ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「超巨大地震に迫る」

2012-04-21 07:15:16 | Weblog
例によって知人の一人が送りつけてきた本で、「超巨大地震に迫る」という本を読んだ。
昨年の3月11日の東日本大震災を経たことで、地震のことを知りたくなって買ったに違いない。この本を読んで一番読みごたえのあった部分は「あとがき」である。
その中で言っていることは「地震の予知はできない」という一語である。
私は別に立派な科学者ではないが、私自身もそう思う。
地震の予知は21世紀に至っても不可能に近いと思っている。
「近々起きるであろう」ということは言えても、何時何処でということは確定できないのではないかと思う。
今回の大震災は、地震とそれによって引き起こされた津波と、その津波によって機能停止に至った原子力発電の事故と、3重の災害が同時に起きたと言ってもいいと思う。
その地震そのものが、過去の例を越える想定外の規模であったわけで、千年に一度というスパンで起きたと言われている。
それで東北地方の太平洋岸では甚大な被害が出たことは周知の事実であるが、そういう意味では、これは天災だと言える。
ただし、東京電力の原子力発電所の事故対応は、大地震がきっかけになっているとはいうものの、明らかに人災であって、天災とは切り離して考えねばならない。
しかし、よくよく考えてみると、東北地方の太平洋岸というエリアは、地震も津波も過去に何度も体験している地域だと思う。
だからこそ万全の態勢を取っていた市町村もあるわけで、普通の常識的な知識があれば、防災に対しては万全であってしかるべきだと思う。
今回は、過去の事例にはない想定外の規模であったということはいえるが、そもそも我々の住む日本列島というのは地震列島なわけで、我々は日本という国土の何処に住んでも地震から安全ということはあり得ない。
地震が起きれは、その後に津波が押し寄せてくることも充分に考えられることで、そうであればこそ、我々は産まれ落ちた時から、その対策を考えてしかるべきだと思う。
私は27年前に自分の家を作ったが、家を作るについて真っ先に考えたことは、地震に対する対応であった。
耐震性もさることながら、家が乗る地盤についても心配でならず、そういうことを加味して家の素材から選択を熟考した。
日本人が、日本という国土で生活を営むのに、日本住宅が最適であることに異論はなかったが、「ならばそれは地震に対してはどうか」と考えた時、選択肢から外した。
日本でも木造の建築物が太古からあり続けているが、あれは木材の加工に充分な時間と余裕を持たせて乾燥させた素材を使っており、現代という時空間の中では、普通の人にそういう贅沢が許されるわけがない。
そういう経済的な余裕はあり得ず、どうしても廉価で、丈夫で、長持ちで、地震に強いとなるとコンクリート系のプレハブということに落ち付いた。
そして、地盤のことを思い浮かべて、基礎にパイルを打つことも考えたが、この地域では地盤がことのほか固くて、それをする必要はないと言われたので、その分は大いに助かった。
私の周りでも家を新築した人は多いが、そこまで考えている人はほとんどいないようだ。
だが、我々の住む国が地震列島であることを考えれば、家という超高価な買い物をする以上、そこまで心配しても罰は当たらないと思う。
これこそ自己防衛の第一歩だと思う。
その事は、当然、今回被害に遭われた東北地方の方々にも言えると思う。
自分の街を散歩してみても、川の堤防よりも低い所に家を建てている人もいるが、私には考えられないことである。
そんなところの家を建てておいて、大雨で堤防が崩れると、「行政の不備だから金寄こせ!」という論調で迫ることになるが、そういう場所にも建築許可を出したという意味では、行政の責任が問われても仕方がない。
津波の被害といっても、過去の経験から高台に移転していた集落は被害を免れているわけで、こういう自己防衛をどう評価すべきなのであろう。
同じ東北地方で、同じように太平洋に面した地域で、自己防衛で被害を免れた集落と、ただ単に「不便だから」というだけで、海の近くに居を構えて被害にあった集落をどういう風に評価すべきなのであろう。
自己防衛で被害に遭わなかったのだから、それだけで十分ではないか、という言い分はどうにも私個人としては納得出来ない。
大地震というのは天災にあって、他からの支援が全くないというのならば、皆平等に不幸な目にあったのだから運命として諦める他ないというのならば、それはそれで納得できる。
