例によって知人の一人が自分の読んだ本を捨てるために送りつけてきたもので、「日本辺境論」という本を読んだ。
出版社は新潮新書。著者は内田樹という人だ。
読み始めてみると最初は哲学的な言辞が多く、少々うんざり気味であったが、読み進めて行くうちにだんだん面白くなってきた。
彼の論旨は、日本は中国・漢民族の華夷秩序の一番外側に存在する辺境であり続けたことによって、日本民族たるものを営々と存続し得たということだ。
華夷秩序の一番外側のリングに在ったので、中心の漢民族の影響を受けることも少なく、我々の生き方に対して漢民族に対する伺いも建てる必要が無く、自存自衛を貫き通せたという論旨である。日本民族の置かれた地勢的な条件を勘案すれば、こういう論旨になるのは必然であろうが、問題は漢民族の影響の云々よりも、我々の選択としての生き方が大問題なわけで、その事にこの本の大方の論旨は傾注している。
つまり、究極の日本人論になり替わってしまっており、我々の民族ほど自分の民族のアイデンテイテーにこだわる民族も少ないのではなかろうか、と私自身は考えている。
それは筑波山麓のガマと同じで、ガマが自分の姿を鏡で見て、余りの醜さに冷汗をタラタラ流す図と同じである。
この地球上に存する民族で、今日的な倫理観で以て清廉潔白な民族はあり得ないであろうが、我々はそういうものに価値を見出そうとしている。
この著者も述べているが、戦後の我が国の在り方において、憲法第9条と自衛隊の存在というのは普通の認識でいえば大矛盾そのものである。
その前に、先の大戦・大東亜戦争において、我々の同胞は誰一人あの戦争を主導した人がいないにもかかわらず、我々同胞はあの戦争に嵌り込んで行った。
今の時点、戦後66年を経た時点で、我々が戦火を交えねばならなくなった経緯は公開されているので歴史を詳しく検証すれば、明らかに我々は騙され、嵌められ、欺かれ、大量殺戮を受けたことは明らかである。
1941年、昭和16年、11月26日に、アメリカ側から突き付けられたハル・ノートを見れば、「モナコのような小国でも立ちあがったであろう」と言われているが、それでも我々日本人の中で誰一人「直ちにアメリカに参戦せよ」と声に出して戦争を主導した人はいない。
ここに至るまで昭和天皇を含めた御前会議が5回も開かれたが、その中でも誰一人として開戦を主張し、主導した人はいないし、昭和天皇自身も、避戦のみを考えていたようだが、それでも、にも拘らず、戦争に突入していった。
これは一体どういう事なのであろう。
今、この場面を頭の中で思い描いて、空想を縦横無尽に働かせて考えてみると、この意思決定の欠如、誰もリーダーシップを発揮しないのに、ことがどんどん進むという在り方は、日本民族の大いなる特異性なのではなかろうか。
この本の著者も当然そのことに気が付いて、それを『気』という言葉で表現しているが、これはある意味で気使い、心配り、KY(空気が読めない)という言い方で、我々、日本民族の本質を成す精神構造を作り上げている部分かもしれない。
誰も時の声を発しないのに戦争に嵌り込んで行く、戦争放棄と自衛隊が同時に存在する、これらは普通の常識で考えれば大矛盾であって、論理的に成り立たない事象である。
その大矛盾が、我々、日本民族の中では厳然と存在し続けているわけで、これは世界的にも極めて奇異なことに違いない。
この地球上には極めて広大なユーラシア大陸があって、その片隅の方にアジアという地域があり、そのアジアから海を隔てた絶海の孤島に、日本民族という人たちが生息していた。
絶海の孤島といえども島伝いに人は流れ着くので、日本民族が居ついたのであるが、それと同じ原理で、他の民族も流れ着いたに違いない。
だから日本民族というのは、純粋培養に極めて近いが完全に純粋というわけではなく、適者生存の原理は自然に機能していたに違いない。
