ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「奪われる日本の森」

2012-04-19 10:35:02 | Weblog
知人の一人が自分の読んだ本を、「よかったら読んでくれ、気に入らなければそのまま捨ててくれ」といって本を送り付けてきた。
まるで我が家が本の捨て場の感がしないでもないが、貧乏父さん(爺さん)としては、自分の好奇心を刺激する本なので、そのまま捨てるのは忍びず、結局は読んでしまった。
「奪われる日本の森」というものでサブタイトルには「外資が水資源を狙っている」というものである。
発行は2010年なのでいささか古いが、それでも極めて今日的な主題ではある。
この問題の根本の所には、日本の林野行政に関する不備や不満があって、法的に日本の森を守る手だてが何もない点をこの著者は憂いている。
今の日本の林業は、産業として成り立たない面があるので、それが水資源の保護と直結している。水資源の保護と林業の育成は、車の両輪のような関係であるが、林業そのものが産業の体を成さないようになってしまったことが水資源の枯渇に大きな影響を与えているという論旨である。
その林業の実態がこと細かに語られているが、日本の林業の衰退は、安価な輸入木材の流入がその最大の理由であろう。
だが、日本で使う木材を外国から持ってこようが、日本の材木を使おうが、地球全体の材木が消費される事に変わりはない。
こういう産業の推移というのは、何も林業だけの問題ではなく、戦前・戦後を通じて日本が今まで繁栄を築きあげてきた過程では常にあったわけで、それは林業のみに限らない。
石炭産業も、絹織物も、他の繊維業界も、かつては栄華盛衰の試練を経てきているわけで、それはある意味で輪廻転生ということでもあるが、この問題がそういう問題と比べて一味深刻なのは、国土というものに直接関わりがあるからである。
日本の中に外国人の所有する土地が出来るという点に深刻さがあるのである。
そもそも、日本の野山に湧き出ている清水の水は、極めて美味しいことは言うまでもなく万人が認めるところである。
だから、その水の湧き出る場所を外国人が占有するとなると大きな問題を抱え込むことになるよ、と警告を出しているのである。
そもそも、こういう山林には境界をはっきり示す地籍が曖昧だということが、今まで知られていなかった。
日本の土地は、全てきちんと役場に届けられていて、地番が付いているものだとばかり思っていたが、深山幽谷ではそういう管理が全くなされていないなどとは思ってもみなかった。
ただ私が日常生活の中で思うことは、私の周囲の人でも、車にポリタンクを積んで、名水と言われる湧水を汲みに行っては自己満足に浸っている人間がいるが、私としてはこういう行為にいささか懐疑的である。
日本人として毎日食べているお米にも様々なこだわりを持っている人がいるように、水に対してもこだわりを持つことを非難するわけにはいかないが、私からすれば馬鹿らしい行為にしか見えない。そういう人がいるから、そういう名水をペットボトルに入れて売りだす行為も出てくるわけで、それに対して利に聡い外国資本がそういう商売に手を出したとしても、それを一概に阻止することも府に落ちない。
水は人間の生命の維持には欠かせない物質なわけで、ある意味では完全に戦略的な資源という事も言えるが、我々は太古から水と空気と自由はタダだという概念を持っているので、それを戦略的な資源だとするイメージを抱くことにはいささか違和感を覚える。
地球上の人類の中で、畑作放牧生活を主とする人々が地球上の緑を食い荒らしてしまったが、稲作水稲生活をする人々は、水を上手に使う技術に磨きをかけて、森の保全に並々ならぬ努力を重ねてきたという論旨は十分に納得できるものである。
毎年春先になると中国大陸から黄砂が飛んでくるが、あれは人間が中国の大地を丸裸にした結果であって、いわば人災というのだから驚く。
