ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『父・金正日と私、金正男独占告白』

2012-04-14 12:04:37 | Weblog
例によって近所の知人が自分の読んだ本を我が家に捨てて行った本の中から『父・金正日と私、金正男独占告白』という本を読んだ。
まだ新しい本で、今年の1月に発行されたばかりの本だ。
こういう本を自分の金で買って、読んだらすぐに捨てる贅沢を一度はして見たいと常々思っている。貧乏人はそういう贅沢が出来ないので、とぼとぼと地域の図書館でセーブ・マネーに努めねばならない。
ああ!!!情けない。
一度は自分の金で好きな本を欲しいだけ買い込んでみたい。
そういう愚痴はさておき、この本も前に述べたように、本来の表紙の上に更に別の表紙が被さっており、二重底というか過剰な包装というか、余分なことが成されている。
だが、その表紙の金正男の顔写真というのが余りにも品がなくて、警察が発行する指名手配の犯人の顔写真と同じである。
本人が見たらきっと出版差し止めするに違いない。
この本の中では金一族のことをロイヤル・ファミリーと称しているが、独裁者の一族という意味では確かにロイヤル・ファミリーであろうが、その実態はまさしく野生動物のファミリーに近い。
人類の歴史の中で我々人たるものが一夫一婦制を採用してきたということは、人間の持つ理性のなせるわざであって、人間が『考える葦』であるからには、それぞれの個々の人間が自分の頭脳で、自分たちの健やかな生存を考えた結果が一夫一婦制であったに違いない。
当然のこと、人間の理性にも人によって大きな振幅があるわけで、一夫一婦制に納得できず、尚本人の個性によっても一人の妻に納得出来ない人もいるわけで、いろいろな抜け道というか、言い逃れの便法も用意されていることは論をまたない。
しかし、人類の価値観としては一夫一婦制が普遍化したわけで、これがスタンダードな人間の道として認識されている。
しかし、金日成の一族は、そういう普遍化した人間の道を踏襲することなく、欲望の赴くままに子孫を増やしたので、母親もその子供達もまさしく野生動物の在り様と変わらない状態になってしまっているのである。
この状態は日本でも明治維新の前頃までは普通に見られた有り様で、そのこと自体を咎めるものではないが、近代の意識としては極めて時代錯誤しているわけで、この時代錯誤が統治の面にもそのまま現れている部分が問題なのである。
そもそも北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国という国の生い立ちそのものが、極めて不合理極まりないわけで、そこを最初に統治した金日成から金正日、金正恩にいたる世襲ということも、はなはだ不可解なことである。
この本の内容は、今の金正恩の腹違いの兄・金正男との情報のやり取りが主題になっているが、その中において、この兄が権力の世襲に対して否定的に見ていることが強調されている。
ところが、北朝鮮という国のすることは、普通の人の意表を突くことばかりで、我々の普遍的な認識が全く通用しないところが不可解千万である。
彼、北朝鮮という国は、自分達が国際社会で孤立している、しかも軍事的にも経済的に全く弱い立場だ、ということを武器にしている。
弱い者が強い者を恫喝しているわけで、こういう論理は普通の常識的な世界ではあり得ないが、それが現に存在することが北朝鮮という国である。
そのことは国家が国家の体をなしていないということだと思う。
普通の国家ならば、為政者は自分の国の国民、住民、市民に対して責任を負って、そういう人達が幸せに暮らせるように様々な方策を講じて、そういう人達のために便宜を計るのが普通の主権国家というものである。
為政者がそうであるからこそ、その国の国民は、為政者に対して納税や兵役の義務を負うのである。為政者の行う国政の第一の目的は、自らの国民の福祉に貢献することであって、自分の国の国民に豊かな生活を補償することである。