それは文化にも同じことが言えるわけで、古代における文化的な上流はあくまでもシナ大陸にあって、漢民族がそれを主導していたことは間違いないが、アジアに住み、シナ大陸を自分のものとしていた漢民族は、文化的には自分達が一番の先進国であることを極めて明確に認識していた。
それだからこそ華夷秩序ができ、それに安住していたのである。
だからシナ大陸の漢民族が文化の同心円の中心にあり、大陸から離れて、海の中の日本は辺境だと言う事であるが、辺境であるからこそ、シナ文明の全てを猿真似することなく、取捨選択する自主性を持っていたと言う事が成り立つ。
ここでこの本が問うていることは、この自主性の本質が論理的に大矛盾を内包していて、論理的な整合性が全く合わないにもかかわらず、我々はそれを受忍している不思議さである。
誰も「アメリカと戦争せよ」と言わないまま開戦になる。
戦争放棄と自衛隊が同時に存在する。
占領から解放されて自主独立するという時に、日本の知性と理性を代弁すべき大学の先生方が、「我々は独立する必要はない、占領下の奴隷のママの方が良い」という馬鹿なこと言う知的エリートの存在。
こういう大矛盾を抱えながら、漂い続ける我々、日本国、日本民族の在り方というのは、実に不可思議な存在と言えるのではなかろうか。
こういう大矛盾は、私のような無学なものにとっては、矛盾が矛盾のままでもいた仕方ないが、我々の国にも知的エリートは掃いて捨てるほどいるわけで、そういうエリートが大矛盾を矛盾のままにしていては知識、知能、知性、理性が死蔵されたままということになるのではなかろうか。
日本の敗戦という事は、旧日本軍の軍人と軍部の責任であるが、日本が占領を解かれて自主独立をするという時に、「我々は独立する必要はない、占領下の奴隷のママの方が良い」という、陳腐で馬鹿なこと言う大学救助たちの存在をどう考えたらいいのであろう。
こういう大学救助から教えを受けた若人が、祖国のリーダーとなって、祖国の復興に貢献するわけがないではないか。
こういう大学教授の言辞は、コミニズムにコミットして発言であることは言うまでもないが、そういう意味では、戦争を知らない軍人が、意味のない作戦で貴重な将兵を浪費し、結果として敗戦を招いた構図と全く同じなわけで、知性も理性も欠いた大学教授が、戦後の日本を第2第3の敗戦に至らしめた構図だと思う。
我々の数ある日本論の中で、ガマが自分の姿に冷汗をかくように、自分の醜い姿を徹底的に検証する勇気を持たねばならない。
軍隊の中の軍人、大学の中の大学教授も、組織の中の人間という意味では全く同じなわけで、個人が組織に埋没してしまうと、どうしてごく普通の常識が機能しなくなってしまうのであろう。
軍隊の組織で言えば、彼らは特別の専門学校で特別の職業教育を受けて来ているわけで、陸軍でも海軍でも、トップは全て自分の出身校の同窓生であって、俺お前先輩後輩というつながりの中でもの事が決まっている。
当然、以心伝心、口に出さなくても判り合えるわけで、いくら会議を開いたとしても、口角唾を飛ばして議論することもなく、阿吽の呼吸でことが決まってしまう。
これを文字で表現すると『気』を読む、場の雰囲気、その時の空気という表現になる。
その事は、同時に責任の所在も極めて不明確なわけで、「戦争をやれ!」と声を出して言った人がいないのだから、責任の所在が不明確になるのも当然である。
その点、大学という組織の中では、軍の組織よりも男気とか、決断力とか、担力とか、指導力という価値基準が重要視されていない分、女々しい雰囲気が漂っていて、イジメの構図が幅を利かせているように思えてならない。
いずれにしても、我々は論理的にものを考える事が出来ない民族なのであろうか。
我々は漢民族を文化の同心円の中心に据えるシナ文化の辺境に位置していたからこそ、自らの自主性に頼って、漢文化を取捨選択して、良いものは導入したがそうでないものは導入しなかった。
