ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「YUIGON」

2012-04-11 08:10:19 | Weblog
近所に住む知人が自分の読んだ本を捨てる前に私に置いて行ってくれた。
その中の「YUIGON」という本を読んだ。
著者は浜田幸一氏であって、この本の表題は、彼の言うには『遺言』という意味と内容を盛ったもの、ということらしい。
この浜田幸一という人はメデイアにもしばしば登場して人気を博しているが、そういう彼のパフォーマンスは彼の気持ちの中では政治家を辞めた後の政治活動というものらしい。
この本は彼が自らペンをとって原稿用紙を一字一字埋めていったものではないようだ。
ある意味で口述筆記に近いものではないかと推察するが、それだからこそ非常に読み易く、判り易い文章で綴られている。
彼のメデイアにおける発言は非常に過激に思える部分もあるが、彼はでたらめを言っているわけではなく、非常に的を得た発言をしている。
彼の考えていることは、基本的に私の思考と合致しており、私は彼の思考回路を非常に買っている。ただ、問題とすべきことは、彼がアメリカのラスベガスで賭博をして大負けをしたと報道されたが、そのことが彼の不道徳、不行跡、不届きな行為という印象で、世間の人に認知されている。
ところが、この部分の彼の弁明では、一旦受け取ったリベートを先方に返す為の振る舞いだったといっている。
もしこれが真実ならば、日本のメデイアの本質が問われるべき課題だと思う。
あの戦争中に、日本政府の大本営発表がことごとく嘘であったことを戦後我々は知ったわけであるが、それと同じことが戦後も行われていた、ということは実に嘆かわしいことだと思う。
浜田幸一というオッチョコチョイの政治家が、ラスベガスで賭博をすることの裏も取らずに報道する、というメデイアのオッチョコチョイ振りを何と評したらいいのであろう。
浜田幸一氏が、小佐野賢治か児玉誉士夫か田中角栄の依頼で、受け取ったリベートをアメリカ側に返還に行ったとすれば、それを察知し切れずに「ラスベガスの博打で負けた」という根も葉もない報道は一体何であったのかという事になる。
事の核心も探りきれない報道であったとしたならば、報道の意味を成さないわけで、浜田幸一の功罪よりも、メデイアの不甲斐なさを真剣に憂えなければならない。
彼は政界という伏魔殿の中で修羅場を掻い潜ってきたわけで、そのしたたかさおいては人後に落ちないだろうが、その意味で終始一匹オオカミ的に行動し、派閥に属さない生き方を選択したと言うことは大いに共感を覚える。
一匹オオカミ的な態度を貫いたからこそ、言いたい放題のことが言えた、という面もあろうかと思うが、民主政治というのは基本的にそういうものでなければならないと思う。
しかし、民主政治というのは数のマジックが罷り通る場であって、理念や理想をいくら語っても、最後に決するのは人の数であって、正しいことが必ず多数の賛同を得られるとは限らない。
浜田幸一氏の本とはいささかずれるが、昨年の地震による東京電力福島第1原子力発電所の事故に関連して、日本中があの事故を契機にして、「もう原子力発電は要らない、原発廃止」という運動が盛り上がったが、こういう国民大衆の心理もよくよく注視しなければならない。
あの事故で、福島県の一部では放射能が飛び散って人が住めなくなった、という面は如何ともし難いが、だからといってこれから先原子力発電を一切認めないという発想も極めて短絡的な子供じみた発想ではないかと思う。
再び同じような事故を起こしたくない、という感情論は十分に理解できるが、「だから今後一切原子力発電は罷り成らぬ」という発想は、余りにも幼児じみた思考ではないかと思う。
大震災がきっかけとはいえ、誰でも「同じような事故があってはならない」と思っていることに変わりはない筈である。
だからといって「一切、原発を認めない」という発想は、言葉としての理念の綺麗さ、絶対正義に対する盲目的な従属に惑わされた思考停止状態ではないかと思う。
美しい理念や理想を並べることで自分の人格が向上したような気分に浸っている愚昧な人々ではなかろうか。
資源小国の日本にとって、また原爆の被害国にとって、原子力に関するモノが無いに越したことはないが、「ならば日本の電力をどうするのだ」と言ったとき、「節電に務めれば良い」という無責任な答えしかないではないか。
節電などということは、原子力発電が正常に機能している時でも、するのが当たり前のことで、原発のあるなしに関わらずしなければならないことであって、この期に及んで改めて取り組む問題ではない。
我々が問題とすべき点は、「原発が事故を起こしたから、もう二度と同じ惨劇を繰り返したくない」という思いは万人に共通のものであろう。
だが、こういう発想では人類の進化は望めないわけで、同じ惨劇を再び繰り返しては成らないという思いを、事故の真相究明とそれに応じた対策に充てるべく、前向きに考えてこそ人類に未来に貢献する思考ではないかと私は考える。
