鶴彬(1909~38)の郷里は石川県かほく市で、現在「鶴彬資料室」がある。1930年、金沢市の陸軍歩兵第7連隊に入隊。すぐに軍律違反で重営倉入りの懲罰を受けた。1931年には共産党系機関紙を配ったとして懲役2年の刑で、「大阪陸軍衛戍監獄」へ収監された。1937年には治安維持法違反で再逮捕された。鶴が発表した最後の6句が「反国家的」だと川柳人が特高に密告したとの説がある。東京都内の留置場から病院へ送られ、1938年9月、ベッドに縄で縛られ赤痢で死亡した。
大阪陸軍衛戍監獄は大坂城の桜門と玉造口の間にあった。鶴彬顕彰実行委員会により2008年2月8日跡地に百日紅の記念植樹が行われ、9月14日には碑文の竣工式も行われた。
碑文
「この地はかつて大阪衛戍監獄があり、1931年治安維持法違反で22歳の川柳作家鶴彬が収監され、1年8カ月の呻吟の日を送っていました。
暁を抱いて闇にゐる蕾
鶴彬は暁の日を見ることなく、29歳で獄死しました。私たちは戦争へと進む時代に抗し、強靭な精神力で、川柳の不屈を体現した鶴彬を偲んで没後70年を機に顕彰し記念植樹を行うものです
2008 .9.14 鶴彬顕彰実行委員会 」
(2024年8月21日投稿)