その導入しなかった代表的な事柄が宦官と科挙の制度だと言われているが、こういう状況で自主性を発揮するという事は、極めて先鋭的なことだと思う。
古代の日本人は、シナの文化を取捨選択しながら、我々にとって有益だと思うものだけを導入したが、昭和時代の日本人、特に高等教育を受けた大学教授というクラスの知識人は、マルクス主義を鵜飲みにするだけで、取捨選択を忖度したようには思えないのは一体どういうわけなのであろう。知識人ともあろうものが、外来思想を頭から鵜呑みにする愚は、旧日本軍の高級将校が戦争を知らなかった愚と同じではないか。
祖国の独立に反対した国立大学の教授連中の存在は、戦争を敗北に導いた高級参謀、高級軍人と同じ罪深き人々だと思う。
ここで私は人間の知能に対する疑問がふつふつと沸いてくる。
我々レベルの凡人は、大学というところは、広範な知識を馬鹿な学生に高い金を取って伝授する場だと思っている。
この世の中に数多ある仕事の中には、必ずしも高等教育を受けてからでなければなり得ない仕事というのは、そう沢山あるわけではない。
お医者さんや、弁護士や、軍人というのは、特殊な教育を受けなければ成り立たない職業であるが、大半の仕事はOJTで十分こなせるものだと思う。
ところが、世の中の大部分の人は、そういうことを考えもせず大学に進む。
そもそも大学という教育機関は、就職予備校ではないわけで、広範な知識を金を取って授ける場であるので、そこを出たからといって就職に有利ということにはつながらない筈のものである。
そこが勘違いされて、大学に行けば就職が有利だ、と本人も世間も想い違いしている。
問題は、この部分であって、世間が勘違いしていることを誰一人「それは間違っているよ」と言わないところである。
それを言うべき人は、本来、学識経験豊富な知識階層としての知識人でなければならない。
この狭い日本で、本当に学問を追求する大学の必要数は、旧制帝國大学と2,3の有名私立大学だけで十分だと思う。後は高等幼稚園に過ぎない。
こういう部分でこそ、民主党政権は仕分けをすべきであって、全入などということは論外である。
ところが大学が産業と化してしまって、大学教授はその産業の中で働く労働者になり下がっているので、自分たちが知的エリートだという矜持を持っていない。
この21世紀において、本当に知的好奇心を満たそうとすれば、大学等に行かなくても他にいくらでも手段はあるが、にも拘らず大学に行くという事は、そこの卒業証書が欲しいだけなのである。本人はもとより、世間も企業も、それを一つの価値基準としているので、真の高等教育が死滅してしまっている。
更に問題なことは、高等教育でも人間の持って生まれた品性やモラルの向上には何の役にも立たないという現実である。
この地球上には5大陸があって、その大陸にはそれぞれ現住民と称する人々がいて、人々はそれぞれに集団を作って生きていたに違いない。
如何なる民族でも集団を作るとなれば当然それは社会を形成するわけで、古代においてはそれぞれが干渉することもなく平和に暮らしていた。
ところが歴史を重ね、文化が発達して来ると格差が生じ、それぞれの集団の間に強弱や優劣が付くようになると、優勝劣敗の自然界の摂理に委ねられて、支配、被支配という統治の構図ができあがって、血で血を洗う抗争に発展してしまう。
だから人が殺し合う現象というのは、極めて自然の摂理だと考えるべきで、地球上に現存する生物の中で、同類同士で殺し合う種というのは人間のみではなかろうか。
トラやライオン、ヒョウやピューマは、肉食動物と言われているが、トラがトラ同士で食い合うであろうか、ライオンがライオン同士で食い合うであろうか。
メスを得んが為に喧嘩はするであろうが、生殖、繁殖のための喧嘩が殺し合いにまで発展するであろうか。