しかし、現実には自己防衛あるいは自分の智恵と才覚で災害を免れた人と、家や財産を全部失った人が混在していて、それが一様に被災者という括り方で支援を受けるとなると、どうにも腑に落ちない。
被災者のいる現場を見たこともないのでよく判らないが、義援金や支援物資というのは、被害の大小によって差別があるのかないのか果たしてどちらなのであろう。
東北地方の太平洋側に住む人で、海の見える範囲にいる人が、護岸堤防を信用して、海岸べりに住む、あるいは家を作ること自体、津波被害を全く想定しておらず、津波に合うという意識が全くないではないか。
津波の映像がテレビニュースで全国に放映されたので、それを見た人の大部分が、「被害にあった方々は可哀そうだ、気の毒だ」という感情に突き動かされたと思うが、そういう中で自己防衛をした人や、自分の智恵と才覚で被害を免れた人の努力は一瞥だにされていない。
私の老婆心は、そういう人にも支援金や、義援金は配分されるだろうかということである。
だがよくよく考えてみると、自己防衛や自分の才覚で被害を免れた人は、被害にあっていないのだから、被害者でもなければ被災者でもないわけで、義援金が一銭も来なくても文句は言えないのかもしれない。
この文章を綴るに当たって、インターネットで義援金のトータルを検索してみると、3491億円という数字が出ているが、これも正確なものではなく、トータルの正確な数字は判らないものらしい。
という事は、我々が「被災者が気の毒だ」と思って出した善意の金は、確実に被災者にわたっているとは限らないということだ。
誰かが何処かでネコババしている可能性も大いにありうるが、それを追求する術はないらしい。
しかし、善意の金が3491億円も集まったということは、それだけのカネが東北地方に落ちたという事ではなかろうか。
被災者が津波で流された家具を買ったり、テレビを買ったり、車を買ったりしたということであれば、それだけの経済効果が出てこなければならないと思う。
それは政府の交付金や、地方の補助金の類とは全く違っていて、全く善意の金なわけで、それが社会に還元されれば、何処かに流れ着くに違いないと思う。
この本のいう、純粋に科学的な論理は難しい部分もあるが、この本で一番良い部分は「あとがき」であって、「地震学者は地震の予知できない」と言う事をもっともっと国民にアピールしなければならないというのは、科学者の本音だと思う。
ただともすると、人は他者に不快な念を抱かせないように、「地震は予知できない」ということ正直に言えないので、結果として何となく希望を持たせるような言い方になってしまうから世間からの冷遇に合うのである。
地震学者が「地震の予知はできない」と正直に言えば、自分自身の存在感が疑われるわけで、「地震学者のくせに何をしているのだ」と言う論駁に至ってしまう。
この地震を体験したことによって、東北地方の護岸堤防はもっともっと強固にしなければならないということになるのであろうが、ならばどこまですれば安心か、ということになると答えはなかなか言えないのではなかろうか。
確率の問題として、千年に一度という安全率をどう捉えるかということになると思うが、あの東北地方に中国の万里の長城のような堤防が果たしてできるものだろうか。
ただこういう事は言えると思う。
我々、日本人というのは、物事を単一的に捉える民族で、堤防なら堤防、道路なら道路、ガス、電気、上下水道等社会的インフラも合わせて危機管理ならば危機管理と、一つ一つ単一の問題として考える傾向がある。
そうではなくて、複数の目的を合わせて一本のものに集約させる、という発想が下手だ。
千年に一度の地震に耐える堤防を作るのならば、それを高速道路としても使えるように、又電話、上下水道、光ケーブルなども全部組み込んだインフラ整備としても役立たせるような高機能なものとして作るという発想を醸成すべきだと思う。
一頃、スーパー堤防という事が言われていたが、政権交替した民主党の仕分け作業で廃棄されたように記憶している。
スーパー堤防よりももっと機能強化したものを考えるべきだと思う。
スーパー堤防は都市近郊の河川を念頭においた発想であるが、それを海岸の津波対策にも応用すべきだと思う。
今回の地震で、国民全般に地震対策という意味で、今住んでいる家の耐震対策の需要が増えたと思うが、そういうものは経済の下支えには成り切れないものだろうか。
住宅産業は充分に潤っているのではなかろうか。
聞くところによると復興バブルという現象が起きているやに聞く。
仮設住宅からタクシーでパチンコ屋に通う被災者がいると言われているが、これでは地震でなくとも日本は壊滅するに違いない。