彼らが野山を丸裸にしたのだから、その後植林をすればああはならなかったであろうが、それをしないところが漢民族の漢民族たる所以なのである。
砂漠化した土地を元の緑に戻すということはほぼ不可能なことで、緑の原野を砂漠化することは安易に出来るが、その逆は不可能なわけで、それを中国人は有史以来し続けてきた。
この本の言わんとするところは、そういう中国人の触手が日本の森にも及びつつあるから注意を怠ってはいけませんよ、と言っているのである。
樹を切ったのでその後に植林をしておけば、砂漠化ということは避けられたであろうが、その植えた樹が再び地球を再生するまでには、人間の時間単位で途方もない長期のスパンを要するので、過去の中国人、要するに漢民族というのはその努力を放棄したという事だ。
問題はこの部分にあるわけで、中国人とくに漢民族の人々は、自分の目の前の利得にはなりふり構わずむさぼり取るが、その後のフォローには何の関心も示さないわけで、自然が荒廃するに任せたままで平気でいるというわけだ。
自分の回りから得るものが無くなると、次の場所に移動するわけで、移動して来られた側は、たまったものではない。
21世紀までの人類は、森の樹は無尽蔵にあるという認識でいたに違いない。
日本のみならず、アメリカでも、ロシアでも、いくらでも樹を切り倒して、外国に売り渡していたわけで、だからこそそれを買い叩いて来たから日本の林業が衰退したわけである。
日本の樹であろうが、外国の樹であろうが、樹の絶対数が減れば、その分自然界の酸素の再生能力の減少は必然的に減ることは言うまでもない。
日本の林業も、切って搬出できる範囲のものは全て切り尽くしてしまって、残っているのは切っても搬出できないところのものだけと言うことだ。
こういう問題に直面すると、私は人間の英知に期待を掛けたくなるが、これがなかなか不合理であって、英知が英知たり得ないのは一体どういう事なのであろう。
日本でも外国でも、地球規模で見て、頭の良い人は掃いて捨てる程いるに違いなかろうが、そういう人の英知が、この森の保護、砂漠化の抑制、水震源の確保という人間の生存に直接関わる問題に対して、優れた対応策や解決策を提示できないということをどういう風に考えるべきなのであろう。日本でも優秀な大学が掃いて捨てる程あって、そこの卒業生も腐る程いるに違いないが、そういう人の知性とか理性、理念というものが、社会の正常化にいささかも反映されない、ということはどういう事なのであろう。
林業に関しても 日本の大学の農学部で、林業を専門に研究しているところもあるに違いないと思うが、そういう学究的な実績が一向に我々国民の目に入ってこないということは一体どういう事なのであろう。
この本を読んで思い当たることに、日本では地権者の権利が余りにも強くて、国家権力さえもその個人の私有権を越えられないという矛盾にあらためて思い至った。
今の日本の国民に与えられた私有権、土地所有権は、国家権力でさえもそれを抑圧することが出来ず、公共の福祉のために個人の土地所有権に制限を加えることが出来ないので、それが為公共機関の施設が使用不能に陥っているケースがあって、その代表的なものが成田空港である。
たった数軒の個人の為に、日本の空の表玄関であるべき成田空港の機能が大幅に制限されている現状がある。
この問題に対しても日本の知識階層は、国家の利益を阻害している反対派住民に肩入れをして、日本の知識階層が国益を阻害している人達に良い子ぶって支援する風潮というのは由々しき問題だと思う。
個人の私有権の擁護と、国家のなす公共の福祉を秤に掛けて、個人の我儘を助長するような言辞を弄しては、学識経験者、あるいは知識人としての矜持に欠けると思う。
国家対個人という図式において、どうしても強い側が国家で、個人の立場は弱いものだ、という認識が普遍的であるが、公共の福祉という事が前提であれば、個人の私権の制限という事も素直に受け入れるべきだと思う。
この本の中では、森あるいは水源地を守るといった場合、この個人の所有権、私権が大きく立ちはだかることを危惧しているのである。