こう考えると、同類同士で殺し合う種は人間以外にあり得ないように思えるが、言葉としては『共食い』という言葉があるので、同種同士で食い合う生き物もいるには違いない。
人類はこれからも殺し合って行くだろうと思う。
今、地球上の人間の数は70億と言われている。
ライオンが70億匹もいるであろうか。野生のトラが70億もいるいであろうか。
地球上の動物の中で、人間の数だけが突出しているわけで、「目下、自然環境が壊滅的に壊れているので、それを阻止しなければ人間の生存そのものが危機に曝される」といわれているが、この人間の数の級数的な増加をどう考えたらいいのであろう。
この世の知性ある人々は、人間の死を忌み嫌って、人が死なないように死なないように知恵を出し合っているが、この人間の数の増加をどう考えているのであろう。
人間がこの地球上で生き続ける事そのものが大矛盾を呈しているわけで、70億もの人間を生かそうと思えば、自然を壊して農業用に土地を機械で耕し、収穫を多くするために有害な農薬を使わねばならず、流通機関を発展させて末端まで食糧を運ばねばならず、70億の人間を生かすことそのものが地球の環境破壊そのものではないか。
人間の生存そのものが地球を破滅に導いているわけで、人間の知性はこれにどう対応しようとしているのだろう。
だから過去の人間の価値観を、この21世紀以降では全否定しなければ、地球そのもの、人類そのものが存在し切れないことになると思う。
人間の数は、その内に地球のキャパシテイ―を超えることになるのではなかろうか。
その時は、丁度、地球の資源も枯渇する時期と合致するわけで、このことを世界の知識人はどう考えているのであろう。
人が自分の死を忌み嫌う事は世界共通で、誰でもが長生き願望を持っている。
ところが、それは人類がこの地球上に誕生して以来の普遍的な価値観であって、そういう古典的な価値観からはもうそろそろ脱却すべき時期に来ているように思う。
人は、自分の生を自ら閉じる権利を容認すべき時がきていると思う。
私個人としては、自分の両親の死を見つめていて、安楽死の必要性をつくづく思ったものだ。
私の祖母は、孫の私が訪ねて行くと「死にたい!死にたい?」といつも言っていたが、これは本音だと思う。
父の死を看取った時は、老醜とまではいかないにしても、他人に下の世話まで依存しつつ生きる事の非情さを身を以て味わったので、私自身は人様に下の世話までさせて生きたいとは毛頭考えていない。
人間は『考える葦』と言った人がいるが、人間が『考える』と言う事をするから、『葦』ではなくなってしまうわけで、考えるから自然の摂理に素直に従うことを拒むようになるのである。
人間が自然の摂理のままに、自然の在るがままに靡いておれば、その数が70億にもならずに、地球の環境破壊も招かず生きてこれたものが、色々なことを考えて、それを実践したものだから、科学が発達して地球環境が汚染されたのである。
日本がアメリカとの戦争に敗北した頃、今から丁度66年ほど前の日本人の平均寿命は、極めて大雑把に言って男50歳、女54歳であって、人々がこの年齢で世を去って行けば、今の年金の問題も介護の問題も現実にはあり得ないということである。
昔は50歳前後で死んでいったものが今は80歳近くまで生きることになったので、普通の常識的な評価としては「極めて有難いこと」となっているが、これが果たして本当に良いことであろうか。
「長生きは良い事だ」という価値観は、人類誕生以来の普遍的な価値観であって、人間の感情としては極めて自然の在り様であるが、これから先も人間の数が級数的な勢いで増加するとなると、手放しで喜んでおれるだろうか。
「人間の命は何ものにも代えがたい」という価値観は、これから先も今まで通りの価値足りえるであろうか。
今、70億という人間がいて、これから先も無尽蔵に人間の数を包容するだけのキャパシテイ―をこの地球は持っているのであろうか。