ところが中国や北朝鮮の為政者は、国民の福祉という概念が全く念頭にないようで、自分が国家権力の椅子に座り続ける事と勘違いしている節がある。
昔、東西冷戦華やかりし頃、中国の毛沢東はアメリカの核攻撃に対して、「そんなモノは全く怖くない」と言い放ったことがある。
中国は「13億の人口を抱えているので、1億や2億死んだとしても、残ったもので起死回生が図れるので、アメリカの核攻撃など少しもこわくない」と言ったとされている。
今の北朝鮮が6カ国協議に立ち向かう姿も、この構図と瓜二つで、北朝鮮の為政者にとって、自分の国の国民、住民、市民のことなど眼中になく、ただただアメリカと対等の立場でモノを言う事だけが、彼らの存在価値であるかのような対応である。
こういう為政者の姿は、アジアの地に連綿と生き続けているであろう野武士、山賊、夜盗、強盗、馬賊、軍閥の類でしかないということだ。
これは日本でも江戸時代前の戦国時代はこれとほぼ似たり寄ったりの世界であったわけで、織田信長も徳川家康も、ほぼこれに似た部族集団であったと見做していいが、言い方を変えれば、近代化以前の人間集団だということに他ならない。
近代化以前の人間集団であるが故に、為政者は、自分の隷下の人間を、国民だとか市民という認識ではなく、奴隷かぐらいにしか考えていないのであろう。
だからアメリカが「食糧援助を断ち切る」と言ったところで、国家の上層を成している人々は何の痛痒も感じず、困るのは下々の人間だということに考えが及ばないので平気でおれるのである。
今回、平成24年4月13日、北朝鮮はロケットの打ち上げに失敗したが、それに先立ってその打ち上げの施設を世界のメデイアに向けて公開した。
ところが、それほど大見えを切ったにも関わらず失敗だったということは、完全にもの笑いの対象になったが、そういう感覚が彼らにはないのであろうか。
人間の集団が近代化すると言うことは、大勢の人の意見を聞いて、その中の最良と思われることを採択して、前に進むということであって、たった一人に独裁者が自分の意向でことを動かすことではない。
北朝鮮が、ロケット打ち上げのコントロール・センターを世界のメデイアの公開したということは、彼らにとって真のロケット打ち上げの本質が判っていなかったのではないかと思える。
日本の場合でも、ロケットの打ち上げは国防という意味からでなくとも、技術的な秘密部分もあろうかと思うので、全面公開というわけではないと思うが、テレビの報道で見る限り、北朝鮮のロケット打ち上げのコントロール・センターの在り様は芝居のセットのようにしか見えなかった。
私のような素人であればこそ、あれでロケットが打ち上げられるのか、甚だ不思議に思えたものだ。このあたりのセンスが、普通の常識人の意表を突くものであって、実に摩訶不思議な部分である。何でもかんでも秘密にしながら、大事なことを公開したと思ったら、まるで芝居じみた振る舞いで、こちらが度胆を抜かれた思いだ。
小泉総理の時に行われた日本人拉致の問題でも、最初七人は何の問題もなく返したが、その後横田めぐみさんの件になると、偽の骨まで出してきて問題を混乱させてしまったが、あれは一体何であったのだろう。
急所を突かれると場当たり的にその場を取り繕うという感じで、見え見えの嘘を平気でつくという神経は、我々には理解し難い面がある。
こういう彼らの態度は、我々の感覚からすれば、全く誠意のない行為に映るわけで、我々の倫理感では決して許される事ではないが、彼らにはそういう認識が欠けている風に見える。
この倫理観の相異というのは、地球上の人間集団にはそれぞれに固有のものがある。
人間の集団には、その集団が置かれた地勢的な条件によって、それぞれ固有の思考回路が出来上がっていると思う。
我々、日本人の倫理感では、誠実こそ至上の価値観であるが、朝鮮民族にとっては誠実さよりも、その場その場を如才なく泳ぎ回る知恵こそ至上の価値を示しているのかもしれない。
