡洋右であった。
細川護熙の祖父が組閣した第二次近衛文麿内閣で外交問題を動かした松岡は、
日独伊の三国枢軸同盟を結び、ヒットラーとムッソリーニを訪問したことでよく知られるが、
戦後A級戦犯となって、東京裁判の公判中に病没した。 しかし松岡洋右の姪は、
"首相・佐藤栄作"夫人の佐藤寛子であるから、その息子が、通産省・佐藤信二となる。
泉井事件で40億円の資金を闇にまいた三菱石油の社長山田菊男と、
そのような闇資金による怪しげな接待を受けた通産官僚を支配した石油公団総裁・和田敏信が、
いずれも、泉井事件をもみ消した橋本内閣の通産大臣の一族だったという事実が浮かび上がる。
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不正融資事件(1)

2008年08月09日 | 国内不正・汚職事件
不正融資事件(1)

今回は戦後の不正金融事件を拾い出してみました。
不正金融事件(2)の最後には参考に泉井事件を掲載してみました。
皆さんはこれでも世の中まともだと思い、あきらめて、この人たちの中に入りたいですか?
もう赤、とか右翼とか、宗教とか、金融のグローバルとか、
言っていられない時代になっているように思いますが?
この中の事件は表面にでたものばかりです。
この日本の仕組みではまだいっぱい同様のことがあると思います
(例えば元K総理と広域暴力団稲川会)。これからも過去の亡霊のような事件が多発すると思います。
私もお金は欲しいのですが、金のことは不浄だと教わってきたのです、でもやっぱりお金?
この事件たちをみていると、金融破綻の時の税金投入は、国民や中小企業のためでなく、
税金を食い物にした人たちへの、また税金の穴埋めだったようですね。

1)政府高官とダグラス・グラマン事件-1979年(事件史探求より抜粋引用)
昭和54年3月14日、東京地検は、日商岩井・航空機部門の山岡正一部長、
今井雄二郎次長を外為法違反などの疑いで逮捕した。
更に4月2日、同社の海部八郎副社長を同容疑で逮捕。
この逮捕は、前年の昭和53年12月25日に米国の証券取引委員会で、
マクダネル・ダグラス社が自社の戦闘機(F4Eファントム)の売込みのため昭
和50年に1万5000ドルを日本の政府高官に渡したことを告発したことがきっかけだった。
更に昭和54年1月4日、今度はグラマン社が自社の早期警戒機(E2C)の売込みのため、
日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに代理店の日商岩井を経由して、
不正資金を渡したことを告発した。東京地検は、
米国証券取引委員会の資料提供を要請し、捜査を開始した。捜査の中心は、
両社の代理店である日商岩井であったが、
2月1日、日商岩井・航空機部門の責任者であった
島田三敬常務が本社ビルから飛び降り自殺し、捜査は行き詰まった。

2月9日、衆議院予算委員会で、岸信介元首相、日商岩井の海部八郎副社長、
松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。岸、海部は「記憶に無い」の答弁を繰り返す。
松野は5億円の授受を認めるも、既に時効が成立しており刑事訴追は逃れた。
岸元首相は、ダグラス社に対して便宜を図るなどとしたメモ、
いわゆる「海部メモ」が発覚したのに、何故か東京地検は同氏に事情聴取すらしなかった。
結局、起訴されたのは日商岩井の上記3人だけで、政府高官へのメスは入らなかった。
その後の裁判で、海部副社長は懲役2年、執行猶予3年で確定した。
昭和33年の第一次防衛力整備計画から既に疑惑は存在していた。
当時、防衛庁は次期戦闘機をロッキードF104戦闘機に内定していた。
ところが急転直下、日本政府は、グラマンF11F戦闘機を採用決定した。
この時、30億円の不正資金が岸内閣に入ったとの疑惑があった。
第二次防衛整備計画では、ロッキード社とダグラス社の戦闘機が競合となったが、
結局ダグラス社のF4Eファントムが採用された。この時も、
膨大な不正資金が政界にばら撒かれたとされている。

