ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「背信政権」

2012-04-12 22:15:26 | Weblog
例によって近所に住む知人がわが家に捨てていった本の中から「背信政権」という本を読んだ。
まだ新しい本で、中央公論新社が昨年(平成11年)の5月に発行した本である。
私の知人は金持ち父さん(本当は爺さん)なので、こういう本を右から左へと買っては捨てられるが、私は貧乏人を自認しているので、とても同じ真似はできない。
この本の定価は1600円となっているが、本来、本の値段などというものは、中身の内容によって軽重が変わるものではないかと思う。
内容的には文庫本で十分なものをこういう単行本に仕立てるということは、資本主義体制の最も基本的な部分であろうが、それを言葉を変えて言えば、売らんが為に創意工夫が満載されているということでもある。
本の内容に関わる問題ではないが、ただただ消費者の財布を緩める為の工夫が盛り沢山なわけで、その一つが表紙の体裁である。
本であるからには、表と裏に表紙があることは当然でるあが、本来の表紙の上に更にもう一枚綺麗な表紙を被せ、その上に尚も帯までが入っている。
これでは普通に土産物屋で売っているお土産の二重底、あるいは上げ底に匹敵することで、本を買う消費者からすれば、そんなに綺麗な表紙のカバーに金を払う気は更々ないに違いない。
私自身は根が貧乏なので自分の金で本を買うということはあまりしないので、出版界の寄生虫のようなものだが、それでもこういう本を手に取るといささか不思議に思う。
そして書いた人がこれまた讀賣新聞の人で、民主党政権になってから読売新聞社内で、民主党政権をウオッチするチームが作られ、社会部と政治部の混成チームでウオッチし続けた結果を纏めたものだということが判る。
新聞に連載された記事を、後で一冊の本にするということは往々にしたあることだと思うが、その時の版権は一体何処に帰属するのであろう。
出版界の寄生虫が心配する筋合いのものではないが、そういうことは専門家集団なので我々のような素人が心配するに及ばないかもしれないが、素人としては気になるところである。
新聞社の人間が、会社の金で取材して、それを記事にするまではよく判るが、その後に残ったその原稿は一体どうなるのであろう。
一旦記事なった後の原稿を寄せ集めて、更に一冊の本に仕立て上げることは、悪いことでないと思うが、その本の売り上げとしての儲けの落ち付く先は一体何処にあるのであろう。
メデイア界ではこういうことがよくあって朝日新聞でもNHKでも、一度公開した内容を再び本にしたり、他の映像として世に出すことはままある。
その時に取材した記者は、自分の仕事の範囲内として、その後で本にした部分の儲けにはタッチしていないというのならば納得がいくが、その意味で大学の先生の出す本にも同じことが言えると思う。
大学という組織の中で、給料を受け取って、大学の研究費で研究をして、それを学会誌に発表する、学術誌に発表するまでは大学の先生としての常識的な立ち居振る舞いであろう。
ところが、その原稿を一般の読者向けに手直しして、一般向けの教養書として発行し、印税を稼ぐとなるといささか問題になるのではなかろうか。
こういう下素っぽい論議はさておいて、小泉政権の後の自民党の体たらくにはほとほと嫌気がさして、民主党に乗り換えてはみたものの、これも全く頂けない有り様である。
我々日本民族というのは、物作りには長けているが、どうして政治的には何時まで経っても3流国の域を出られないのであろう。
我々日本民族は極めて単一民族に近いと言われているが、厳密には海から来た異民族とも融合しているわけで、限りなく単一民族に近いと言いつつも正確にはそうではない。
しかし、我々日本民族を取り巻く地勢的な環境は、海が極めて強固な要塞の役を果たしていて、他民族の影響を限りなく制限してきたことは確かだと思う。
ある意味で海が隔壁の役を果たして、その中で限りなく純粋培養に近い有り様で進化してきたに違いない。
我々の国土に住む我々の同胞は、極めて純粋培養に近い状態で生き永らえてきたので、極めて単一性が高く、それこそ以心伝心という技を知らず知らずのうちに習得していた。
自分の周りの人間は、全てが自分と同じ日本人であり、同胞であるので、何も警戒する必要が無い。相手を信用しても、「庇を貸して母屋を取られる」ことを心配する必要がないし、農業に生産基盤を置いているので、自然の恵みは年々巡ってくるわけで、集落を統治する役目もお互いの回り持ちで済ませれたわけである。
統治ということを、人々を管理するという発想で捉えるのではなく、役職の盥回しという感覚で捉えて、皆が平等に役職を務め、皆が公平に使役を分担するという感覚で捉えていたのである。
集落のトップの地位は統治のためのポストではなく、輪番制でたまたまそこに座っただけのことで、権力の象徴でもなく、統治の指標でもないわけで、決して固執する立場のものではなかった。
この部分は、地球上の他の民族の概念とは全く相容れない思考であって、日本の常識が世界の非常識であり、世界の非常識が日本の常識である所以である。