出版社は新潮新書。著者は内田樹という人だ。
読み始めてみると最初は哲学的な言辞が多く、少々うんざり気味であったが、読み進めて行くうちにだんだん面白くなってきた。
彼の論旨は、日本は中国・漢民族の華夷秩序の一番外側に存在する辺境であり続けたことによって、日本民族たるものを営々と存続し得たということだ。
華夷秩序の一番外側のリングに在ったので、中心の漢民族の影響を受けることも少なく、我々の生き方に対して漢民族に対する伺いも建てる必要が無く、自存自衛を貫き通せたという論旨である。日本民族の置かれた地勢的な条件を勘案すれば、こういう論旨になるのは必然であろうが、問題は漢民族の影響の云々よりも、我々の選択としての生き方が大問題なわけで、その事にこの本の大方の論旨は傾注している。
つまり、究極の日本人論になり替わってしまっており、我々の民族ほど自分の民族のアイデンテイテーにこだわる民族も少ないのではなかろうか、と私自身は考えている。
それは筑波山麓のガマと同じで、ガマが自分の姿を鏡で見て、余りの醜さに冷汗をタラタラ流す図と同じである。
この地球上に存する民族で、今日的な倫理観で以て清廉潔白な民族はあり得ないであろうが、我々はそういうものに価値を見出そうとしている。
この著者も述べているが、戦後の我が国の在り方において、憲法第9条と自衛隊の存在というのは普通の認識でいえば大矛盾そのものである。
その前に、先の大戦・大東亜戦争において、我々の同胞は誰一人あの戦争を主導した人がいないにもかかわらず、我々同胞はあの戦争に嵌り込んで行った。
今の時点、戦後66年を経た時点で、我々が戦火を交えねばならなくなった経緯は公開されているので歴史を詳しく検証すれば、明らかに我々は騙され、嵌められ、欺かれ、大量殺戮を受けたことは明らかである。
1941年、昭和16年、11月26日に、アメリカ側から突き付けられたハル・ノートを見れば、「モナコのような小国でも立ちあがったであろう」と言われているが、それでも我々日本人の中で誰一人「直ちにアメリカに参戦せよ」と声に出して戦争を主導した人はいない。
ここに至るまで昭和天皇を含めた御前会議が5回も開かれたが、その中でも誰一人として開戦を主張し、主導した人はいないし、昭和天皇自身も、避戦のみを考えていたようだが、それでも、にも拘らず、戦争に突入していった。
これは一体どういう事なのであろう。
今、この場面を頭の中で思い描いて、空想を縦横無尽に働かせて考えてみると、この意思決定の欠如、誰もリーダーシップを発揮しないのに、ことがどんどん進むという在り方は、日本民族の大いなる特異性なのではなかろうか。
この本の著者も当然そのことに気が付いて、それを『気』という言葉で表現しているが、これはある意味で気使い、心配り、KY(空気が読めない)という言い方で、我々、日本民族の本質を成す精神構造を作り上げている部分かもしれない。
誰も時の声を発しないのに戦争に嵌り込んで行く、戦争放棄と自衛隊が同時に存在する、これらは普通の常識で考えれば大矛盾であって、論理的に成り立たない事象である。
その大矛盾が、我々、日本民族の中では厳然と存在し続けているわけで、これは世界的にも極めて奇異なことに違いない。
この地球上には極めて広大なユーラシア大陸があって、その片隅の方にアジアという地域があり、そのアジアから海を隔てた絶海の孤島に、日本民族という人たちが生息していた。
絶海の孤島といえども島伝いに人は流れ着くので、日本民族が居ついたのであるが、それと同じ原理で、他の民族も流れ着いたに違いない。
だから日本民族というのは、純粋培養に極めて近いが完全に純粋というわけではなく、適者生存の原理は自然に機能していたに違いない。