他者に対して奉仕や貢献することに価値を示すのが我々の倫理観で最も高い価値を示しているが、アジアの諸民族の間では、自己保存のみに価値を示す例が多く、自己犠牲など最も卑しむべき行為と見做している民族もいる。
北朝鮮の金一族も野武士の集団ではないので、周りに有能なスタッフを揃えて物事の判断をしているとは思うが、そのスタッフがボスの顔色ばかりを伺って、ボスの喜ぶことばかりを提言していたとしたら、全体が崩壊しかねないことは当然のことである。
先日、韓国を観光旅行してみたが、韓国の近代化は目を見張るものがある。
こういうことを言うと韓国人は怒り心頭に来る想いに立つかもしれないが、韓国の近代化には、彼らのいう「日帝36年の七奪」という命題が大きくのしかかっていると思う。
これの別の言い方をすれば、朝鮮は日本に支配されたからこそ、近代化に目覚めれたという事だ。
朝鮮民族は朝鮮民族の自らの内なるエネルギーでは自己改革、近代化という意識改革を成し得ず、従来からの老醜の呪縛から脱し切れずに、中国の属国のままでしか生きれなかったに違いない。
「日帝36年の支配」があって始めて朝鮮民族は近代的な法の存在を知り、税のシステムを学び、社会的インフラ整備ということを習得し、学校制度を確立して進取の気風を醸成し、意識改革に成功し得たのである。
それが今の韓国の経済発展の礎になっているが、それを言うと、彼らの自尊心の估券に関わるので、口には出せないのだろうが、こういう部分が余りにも利己的に我々には見える。
自分にとって不利な部分、自分にとって恥の部分、自分にとって弱い所を曝すことは自尊心が許さないわけで、それをカモフラージュするために、故意に虚勢を張るという部分が彼らにはあるように見える。
北朝鮮も日本が敗戦を迎えるまでは日本が支配していたわけで、日本はこの地域に莫大な社会資本の投下を行った。
その事を今では日本の悪行であるかのような言い方でいわれているが、その社会的インフラ整備をことごとく無にしたのは、彼ら自身の彼らのための戦争であって、日本が折角作り上げた近代工業の礎をことごとく無に帰したのは彼ら自身の選択であった。
私としては、北朝鮮のことを特に注視して見ているわけではないが、日本のメデイアの報ずるところから察する限り、北朝鮮においては国家としての組織そのものが充分に機能していないように見受けられる。
そういう状況であるからこそ、この本の著者・五味洋治という東京新聞の記者は、そのロイヤル・ファミリーの一員である所の金正男に近づき、コンタクトを取ったのであろう。
金正日という為政者の長男として、自分の子供を海外で教育するということは、帝王学としては有りうることであろうが、そうであればこそ、そういう教育を受けたならば祖国に戻って、国政にその留学で得た広範な知識を反映させてしかるべきである。
ところが彼の場合、そういうことは見受けられないわけで、あくまでも放蕩息子の域を出るものではなく、ただただ金日成一家の末裔というに過ぎない。
この本の著者である五味洋治も、彼が金日成一家の末裔と言うだけで、ジャーナリストとしての触角が動いたのであろうが、いくら彼とインタビューした所で、それは芸能人のインタビューと同じ次元でしかない。
ただその対象が北朝鮮の為政者の放蕩息子だから、取材対象としては多少値打ちが高い、という程度のものでしかない。
そもそもこの本の表紙の顔写真からして戴けない代物ではないか。
この写真は著者・五味洋治自身が撮影したものと記されているが、そうであるとするならば、彼自身の審美眼、あるいは美的センスというものが疑われる。
この本の表紙の写真はそれこそ指名手配の顔写真であるが、裏表紙には家族一員の記念撮影的な小さな写真が記載されている。
だが、こちらの方がよほど頬えましいものである。
著者が本人に直接会って写真を撮らせてもらったというからには、たった1枚ということは考えられないので、他にも良いものがあったに違いないと思うが、敢えてこの写真を選択したということは、そこにこの著者のセンスが映っていると言う事である。