2)田中首相の金脈事件-1974年(事件史探求より抜粋引用)
昭和49年10月10日発売の文藝春秋・11月号に、
作家・立花隆の「田中角栄の研究~その金脈と人脈」というレポートが掲載された。
このレポートは、田中首相が唱えた「日本列島改造論」の裏で、
田中ファミリー企業が土地転がしを繰り返し、金脈・人脈を形成していく過程を取り上げていた。
この中で、国有地払い下げ、実体の無い企業経営、
脱税など首相の政治資金に違法性の疑惑があるとした。
参議院決算委員会でも、この問題が取り上げられ4日間審議した。
が、田中首相は「いずれ明らかにする」と言明した後、12月9日に総理大臣を辞任してしまった。

田中は、佐藤内閣の後を受けて昭和47年7月に自民党総裁となり総理大臣のポストを得た。
今までの官僚上がりの歴代総理とは異なり、
新潟県で尋常小学校卒のいわゆる学歴・学閥を持たない宰相であった。
裸一貫で身を起こし、総理大臣に立身出世したことや、
家では背広に下駄履きという気さくな態度に国民の人気は高かった。
総理在任中は、「日中友好条約」を締結するなど役割貢献は大きかった。
その田中首相が、就任早々に掲げた持論が「日本列島改造論」であった。
この本は、爆発的に売れベストセラーになった。田中が言うところの日本列島改造論とは、
従来からの東京一極集中の政治・経済を見直し、
地方と東京を結ぶ高速道路網・新幹線網を全国網羅して
地方との経済格差を無くし、経済に勢いをつけるというものだった。
ある点では的を得ていたが、一国の元首が唱えたこの改造計画は性急過ぎた。
大企業を中心に、地方の土地買収が全国レベルで広がり、これによって土地の高騰、
強制立退き、自然破壊が一気に加速した。また、道路や鉄道建設に建設業界が群がり、
談合や利権で政界・官界・財界にモラルの欠如をもたらした。
田中金脈の原点と言われているのが「信濃川河川敷事件」である。
昭和39年から40年にかけて、田中ファミリー企業である「室町産業」(東京)が、
新潟県・長岡市蓮潟地区の信濃川河川敷の畑地73ヘクタールを301人から4億1000万円で買収した。
ところが、この直後に建設省の堤防工事や国道のバイパス工事などで、
二束三文の土地が時価数百億円の一等地になった。
これに対して、元地主が「土地売買は田中首相の地位利用による不法なもので無効」と訴えたが、
裁判ではついに田中の地位利用は明確にできなかった。
昭和50年3月26日、同じく田中ファミリー企業の「新星企業」を住宅建物取引業法違反で、
竹沢社長と社員の2人が書類送検されたが、裁判で田中首相への関連付けは一切無かった。
田中は、関越高速道路・上越新幹線建設など、このような錬金術で莫大な資金を得たとされ、
この資金で政治における人脈(派閥)を形成し、闇将軍と異名をとるまでになった。
立花氏のレポート掲載から2年後、「ロッキード事件」が発覚。
田中元首相の実体が更に暴露されることになる。