山林の売買に関して、売り主は一刻も早く手放して、現金化したいばかりで、藁をも掴む思いで買主を捜しているが、その売買には何の制限もないので、買主の素性が如何なるものであっても厭わず、外国人に渡る可能性が大いにありうるということである。
個人と国家という対立の図式で見ると、過疎の山林の持ち主と、得体の知れない山林ブローカーの存在というのは、資本主義の基本である自由競争に委ねられていて、国家が介在すべきものではないという認識が普遍化している。
だから強力な国家権力の介在という風には見えてはおらず、日本の知識階層には等閑な問題にしか映っていないので、国家の危急な問題とは考えない。
戦後、我々同胞の知識階層、知識階級、高学歴な大学教授やそれに類する評論家というような人々は、国家権力というものが悪の権化かのような認識に浸っている点に大いなる問題が潜んでいる。私に言わしめれば極めて無責任な態度ということになるが、何故に無責任かといえば、如何なる場合、場面でも、大衆、民衆、国民の側の権利を優先させるわけで、それには公共の福祉よりも一部の市民の我儘を優先させる、という大矛盾を正そうとしない点が無責任極まりない。
大衆や民衆というのは、その存在そのものが「善」であって、国家というのはその存在そのものが「悪」だという認識から脱却できないでいるわけで、その事は完全にマルクス史観に嵌り込んだ、妄想であって、自分の頭脳で現実を見ていないということである。
成田闘争に関んして言えば、一部の反対派の住民が未だに頑張っているので、本来もっと有効に、アジアのハブ空港としての機能を発揮し得るところがそうなっていない。
その事実は、大きく日本という主権国家の国益を阻害しているのだけれども、日本の知識階層は、未だに反対派住民をフォローし続けているわけで、これでは日本という国が良くなるわけがない。日本人の中でも教養知性が豊かで、学識経験豊富な階層の人々が、自分の祖国の国益を殺いでいて、自分の祖国の政府に反旗を翻して、自分の祖国の施策の足を引っ張っていてはいては、諸外国から尊敬を得られる国家たり得ないではないか。
日本という国土の中で、外国人が土地を買いあさって、一旦土地の所有権を握ってしまえば、それは国家権力さえも自国の国民のために有効に利用することが出来ないでは、日本という国家そのものこれから先存続し得ない。
日本における土地所有権に関んしては、国家権力でさえも関与し得ないというのでは、国家の繁栄ということは最初から成り立たないではないか。
外国人が日本の土地を買い漁る問題からは飛躍するが、日本という主権国家がこれから先世界と渡り合って生き残って行くことを考えた時、やはりグローバル化と言いつつも、自分たちのアイデンテイテイ―は維持しなければならないと考えざるを得ない。
日本が国論を二分する岐路に立たされたとき、日本の知識階層と日本のメデイアは、こぞって政府に反対する主張を展開する。
物事を推し進める時には『すべきか?すべきでないか!』とニ者択一を迫られることは当然であるが、政府が『しよう』と考えた時には、それを願う人々がいるからこそそういうアクションが起きるわけで、それに反対するということは、そういう人達の意思や願いを踏みつぶすことでもある。ところが、それに対して反対を唱える人達は、どういう対処方法を持っているのであろう。
私にはそういう反対運動をする人達は、政府に盾突くという事で、自分たちのパフォーマンスを演じているのではないかと思う。
現時点での問題では、福島の原発事故に関連して、原発を再開するかどうかという問題であるが、原発など無しで済ませれればそれに越したことはないが、果たしてそんなことができるかとなると答えはない。
反対派の人達はその点を突かれると、「それは政府の責任」と、自分の不利なことは政府に押しつけて、自分は見た目の良い、如何にも社会に貢献しているが如く、立派なことを言っている、かの様に振舞っている。
私に言わせれば、時流に便乗することの得意な、風見鶏に過ぎない。