それは文化にも同じことが言えるわけで、古代における文化的な上流はあくまでもシナ大陸にあって、漢民族がそれを主導していたことは間違いないが、アジアに住み、シナ大陸を自分のものとしていた漢民族は、文化的には自分達が一番の先進国であることを極めて明確に認識していた。
それだからこそ華夷秩序ができ、それに安住していたのである。
だからシナ大陸の漢民族が文化の同心円の中心にあり、大陸から離れて、海の中の日本は辺境だと言う事であるが、辺境であるからこそ、シナ文明の全てを猿真似することなく、取捨選択する自主性を持っていたと言う事が成り立つ。
ここでこの本が問うていることは、この自主性の本質が論理的に大矛盾を内包していて、論理的な整合性が全く合わないにもかかわらず、我々はそれを受忍している不思議さである。
誰も「アメリカと戦争せよ」と言わないまま開戦になる。
戦争放棄と自衛隊が同時に存在する。
占領から解放されて自主独立するという時に、日本の知性と理性を代弁すべき大学の先生方が、「我々は独立する必要はない、占領下の奴隷のママの方が良い」という馬鹿なこと言う知的エリートの存在。
こういう大矛盾を抱えながら、漂い続ける我々、日本国、日本民族の在り方というのは、実に不可思議な存在と言えるのではなかろうか。
こういう大矛盾は、私のような無学なものにとっては、矛盾が矛盾のままでもいた仕方ないが、我々の国にも知的エリートは掃いて捨てるほどいるわけで、そういうエリートが大矛盾を矛盾のままにしていては知識、知能、知性、理性が死蔵されたままということになるのではなかろうか。
日本の敗戦という事は、旧日本軍の軍人と軍部の責任であるが、日本が占領を解かれて自主独立をするという時に、「我々は独立する必要はない、占領下の奴隷のママの方が良い」という、陳腐で馬鹿なこと言う大学救助たちの存在をどう考えたらいいのであろう。
こういう大学救助から教えを受けた若人が、祖国のリーダーとなって、祖国の復興に貢献するわけがないではないか。
こういう大学教授の言辞は、コミニズムにコミットして発言であることは言うまでもないが、そういう意味では、戦争を知らない軍人が、意味のない作戦で貴重な将兵を浪費し、結果として敗戦を招いた構図と全く同じなわけで、知性も理性も欠いた大学教授が、戦後の日本を第2第3の敗戦に至らしめた構図だと思う。
我々の数ある日本論の中で、ガマが自分の姿に冷汗をかくように、自分の醜い姿を徹底的に検証する勇気を持たねばならない。
軍隊の中の軍人、大学の中の大学教授も、組織の中の人間という意味では全く同じなわけで、個人が組織に埋没してしまうと、どうしてごく普通の常識が機能しなくなってしまうのであろう。
軍隊の組織で言えば、彼らは特別の専門学校で特別の職業教育を受けて来ているわけで、陸軍でも海軍でも、トップは全て自分の出身校の同窓生であって、俺お前先輩後輩というつながりの中でもの事が決まっている。
当然、以心伝心、口に出さなくても判り合えるわけで、いくら会議を開いたとしても、口角唾を飛ばして議論することもなく、阿吽の呼吸でことが決まってしまう。
これを文字で表現すると『気』を読む、場の雰囲気、その時の空気という表現になる。
その事は、同時に責任の所在も極めて不明確なわけで、「戦争をやれ!」と声を出して言った人がいないのだから、責任の所在が不明確になるのも当然である。
その点、大学という組織の中では、軍の組織よりも男気とか、決断力とか、担力とか、指導力という価値基準が重要視されていない分、女々しい雰囲気が漂っていて、イジメの構図が幅を利かせているように思えてならない。
いずれにしても、我々は論理的にものを考える事が出来ない民族なのであろうか。
我々は漢民族を文化の同心円の中心に据えるシナ文化の辺境に位置していたからこそ、自らの自主性に頼って、漢文化を取捨選択して、良いものは導入したがそうでないものは導入しなかった。