しかし、日本が鎖国状態のときはこれでもよかったが、我々の国も世界の国々と歩調を合わせて歩もうとすると、これでは世界に通用しないことは当然のことである。
この本が語りかけていることは、日本の中において、日本人が日本を統治するについての余りにも不手際が多すぎることを憂いているわけで、これは日本人の自らの統治能力の瑕疵にそのままつながっている。
我々日本人の祖先は、農耕民族として水の管理にはそれこそ血道を分けた紛争を経てきていると思う。
Aという集落とBという集落とCという集落が、それこそ田に引く水に関して死活問題として論じ合ったに違ない。
それぞれの村の長が集まって、鳩首会談をしたに違いないと思うが、今の民主政治もこの延長線上にあると思う。
要するに、政治に対する感覚として、江戸時代の村の長の寄り合いの域を出るものではなく、そういう感覚で21世紀の政治をしているからこそ、無意味な議論が罷り通っているのである。
民主党の掲げるマニフェストというのは、国民が心の底から渇望しているものを網羅しているが、これがその通りに実現できればこんなに幸せなことはない。
しかし、その財源は何処から出すのだ、となると明確な答えはないわけで、結果として出来もしないマニフェストを掲げた、嘘を言ったという結果に結び付いてしまう。
子供手当でも、出来ればそれを振りまいた方が国民が喜ぶのが当然であるが、「ならばその財源は?」となると答えはないわけで、そこで自民党との確執ができるのである。
国民の為という大義の前では民主党も自民党もない筈である。
問題は、その大義の重心を何処に置くかの違いだけで、自民党でも理念としては「子供手当など全く必要ない」と言うわけではない筈だが、政党として政党の利害得失を考えると、民主党の言うことにもろ手を挙げて賛同するわけにもいかない。
これが党利党略というもので、この党利党略が大きな足かせになっているのが今の日本の政治の状況だと思う。
与党の提案にもろ手を挙げて賛成すれば、反対党の存在意義が失われるわけで、政党政治である限り、心の中で相手の党の言う事に賛成であったとしても、政党員である限りそれが表に出せないのである。
ここで党と個人の関係が日本の封建性のしっぽのようなものと映り、前近代的な思考を引きずっているあかしである。
それと、我々日本民族というのは、責任ということに極めて曖昧な思考しかもっていないように思う。
自民党政権でも民主党政権でも大臣に任命された人が、他愛のない失言で大臣の椅子を放り出すケースが後を絶たないが、これは一種の責任の取り方の一つではあるが、そういう責任の取り方があっていいかどうかの議論は一向に出てこない。
人は誰でも失言の一つや二つは無意識のうちに発してしまうと思う。
不用意で言ってしまうこともあれば、常日頃心中で思っていることがポロッと出てしまうこともあろうかと思うが、その度ごとに大臣が変わると言うのも、余りにも大臣の値打ちが軽いということでもある。
人の発言の言葉尻をつかまえて、揚げ足取りに徹する行為も、余りにも議論の本旨をゆがめてしまうもので、民主主義の本質を見失う最大のものだと思う。
これは政界、政治を司どる立場のものが、政治をマツリゴトと認識して、村の寄り合いの延長線上の認識で以て、マツリゴトというパフォーマンスを演じている図でしかなく、国民のために何を成すべきか、ということを忘れた立ち居振る舞いだと思う。
そして、この本の内容であるが、この本は政権交替した後の民主党政治の政局を縷々述べてるが、問題はこの政局を述べる、政局を語るという行為であって、これは実に下賤な振る舞いではなかろうか。
俗に床屋談議という言葉がって、床屋で語られる政局は、無責任極まりない放言ばかりで、何の参考にもならないという意味で言われているが、この本もそれと全く同じ轍を踏むもので、民主党政権の政局をいくら熱弁で語ったとしても、屁のツッパリにもならないという典型的な例である。
民主党というのは元を正せば革新政党で、憲法改正反対、自衛隊反対、日米安保反対が基本的な伏流水として在るわけで、アメリカ占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの最も忠実な実践者でもある。
対日戦に勝利したアメリカの、日本民族の金玉抜き政策を後生大事に押し戴いて、日本民族であることを否定しようとする人達である。
民族としての誇りも名誉もいらない人達で、ただペットのように飼い主から餌さえ与えられれば、自らの力でそれを維持管理することさえも忌避しかねない思考なのである。
鳩山由紀夫などは宇宙人と言われるぐらいノー天気な人なので、耳触りの良い綺麗な言葉に酔いしれて、出来もしない約束を安易にするので、後に続く人が困ってしまっているが、本人は自分の撒いた種の事の重大さに全く気が付いていないようだ。
この人の政治感覚は全くのド素人であって、浜田幸一氏のように生き馬の目を抜く修羅場に顔を出すべき人ではない。
「おだてりゃ豚も木に登る」という例えのようなもので、政治家としては全く人畜無害な人であるが、それがおだてられてノコノコ顔を出すから、世の中が混乱するのである。