事故が起きたから「原発を一切合財日本から無くしましょう」では、一見整合性のある議論に見えるが、考え方としては後ろ向きの思考だと思う。
それと合わせて、日本の立ち居振る舞いは世界が見ているわけで、日本で原発廃止の動きが出れば、石油業界のメジャーは「日本は再び炭素エネルギー、石油エネルギーに戻ってくるに違いない、それ稼ぎ時だ」という動きに出る。
現に石油は値上がりし続けているわけで、世界は敏感に日本の動きをウオッチしているのである。その意味で、世界で生き馬の目を抜く熾烈な駆け引きをしている石油メジャーは、我々が日本という国内で大きな声で「原子力発電を止めましょう」と声高に叫んでおれば、「いずれ石油買いに来るからストックしておけ」ということになるのは必然的な動きである。

浜田幸一の政治から少々逸脱してしまったが、彼の政治に対する論旨は、そう極端に変わったものではなく、極めて平穏な思考であったように思う。
ただ彼は派閥に属していないので、他者の支援が得られずその分、派手なパフォーマンスを打って注目を引かねばならなかった。
その為に、一見、極端な立ち居振る舞いを演じなければならなかったことは事実でろうと思う。
民主政治というのは極めて不都合な部分も併せ持っているわけで、多数決原理で事を運ばねばならないので、その多数意見というのが必ずしも最良の方策ではない、ということを真摯に考えなければならない。
民衆、大衆にとっての政治の利得というのは、自らの益するものを得ることであって、民主党のばらまき政策というのは、一般大衆にとってこれほどありがたいモノはない筈である。
政治が生活保護や子供手当、医療補助をすることは国民にとって極めて有難ことに違いない。
しかし、その為には財源がいるわけで、一般大衆や国民は、その方面には無関心なわけで、貰える物さえ貰えれば嬉々としておれるが、その為には増税しなければならず、そのことに対してはなかなか納得し得ない。
本来、民主政治というのは、国民に負担を強いて、国家の付託を国民の全部が分け合うものではないかと思う。
戦後66年間の内の終戦直後の時代は、それこそ生きんが為にがむしゃらに働いた時期であったが、それが高度経済成長を達成し、その後の経済の低迷を招いたわけで、その低迷の時期からいまだに脱出できないでいるのが今の日本の姿ではないかと思う。
ここで我々が考えなければならないことは、当時、日本とアジアでは経済の格差があって、アジアでは人件費が安かったので、製造業は全てアジアにシフトしていった。
結果として製造業のノウハウもアジアに移転してしまったわけで、そのおかげで韓国、中国その他アジア諸国も経済的に大いに発展し得た。
近隣のアジア諸国は、日本から製造業のノウハウを習得し、安い人件費で洪水のようにモノを生産し、それを輸出にあてて経済の底上げに成功したが、それはかって日本が歩んだ道でもあった。
問題は、あの高度経済成長の時、日本では人件費が高くなって製造業が成り立たなくなった。
その時、安易に人件費の安いアジアに工場を移したことにある。
こういう場合の我々の発想が実に安直で思慮分別に欠いた思考ではなかったか、という反省であるが、我々の同胞の中で誰一人だそれを指摘する者がいない。
この発想は「原発が事故を起こしたからもう原発は止めましょう」という発想と全く同じであり、
大東亜戦争に負けたから「もう金輪際、武器を持つことは止めましょう」という思考と全く同じである。
「日本では人件費が高いからアジアに行きましょう」という発想は、余りにも安易な思考であって、それがひいては日本の市場が無くなってしまうという事まで考えが及んでいなかったではないか。日本から製造業が無くなってしまえば、日本の失業者が増えることは理の当然ではないか。
今の日本経済の低迷は、日本に製造業が存在しないので、人々の働く場がない、それが失業者の増大になり生活保護世帯の増加になっているわけで、民主党の近近の課題は人々の働く場を提供することである。
東北の震災復興がままならないのは、あの地に製造業がないからに他ならず、製造業があれば失業者を吸収することが可能で、その分生活保護の給付も減るに違いない。
日本経済の低迷は日本の製造業がアジアに進出した時期から始まっているわけで、モノの作り方を相手に教えれば、相手は教えられたという恩義はいささかも感じないので、「庇を貸して母屋を取られる」仕儀に至ったわけである。
ここで問題になってくるのが人間の知恵という事になるのだが、日本には立派な大学がいくつもあるにもかかわらず、こういう国家の帰趨に貢献する知恵を提供する者が現れないというのは一体どういうことなのであろう。
そもそも人間の組織というものは実に不可解な存在で、あらゆる組織にはそれこそ優秀な人材が掃いて捨てる程いるのであろうが、そういう人の知恵が一向に具現化せず、組織そのものが崩壊するということは一体どういうことなのであろう。
人は綺麗な言葉に惑わされやすい。
しかし、人間の生き様というのは綺麗な言葉では語り継げれないわけで、阿修羅を掻い潜る勇気と挑戦者魂が必要だと思う。
浜田幸一氏はそれを持っていたことは間違いない。