その導入しなかった代表的な事柄が宦官と科挙の制度だと言われているが、こういう状況で自主性を発揮するという事は、極めて先鋭的なことだと思う。
古代の日本人は、シナの文化を取捨選択しながら、我々にとって有益だと思うものだけを導入したが、昭和時代の日本人、特に高等教育を受けた大学教授というクラスの知識人は、マルクス主義を鵜飲みにするだけで、取捨選択を忖度したようには思えないのは一体どういうわけなのであろう。知識人ともあろうものが、外来思想を頭から鵜呑みにする愚は、旧日本軍の高級将校が戦争を知らなかった愚と同じではないか。
祖国の独立に反対した国立大学の教授連中の存在は、戦争を敗北に導いた高級参謀、高級軍人と同じ罪深き人々だと思う。
ここで私は人間の知能に対する疑問がふつふつと沸いてくる。
我々レベルの凡人は、大学というところは、広範な知識を馬鹿な学生に高い金を取って伝授する場だと思っている。
この世の中に数多ある仕事の中には、必ずしも高等教育を受けてからでなければなり得ない仕事というのは、そう沢山あるわけではない。
お医者さんや、弁護士や、軍人というのは、特殊な教育を受けなければ成り立たない職業であるが、大半の仕事はOJTで十分こなせるものだと思う。
ところが、世の中の大部分の人は、そういうことを考えもせず大学に進む。
そもそも大学という教育機関は、就職予備校ではないわけで、広範な知識を金を取って授ける場であるので、そこを出たからといって就職に有利ということにはつながらない筈のものである。
そこが勘違いされて、大学に行けば就職が有利だ、と本人も世間も想い違いしている。
問題は、この部分であって、世間が勘違いしていることを誰一人「それは間違っているよ」と言わないところである。
それを言うべき人は、本来、学識経験豊富な知識階層としての知識人でなければならない。
この狭い日本で、本当に学問を追求する大学の必要数は、旧制帝國大学と2,3の有名私立大学だけで十分だと思う。後は高等幼稚園に過ぎない。
こういう部分でこそ、民主党政権は仕分けをすべきであって、全入などということは論外である。
ところが大学が産業と化してしまって、大学教授はその産業の中で働く労働者になり下がっているので、自分たちが知的エリートだという矜持を持っていない。
この21世紀において、本当に知的好奇心を満たそうとすれば、大学等に行かなくても他にいくらでも手段はあるが、にも拘らず大学に行くという事は、そこの卒業証書が欲しいだけなのである。本人はもとより、世間も企業も、それを一つの価値基準としているので、真の高等教育が死滅してしまっている。
更に問題なことは、高等教育でも人間の持って生まれた品性やモラルの向上には何の役にも立たないという現実である。
この地球上には5大陸があって、その大陸にはそれぞれ現住民と称する人々がいて、人々はそれぞれに集団を作って生きていたに違いない。
如何なる民族でも集団を作るとなれば当然それは社会を形成するわけで、古代においてはそれぞれが干渉することもなく平和に暮らしていた。
ところが歴史を重ね、文化が発達して来ると格差が生じ、それぞれの集団の間に強弱や優劣が付くようになると、優勝劣敗の自然界の摂理に委ねられて、支配、被支配という統治の構図ができあがって、血で血を洗う抗争に発展してしまう。
だから人が殺し合う現象というのは、極めて自然の摂理だと考えるべきで、地球上に現存する生物の中で、同類同士で殺し合う種というのは人間のみではなかろうか。
トラやライオン、ヒョウやピューマは、肉食動物と言われているが、トラがトラ同士で食い合うであろうか、ライオンがライオン同士で食い合うであろうか。
メスを得んが為に喧嘩はするであろうが、生殖、繁殖のための喧嘩が殺し合いにまで発展するであろうか。