3)中曽根康弘と殖産住宅事件-1973年(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
昭和48年(1973年)4月11日か4月12日、殖産住宅相互株式会社社長・東郷民安は、
流動社長・倉林公夫と会った。このとき、東郷民安は、倉林公夫に、
殖産住宅相互株式会社の株主総会を谷口経済研究所・谷口勝一所長に任せていることを話した。
倉林公夫は、株主総会のことを、児玉誉士夫(右翼の大物でA級戦犯生き残り)に相談するように進めた。
翌日、東郷民安は、児玉事務所を訪ねて、児玉誉士夫に会った。児玉誉士夫は、東郷民安に、
岡村吾一(右翼やくざで総会屋)を紹介すると、約束した。
同年4月20日、東郷民安は、岡村吾一と会い、100万円を渡した。
殖産住宅相互株式会社の株主総会を岡村吾一が取り仕切ることになった同年5月28日、
岡村吾一の仕切りによって、殖産住宅相互株式会社の株主総会は終了した。
東郷民安は、児玉誉士夫に挨拶に行き、殖産住宅相互株式会社の株2万株(時価2500万円)を渡した。
児玉誉士夫は、東郷民安から貰った株のうち、1千株を岡村吾一に渡した。
これに関連し、中曽根康弘元総理は1972年に、殖産住宅事件の株取得問題で国会証人喚問される。
翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互社長東郷民安は旧制静岡高校時代からの友人であった
。このため、親友も見殺しにすると囁かれた。

4)田中角栄とロッキード社事件-1976年(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、
自由民主党衆議院議員で(当時)前内閣総理大臣の田中角栄が、
1976年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された事件である。
政治家では田中以外に佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や
橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕されたほか、
全日空の若狭得治社長やロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、
行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAと深い関係にあった児玉誉士夫や、
児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出し、
また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、
第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
この事件は1976年2月にアメリカ合衆国上院で行われた
上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)における公聴会にて発覚しており、
アメリカとの間の外交問題にも発展した。

5)豊田商事事件-1985年(事件史探求より抜粋引用)
昭和60年6月18日午後4時30分頃、ペーパ商法で巨額の金を集金した
「豊田商事」の永野一男会長(当時32歳)が、大阪市北区の自宅マンションで
工場経営の飯田篤郎(当時56歳)と知人の建築作業員の矢野正計(当時30歳)に銃剣で刺された。
永野会長は病院に運ばれたが11ヶ所の傷を受け出血多量で死亡した。
犯行当時、永野の自宅マンションの玄関前には約30人の報道陣やガードマンが居た。
その人垣を掻き分けて飯田らは、「被害者6人(詐欺にあった)から、
もう金は要らんから永野をぶっ殺せと頼まれて来たんや」と言って
報道記者が使用していたパイプ椅子を取り上げて
玄関脇の小窓(50センチ四方)を破壊し室内に侵入した。
室内では争う罵声が聞こえたが、数分後に飯田らは返り血を浴びた格好で外に出てきた。
飯田は、報道陣に向かって「殺した。俺が犯人や、警察を呼べ。法律は手ぬるい。
わしらが、やらんかったら、他にやる者おらん」と叫んだ。
飯田らは駆け付けて来た天満署の警官に現行犯逮捕された。
白昼堂々と、しかも報道陣の前で《殺人を犯した》のは前代未聞である。
世論は犯行を未然に防ごうとしなかったばかりか、
犯行状況を取材しようとした報道陣に対して非難の声があがったが、
それ以上に「因果応報」だという感情論の方が大きかった。
それほど、豊田商事・永野会長の詐欺行為は許せない犯罪だった。
永野は岐阜県恵那市で昭和27年に出生した。中学を卒業後、
職を転々とした永野は昭和56年4月に「豊田商事」を設立した。
業務は、(純金ファミリー証券)の販売であった。
しかし、この商売は実体がまったく無いペーパ商法であった。
まず、一人暮らしの老人をターゲットに豊田商事の営業が執拗な勧誘を行う。
老人の家に上がり込み最低でも5時間居座る。中には、朝まで勧誘していたという例もあった。逆に、
食事の支度をしたり掃除をしたり「自分を孫だと思ってください」などと老人の情に訴える勧誘もした。
こうして老人に虎の子の金を捻出させて純金購入をさせた。
だが、実際はその資金で純金を購入する訳ではなく購入した老人には
「ファミリー契約証券」を渡すだけで永野会長らは私服を肥やしていった。
満期になると強引に継続契約を勧め途中の解約は一切応じなかった。
こうして老人を中心に約5万人から、2000億円を巻き上げていた。
昭和60年4月に豊田商事のグループ関連会社の社員が詐欺容疑で逮捕された。
6月15日には押収した書類から「外為法違反」の容疑で豊田商事が
強制捜索され17日は永野会長が事情聴取された。その翌日の18日、
前述の犯行により永野会長が死亡した。