彼の最大の失敗は、沖縄の米軍の移転問題であるが、彼は余りにも安易に出来もしない約束を交わして、それが結果として彼の命取りになったが、彼の約束は彼が退いた後も生きているわけで、その事を考えると彼は日本の国益を大きく損ねたことになる。
ところが、この彼の失政の責任、国益を大きく損ねた責任は一体どうなるのであろう。
今月に入って彼は再びイランを訪れて、イランへのIEAOの在り方に文句をつけて物議をかもしだしているが、彼の政治的センスというのは一体どうなっているのであろう。
馬鹿とか阿呆としか表現の仕様がないではないか。
管直人も市民運動家出身の総理大臣ということであるか、彼自身も自分が統治者と言う認識が無く、国民を統治するという意識は持っていないと思う。
市民運動の延長のような感覚で、町内のお祭りや運動会をし切っているような感覚でいたに違いない。
町内のお祭りや運動会をし切っている分には、全部が日本人という仲間であるが、国の総理大臣ともなれば、付き合う相手は国際的な広がりを持つわけで、仲間内というわけにはいかない。
そこに東日本大震災が覆いかぶさってきたわけで、それに付随して東京電力の福島第1原子力発電のメルトダウンが追い打ちをかけたので、民主党政権の危機管理能力が見事に試されたことになった。
民主党は今までは野党であって、与党、自民党に対して言いたい放題のことを言い、責任は一切回避できたので、随分とお気楽な立場でおれたが、自分が政権をとってみると、与党の辛さを身に沁みて感じたに違ない。
しかし、考えてみると人間の集団というのは実に不思議な存在だと思う。
人間の集団という言い方は極めて雑駁とした捉え方であるが、地球上のあらゆる主権国家には、それぞれに優れた大学を持っていると思う。
大学ともなれば、それぞれに知の殿堂なわけで、そこを出た人は、それぞれに優秀であって優れた知性と理性の持ち主に違いない。
そういう人が頭を寄せ合って、それぞれに国家の運営に当たっていると思うが、それでもこの世に失政ということは多々ある。
これは一体どういうことなのであろう。
日本にも有名大学は掃いて捨てるほどあって、今の若者の60%以上がそういう大学を出た人だと言われているが、21世紀の日本はそういう高学歴社会に至っている筈であるが、そうであれば今日の政治の低迷は一体どう説明するのだろう。
民主党は高校無料化を目指し、大学は全入を目指しているが、日本がそういう高学歴社会になればもっともっと住み易い国になって当然であるが、そうなっていないのは何故なのであろう。
大学での教育というのは一体何なのであろう。
日本は戦争に負けたので、アメリカ占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムに忠実に従って来た経緯があるが、民主党員が政権を担うような時代になれば、我々の祖国が根本からメルトダウンするのも当然の帰結と言える。
一度敗戦を経験したら「もう金輪際、武器を取ることを止めましょう」、一度原発が事故を起こしたら「もう金輪際、原発は止めましょう」というのは余りにも幼児じみた思考ではなかろうか。
中国漁船が日本の巡視艇にぶつかってきたので船長を逮捕したら、中国の恫喝にあっさり屈服する民主党政権の不甲斐なさも、基本的にはアメリカ占領軍が日本国民に施した、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの完膚なきまでの成功例である。
金玉を抜かれた日本民族は、世界の羨望の的であることは間違いない。
何となれば、こんなに人畜無害でよく働く民族は他にいないわけで、踏んでも踏んでも雑草ように立ちあがって、モノを作りに精を出す民族は他にないからである。
中国人あるいはアメリカ人からすれば、まるで打ち出の小槌のようなもので、打ちつければ打ちつけるほど金銀財宝がザクザク出てくるわけで、こういう民族を根絶やしにすることは、彼ら自身の損失につながる。
だから彼らからすれば、生かさぬよう殺さぬよう、適当に泳がせておくことが最良の策なわけで、彼らはそれを実践しているのである。
適当に餌を与え、出過ぎた時は制裁を加え、おとなしい時はおだてて働かせれば、日本民族というのは実に生真面目に働く。
その中で、その殻を破る勇気を持った者はおらず、その殻を破って本来の大和魂を発揮しようとすると、自分に災禍が及ぶことを恐れ、そういう人の足を引っ張り、一様に綺麗な言辞に惑わされて、血を見ることを避けたがる傾向の中で飼いならされているのが我々の現実の姿なのである。
そういう現実であったとしても、それで直接人が死ぬわけではないので、それが平和だと思い込んでいる。
民主党政権というのは基本的にこういう人々の政権なわけで、魂を抜かれた大和民族の末裔であるが、それでも人は生きて行かねばならず、プライドや誇りは投げ捨てでも、生物的に生きねばならないのである。
こういう非常に心根の優しい政権なので、国民に喜ばれる施策は大いに推し進めるが、その結果に関して責任を負うものではない。
その責任は次世代に先送りするだけで、自分たちは人から恨まれる施策は極力さけて、耳触りの良いマニフェストを吹聴するのに一生懸命になっているのである。