こう考えると、同類同士で殺し合う種は人間以外にあり得ないように思えるが、言葉としては『共食い』という言葉があるので、同種同士で食い合う生き物もいるには違いない。
人類はこれからも殺し合って行くだろうと思う。
今、地球上の人間の数は70億と言われている。
ライオンが70億匹もいるであろうか。野生のトラが70億もいるいであろうか。
地球上の動物の中で、人間の数だけが突出しているわけで、「目下、自然環境が壊滅的に壊れているので、それを阻止しなければ人間の生存そのものが危機に曝される」といわれているが、この人間の数の級数的な増加をどう考えたらいいのであろう。
この世の知性ある人々は、人間の死を忌み嫌って、人が死なないように死なないように知恵を出し合っているが、この人間の数の増加をどう考えているのであろう。
人間がこの地球上で生き続ける事そのものが大矛盾を呈しているわけで、70億もの人間を生かそうと思えば、自然を壊して農業用に土地を機械で耕し、収穫を多くするために有害な農薬を使わねばならず、流通機関を発展させて末端まで食糧を運ばねばならず、70億の人間を生かすことそのものが地球の環境破壊そのものではないか。
人間の生存そのものが地球を破滅に導いているわけで、人間の知性はこれにどう対応しようとしているのだろう。
だから過去の人間の価値観を、この21世紀以降では全否定しなければ、地球そのもの、人類そのものが存在し切れないことになると思う。
人間の数は、その内に地球のキャパシテイ―を超えることになるのではなかろうか。
その時は、丁度、地球の資源も枯渇する時期と合致するわけで、このことを世界の知識人はどう考えているのであろう。
人が自分の死を忌み嫌う事は世界共通で、誰でもが長生き願望を持っている。
ところが、それは人類がこの地球上に誕生して以来の普遍的な価値観であって、そういう古典的な価値観からはもうそろそろ脱却すべき時期に来ているように思う。
人は、自分の生を自ら閉じる権利を容認すべき時がきていると思う。
私個人としては、自分の両親の死を見つめていて、安楽死の必要性をつくづく思ったものだ。
私の祖母は、孫の私が訪ねて行くと「死にたい!死にたい?」といつも言っていたが、これは本音だと思う。
父の死を看取った時は、老醜とまではいかないにしても、他人に下の世話まで依存しつつ生きる事の非情さを身を以て味わったので、私自身は人様に下の世話までさせて生きたいとは毛頭考えていない。
人間は『考える葦』と言った人がいるが、人間が『考える』と言う事をするから、『葦』ではなくなってしまうわけで、考えるから自然の摂理に素直に従うことを拒むようになるのである。
人間が自然の摂理のままに、自然の在るがままに靡いておれば、その数が70億にもならずに、地球の環境破壊も招かず生きてこれたものが、色々なことを考えて、それを実践したものだから、科学が発達して地球環境が汚染されたのである。
日本がアメリカとの戦争に敗北した頃、今から丁度66年ほど前の日本人の平均寿命は、極めて大雑把に言って男50歳、女54歳であって、人々がこの年齢で世を去って行けば、今の年金の問題も介護の問題も現実にはあり得ないということである。
昔は50歳前後で死んでいったものが今は80歳近くまで生きることになったので、普通の常識的な評価としては「極めて有難いこと」となっているが、これが果たして本当に良いことであろうか。
「長生きは良い事だ」という価値観は、人類誕生以来の普遍的な価値観であって、人間の感情としては極めて自然の在り様であるが、これから先も人間の数が級数的な勢いで増加するとなると、手放しで喜んでおれるだろうか。
「人間の命は何ものにも代えがたい」という価値観は、これから先も今まで通りの価値足りえるであろうか。
今、70億という人間がいて、これから先も無尽蔵に人間の数を包容するだけのキャパシテイ―をこの地球は持っているのであろうか。