その後、弁護士の中坊公平らが破産宣告した豊田商事の破産管財人となり
豊田商事の社員が納めた税金の返却を国税局に交渉したり、
様々な手法で120億円を取り戻し被害者に還元した。が、大部分の金は戻ることなく老人達は、
どん底に突き落とされた。この豊田商事の残党は様々な会社に散らばっていく。
今でも、執拗な電話・訪問勧誘は豊田商事をモデルにしている詐欺会社が無数にある。
懲りない連中である。

6)投資ジャーナル事件(1985年)(事件史探求より抜粋引用)
昭和60年6月19日東京地検は、海外に8ヶ月間逃亡し帰国した投資コンサルタント業の
投資ジャーナル会長の中江滋樹(当時31歳)と妻・加代子(当時31歳)、
社長のS(当時30歳)ら11人を詐欺容疑で逮捕した。
投資ジャーナルグループは無免許で株式を売買し「
絶対に儲かる」「値上がり中の株を安く分譲する」と言葉巧みに話を持ちかけ
7684人の客から総額580億円を騙し取っていた。
投資ジャーナルは昭和53年に設立。その後、東証信用代行、東京クレジット、
日本証券流通を設立。株コンサルタントと投資資金を融資する証券と金融を一体化させた。
その頃、中江は「兜町の風雲児」と言われ人気絶頂だった。
中江の手口は証券業界誌や自社発行の「月間投資家」などで派手な宣伝を繰り返した。
客の投機心を煽り、1人10万円から数百万円の会費を募り、
推奨銘柄を教えて融資は系列会社を紹介した。
また、保証金を積めば、その10倍の融資も可能と偽り、
殆どの客に「預かり証」の発行を交付しただけで実際の株現物の引渡しや提示を拒否していた。
グループが投資家から受けた株式売買注文は12億株、約7000億円相当。
だが、実際には4500億円相当は売買を行わず客には計算書だけを渡していた。
中江らは、逮捕されることを事前に察知。交際中の芸者とS社長、途中で加わった妻と4人で
香港、マニラ、シンガポールなどを転々として8ヶ月間、豪華な逃亡生活をおくっていた。
逮捕後の取り調べで、投資ジャーナルに便宜を図ってもらう目的で自民党の大物政治家や高級官僚、
高級警察官らに数千万円から数百万円の株投資の利益を渡していたことが判明した。
更に、芸能界でアイドル歌手だったK子さんが中江の愛人で
7000万円の家を貰ったと噂され芸能界を引退した経緯があった。
検察は被害届のあった大口の32人分に絞って起訴した。
平成元年4月、東京地裁は中江に懲役6年の実刑判決を言い渡して確定した。
尚、事件後騙し取られた580億円の内、約400億円は客に返還されている。

7)平和相互銀行不正融資事件(1986年)(事件史探求より抜粋引用)
昭和61年7月6日、関西の中堅地方銀行の平和相互銀行(以下、平和相銀)で
巨額不正融資事件が発覚。
会社に多大な損害を与えたとして同銀行の監査役・伊坂重昭ら役員幹部が特別背任罪で逮捕された。

平和相銀は、以前から創業者である小宮山一族と
監査役・伊坂、稲井田社長らを中心とする新経営陣との確執が続いていた。
不正融資の発端は、昭和57年11月にさかのぼる。
平和相銀の系列会社であるゴルフ場開発会社「太平洋クラブ」が昭和48年3月から
会員制レジャークラブの会員を募集し会員権預かり
保証金が昭和58年3月以降、順次その措置期間が経過することにより、
償還請求が殺到すると危惧していた状況であった。
このため太平洋クラブの資産を売却し償還資金とすることを計画した伊坂らは、
同クラブが所有している兵庫県神戸市内の山林196ha(評価担保額42億円)を売却することを決定。
不動産会社「新日興開発」を仲介料3億6000万円で
仲介させ不動産会社「広洋」と土木会社「サン・グリーン」に60億円で売却。
この時、土地購入資金として両社に総額116億2000万円の融資をした。
つまり、42億円の価値しかない土地を60億円で取引するという話に
平和相銀は116億円の融資をしたことになる(この資金の一部は暴力団に渡っている)。
当然のことながら、この融資は不良債権化し平和相銀の経営を圧迫した。
この土地購入融資の焦付きで平和相銀は、さらに泥沼に入っていく。
昭和58年、伊坂・稲井田コンビは鹿児島県の無人島である「馬毛島」を防衛庁のレーダ基地として
売却することを計画する。そこで、大物右翼のTに政界工作を依頼し総額20億円を提供した。
この資金が実際に20人近い自民党議員に渡ったとされている。
が、結局この馬毛島にはレーダ基地は建設することなく頓挫した。
昭和60年8月、伊坂らと対立する平和相銀創業一族が、
所有していた株(全株式の33.5%)を
フィクサーとして有名な旧川崎財閥系資産管理会社「川崎定徳」の
佐藤茂社長に80億円で売却してしまった。
株買戻しで焦る伊坂らに東京・有楽町の画廊「八重洲画廊」の真部俊生社長から
「金蒔絵時代行列」という金屏風を40億円で購入したら、株買戻しの取引が可能になると持ちかけられた。
この取引に竹下登の秘書・青木伊平の紹介もあったとされ、伊坂らは何の抵抗も無く取引を行う。
その後、金屏風の代金は政界に流されたという噂がたった。ちなみに金屏風を鑑定したところ、
多く見積もっても5億円、一説には8000万円の評価額でしかなかった。
これらの不正乱脈融資が決定的となり平和相銀は破綻。住友銀行に吸収され幕を閉じた。

8)リクルート事件(1988年)(事件史探求より抜粋引用)
昭和63年6月18日朝日新聞が神奈川県川崎市助役へ一億円利益供与疑惑」をスクープ報道した。
これによって、リクルート疑獄事件が始まる。リクルート社は
グループ企業であるリクルート・コスモス社の値上がり確実な未公開株を
店頭公開前に譲渡することで実質の利益を供与するものであった。
翌7月には自民党の中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一など大物政治家に
コスモ株がばら撒かれていたことが発覚する。
9月5日、この疑獄事件追求の急先鋒であった社民連の楢崎弥之助代議士に
コスモス社の松原弘社長室長(当時)が500万円を持参し
「国会での追及を中止してほしい」と申し出る。この一連のやり取りは楢崎が隠し撮りをしており、
日本テレビで大々的に報道された。
リクルートの江副浩正会長(当時)は、急成長する自社に政治的・財界的に地位を高めようと、
有力政治家・官僚・通信関連でNTTの3つをターゲットに未公開株をばら撒く。
政治家の大口としては中曽根康弘が29000株、竹下登・宮沢喜一・渡辺美智雄・加藤紘一らが
10000株前後、官僚では高石邦男文部次官・加藤孝労働次官、
民間ではNTTの真藤会長・長谷川寿彦取締役ら100人前後に渡った。
10月30日の店頭公開では一株3000円に対して初値5270円が付いた。
中曽根の場合で言えば、労せず1日で6583万円の利益になる。
翌年の平成元年2月13日、リクルートの江副会長、NTTの真藤会長とその秘書らが逮捕。
3月8日加藤労働次官、同月28日高石文部次官がそれぞれ贈収賄で逮捕された。
竹下登は一連の責任を取り首相辞任を表明した。
だが、政治家は自民党の藤波孝生議員、公明党の池田克也議員が在宅起訴されただけで、
中曽根や竹下をはじめ大物政治家はついに逃げ切った

9)イトマン事件-1991年(事件史探求より抜粋引用)
平成3年7月23日、大阪の中堅商社「イトマン」が3000億円の巨額資金を流出した事件で
大阪地検は、イトマンの河村良彦社長(当時67歳)、伊藤寿永光常務(当時46歳)、
不動産管理会社代表の許永中(当時44歳)ら6人を特別背任容疑などで逮捕した。

昭和48年の石油ショックで、経営不振に陥る。メインバンクである住友銀行が動きだす。
住友銀行は、同行の常務であった河村良彦をイトマンの社長として送りだす。
河村は、住友銀行頭取の磯田一郎から平和相銀の内紛株買戻しの資金援助要請を受け泥沼に入り込む。
拡大路線の切り札として起用したのが、
協和綜合開発研究所(実体は地上げ会社)の伊藤寿永光であった。
伊藤はイトマン入社前に、仕手筋と知られていたコスモポリタン会長に
200億円の巨額資金を融資していたが焦付き、担保として残ったのが雅叙園観光だった。
雅叙園観光の債権者として他に名乗りをあげていたのが闇社会の超大物「許永中」であった。
ここで2人は意気投合しイトマンを食い物にしていく。
伊藤がイトマンに入社後、直ちに常務に昇格。
この頃、平成2年5月24日、日経新聞で「伊藤萬、土地・債務圧縮急ぐ/住銀、融資規制受け協力」
というスクープで、イトマンが不動産投資で借入金が1兆2000億円に膨れ上がっている
ことが発覚したという報道があった。経営再建に焦る河村社長に伊藤は許永中を紹介する。

そこで、許は河村社長に美術品・貴金属などの投機で儲かると話し掛け、
結局イトマンは、許の関連会社から総額528億円の仕入れを行った。
だが許が持ち込んだ絵画などの小売価格は265億円程度であり、
差額の263億円を許は儲けたことになる。逆に言えば、
許と伊藤はイトマンに263億円の損害を与えたとこになる。さ
らに許は、イトマンに様々なプロジェクト話を持ちかけ食い物にしていく。
一方、伊藤常務も資本金わずか1000万円の不動産業者「太平産業」に
伊藤常務の関連会社(実兄が代表者)を経由して1300億円余りを融資した。
伊藤常務は、この関連会社から200億円の利ざやを得たと言われている。
太平産業は平成3年に任意整理され、その結果イトマンは1000億円以上の損益を負った。
この影響は計り知れなく、イトマンから闇社会に流れた金は3000億円とも6000億円とも言われている。
この金はどこに消えたのか、今だに解明されていない
(警察庁OBの元建設省K大臣は許と大親友とのことである)。
経営破綻したイトマンは、平成5年4月に住金物産に吸収合併され、イトマンの歴史に幕を閉じた。

10)東洋信用金庫事件(尾上縫)1991年
数ある事件で、これくらいバカバカしいというか、笑いを誘うものはないかもしれません。
一介のミナミの料亭の主人の縫さんに銀行が群がって、2兆円の金を貸し込むのです。
バブルがはじけて株がパーになって追い込まれた東洋信用金庫が架空の預金証書を作る、
その額、4千億円を超える恐るべき金額です。東洋信用金庫は、
この事件を切欠に潰れはしませんでしたが吸収され消失するのです。

11)富士銀行赤坂支店を舞台にした巨額不正融資事件(1991年)(月刊基礎知識より抜粋)
富士銀行の赤坂支店で幹部行員が、銀行の信用を背景に取引先に架空の預金証書を発行、
それを担保に都内の不動産業者ら27社7個人が、
15のノンバンク(預金を受け入れないで融資をしている会社)から
総額約7000億円もの巨額を不正に引き出した詐欺事件。
5月中旬、ノンバンクからの問い合わせで発覚した。赤坂支店の中村稔元渉外課長(38)は、
1987年からコンピュータに架空預金額を打ち込んで預金証書を作り、
このあと入金ミスとしてこの記録を抹消。預金証書は廃棄せず、
偽造の質権設定承諾書(預金を担保にするのを銀行が認める書類)と共にノンバンクに持ち込み、
融資を引き出す。そのカネは同支店に開設した取引先口座に一旦預金。
1週間以内に解約するなどして融資金を騙し取るという手口。


これらの資金は、おもに地上げや不動産投資に流れており、
大手銀行の地価高騰元凶説が裏付けられた。この不正融資は、
地上げへの批判から融資が締めつけられた結果考え出された方法と言われている。
警視庁は知能犯を担当する捜査2課が、ロッキード事件以来15年ぶりという異例の特別捜査本部を設置、
91年9月12日、元課長と取引業者ら4人を逮捕。
元課長は融資の見返りに取引先から約2億円のリベートを受けていた。
橋本蔵相の秘書がこの事件で無担保融資に介入したり、
暴力団に融資金が流れるなど関係者の裾野は広がるばかりで金の流れも複雑。
全体像がつかめないが、金に群がる政界、官界をも巻き込んだ複雑な構図が見え隠れしている。
同行は他の4支店でも不正融資が発覚しており、このような不正を銀行の上部が知らぬはずはなく、
銀行の収益至上主義が犯行に走らせたとも言える。(月刊基礎知識より)

12)佐川急便事件-1992年(事件史探求より抜粋引用)
平成4年2月24日、東京地検は東京佐川急便の渡辺広康社長ら4人を特別背任容疑で逮捕した。
乱発した債務保証は数千億円といわれ、この内回収不能は950億円。
乱発した資金の大半は暴力団・右翼団体に流れ、20億円は政治家への闇献金としてばら撒かれた。
闇献金は、総理経験者や金丸信副総理など大物政治家12人に渡ったとされる。
同年9月22日の初公判で、渡辺社長は以下の証言をした。
昭和62年当時、自民党総裁後継でポスト中曽根の座を安倍晋太郎、
宮澤喜一らと激しく戦っていた竹下登に対して、
香川県の右翼団体・日本皇民党は「ほめ殺し」を街宣車で展開していた。
「金儲けの上手な竹下さんを総理にしよう」などと全国で展開された竹下は、
このピンチを乗り越えようと腹心で参謀の金丸真に相談。そこで金丸は、
東京佐川急便社長の渡辺に皇民党の活動を中止するよう依頼した。
この意を受けた渡辺は、広域暴力団の稲川会の石井進前会長に相談する。
そこで、昭和62年10月に石井前会長は皇民党の稲本虎翁総裁と会談した。
石井前会長の街宣活動中止要請に対して皇民党は、ほめ殺しの中止条件として、
田中元総理に対して謝罪(竹下は、田中元首相の派閥である田中派を乗っ取り
創政会を経て経世会‘を結成した)を要求したという。
確かに数日後、竹下は突然、田中元首相の私邸に訪問している(門前払いされたが)。
この結果、日本皇民党の竹下に対する「ほめ殺し」はピタっと止まる。
だが、稲川会は貸しができた東京佐川急便に対して以降様々な理由で資金援助を要請し前述の通り、
数千億単位で資金が闇社会に流れていく。東京地検も闇献金や不正融資などの追及を続けたが結局、
東京佐川急便からの政治献金の中で5億円の授受をしていた金丸信が
平成4年9月28日に政治資金規正法違反で略式起訴されただけで、
その他の大物政治家や闇資金ルートは解明されないまま事件は闇に葬らされた。

13)雅叙園事件-1987年(兜町事件簿より)
池田保次は、元山口組系暴力団の組長です。
1980年代、企業舎弟として地上げ屋で成功した後、コスモポリタンという企業で、
タクマ、雅叙園、日本ドリーム観光などの株を買い占め、仕手集団として、一世を風靡します。
1987年5月、雅叙園観光の過半数の株を支配して、同社会長に就任します。コ
スモポリタンが最も注目されたのは、タクマの買占めです。
タクマは、ボイラーを基盤にゴミ焼却施設などを造っている技術力の高い会社です。
1987年の1月、池田は、大阪の信用組合の理事長の紹介で、タクマを800万株、手に入れました。
その後、下値をこつこつ拾うのではなく、短期間に強引に買占めを進めたようです。
1987年1月に413円の安値だった株価は、5月には2,220円に達しています。
4ヶ月で、5.4倍の値上がり率です。 コスモポリタンは、役員派遣を求めます。
タクマとしては、企業舎弟から人を受け入れるわけにはいきません。
経営側との徹底抗戦になります。株を買い取る意思もなさそうです。こうなったら、
経営権を奪ってタクマを手に入れるしか道はありません。経営支配している雅叙園の手形を濫発します。
タクマの株を担保に、証券金融会社から借ります。関西の闇の資金も、高利で借りていました。
タクマの発行済株数は、6,446万株です。9月には、コスモポリタン・グループは、
そのうちの3,200万株を手に入れます。他の委任状分を含めると、過半数を超えます。
後は臨時株主総会を開き、子分を役員に据えればよいのです。莫大な金利の支払いは、
池田を苦しめました。しかし、あと一息です。経営権さえ握れば、タクマから資金を引き出せます。
大阪地裁は、臨時株主総会の開催を許可します。買占めに対して、
会社側が対抗すると、浮動株が少なくなり、株主数が基準値を割り込み、
やがて上場廃止に追い込まれます。
タクマは、野村証券、第一勧銀などの、銀行と相談します。そして、
乗っ取り防止の切り札、1600万株の第三者割り当て増資を行ないます。
銀行、生保の他、株主数対策として、関係する個人にも割り当てられました。
持株比率は、41.7%まで突き落とされます。価格は、僅か680円、法廷で争えば、問題のある増資です。
しかし、高利の借金を重ね、やっとの思いで過半数を制したコスモポリタンには、
決定的なダメージでした。
1987年10月20日(火)朝6時、池田はテレビをつけます。そこで、信じられない光景を、
目の当たりにします。19日のアメリカ市場の終了のベルが鳴ります。508ドル安!なんとたった一日で、
22.6%の値下がりです(ブラックマンデー)。9時、東京市場が、開きます。
証券金融会社が、担保に取っていたタクマ株を、慌てて証券会社に持ち込み、投げ売りを急ぎます。
この日多くの仕手筋が崩壊。コスモポリタン関連株も全銘柄暴落。
池田の野望は、消滅します。万事休す。
それからの池田は、1日1億円を越える金利を支払えなくなり、闇の世界から追われる身となります。
1988年8月12日の新大阪駅、東京行きの新幹線のホーム。運転手が、池田保次を見送ります。
そして、それ以後、彼を見かけた者はいません。金を返せずに殺された?
・・・・それから2ヵ月後・・・・・・兜町界隈の証券金融会社に、何人かの不審な男が、
かわるがわるタクマの株を持ち込んだそうです。いくらなら、買ってくれるかい?
証券金融会社は、足元をみて買い叩きます。今日は20万株。
明日は10万株・・・・ いったい誰が売ったのか? 永遠の謎です。
Mホームが一時買収しています。当時わけのわからない経済評論家が
池田氏のことを擁護していましたが、元暴力団組長がMホームに騙されるわけがないでしょう?
ましてやM社長は経済的には素人です。バックに金融機関(証券会社、銀行等)があると
見るのが妥当でしょう。

コメント
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