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川合玉堂のアトリエについて

2015-05-07 20:07:54 | 日記
 図書に「下村観山と川合玉堂」がありましたので、今日は、玉堂について投稿いたします。
 実は、玉堂のアトリエが京浜急行の快速特急停車駅、横浜の次の上大岡駅で下車し普通列車に乗り換え2っ目の富岡駅で下車いたします。
 駅舎は高架駅で階段を下りて、京浜急行のガード下をくぐり抜ける道路を横断して、線路沿いに上大岡方向に上り坂を100mほど歩いて行くと左側に、川合玉堂のアトリエだった門があります。
 今回行って見ると残念ながら、一昨年の12月に焼失したということで、今は、一般公開はされていませんでした。3年程前に来たことがありましたが、庭には、大木の傍らに梅やツツジなどの庭木があり、裏山から湧きでる泉がせせらぎとなって流れ、悠久の別世界の空間を味わうことが出来たのに、残念ながら入館するとこは出来ませんでした。
 さて、川合玉堂は、日本近現代人物履歴事典によれば、日本画家で、明治20年岐阜高等小学校を卒業し、望月玉泉に入門され、大成義会画塾を経て、明治29年6月橋本雅邦に入門、同31年10月日本美術院に参加、文展審査員の就任、また、東京美術学校教授、皇室技芸員、日本画科主任、帝国美術会員(芸術院会員)等に活躍されて、昭和15年11月文化勲章を受章された。と記述されていました。
 一方、「下村観山 川合玉堂」によれば、明治6年愛知県の木曽川町に生まれ本名川合芳三郎、一家は,8歳の時に岐阜市に移り、父は、文房具商を営むようになった。14歳で小学校を卒業すると京都に出て絵を習い、その頃は、明治維新によって永い間の封建社会を瓦壊し、まだ動揺の収まらない時であった。彼の一家が小都市へ移ったのも、その社会的変動のあおりを受けたためであろう。しかし、この新時代の到来は多く者は、古い社会の絆から解き放され、それぞれの志す道へと進み、京都に出た少年の胸には、大きな夢が描かれていたことだろう。
 彼は、初めに望月玉泉に入門し、玉舟と号したが、3年目には、幸野楳嶺の塾に移り号も玉堂と改め、少年の心にも何か深く決するものがあったに違いない。
 この幸野楳嶺は、京都においてこの半世紀間、円山派と共にときめく勢を示し4条派の流風を伝え、塾には、多くの若い逸材を集め、竹内栖鳳も既に頭角をあらわしていた。玉堂も「春渓群猿」と「秋渓群鹿」を第3回内国勧業展覧会に出品して褒状を得ているから、彼もまた気鋭なものがあったことが想像される。
 その後、年毎玉堂の出品は充実し、画檀からも嘱目されることとなったが、彼自身の胸中には、次第に疑惑の雲が広がり始めた。それは、これからの日本画の行方であった。既に、青年たちの間には、日本画を捨てて西洋画に転じた者も多かった。
 しかし、間もなく大決心をする時がきた。それは、22歳の時、出品した内国勧業博覧会の会場の中に彼の作品で「長良川鵜飼」が三等銅賞を授与したが、橋本雅邦の「龍虎」と題した一双の屏風を見たのである。橋本は狩野派の格調のある画法を伝えていて狩野の逸材であった。
 これが、明治美術界の指導者であった岡倉天心に、その画才を見出され、新たに開かれた東京美術学校の日本画主任教授として迎えられたその人であり、「龍虎」の屏風を見ると、京都の作家達の絵に見られない、鋭い筆力と強い気魂とが画面に溢れていた。
 これこそ玉堂が探し求めていた画風をそこに発見した思いで、橋本雅邦こそ自分の師匠とすべき人だと感じて、翌年、上京し橋本雅邦の門を叩き入門を懇願したが、初めは、京都には名画も多く師事すべき作家も多いことを説いたが、玉堂の熱意に動かされ入門を許すこととなった。
 それからの玉堂は、夢中になって雅邦の格調のある画法の習得に努めて、その翌年の絵画共進会第3回展に出品した「家鴨」を見ると雅邦調そのものであり、幸野楳嶺調は影を潜めて、この時における玉堂の決意のほどが知られているのであった。
 しかし、東京の画檀は、決して平静ではなかった。師の橋本雅邦は、東京美術学校の校長でありながら、岡倉天心排斥運動に殉じて、辞職するも、片や天心を盟主として、新たに結成された日本美術院の日本画部の首領として擁せられることになった。その傘下には、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月等の東京美術学校育ちで助教授や講師が連袂で辞退した逸材や教職にあったものが集まって、在野団体として官学派に対抗する実力競争を展開することになった。
 玉堂の立場は、彼らとは異なるものがあったが、師を同じくする関係から、日本美術院展には第1回から出品することとなり、玉堂は、はからずも学校派の駿鋭たちと技を競わなければならぬこととなった。玉堂の日本美術院の第8回展まで出品し続け、毎回2等賞や3等賞を受け続けたことは、如何に彼が努力したか、また、彼の実力が如何に無視することが出来ない作家の一員であったかである。
 画法は、日進月歩で変化していくが、彼は、終生描線主義を唱え、雅邦を敬慕してやまなかったもので、明治40年頃になると画檀の情勢は更に、変わって、日本美術院の作家たちも流石闘い疲れて五浦に雌伏しなければならなくなっていた。
 その頃、文部省において画檀の対立をなくし綜合的展覧会の計画が確立され、所謂「文展」が開かれるようになり、玉堂も審査員となった。大正3年には日本美術院が再興されたが玉堂は加わらず、自然と院から離れ、国家の主催する文展こそ公平な競技の場と考えたからであった。
 しかし、現実は理想と異って、新派、旧派の対立や東京派と京都派の対立などがあったが、玉堂は中道を歩み次第に文展においての重きをなすようになり、彼の性格の円満と画技に重きをなすものがあったことから、大正4年に東京美術学校の教授となり、21年間そこで後進の育成に当たった。
 その地位は、かつて、恩師橋本雅邦が志半ばにして退いたところであり、今、玉堂は、その後を受けて、多くの子弟達にその師の画法を伝える機会を得たのであった。
 昭和に入って、玉堂は、穏やかな老境生活を求めたかったが、騒動は、美術界を煩わしく感じさせるようになったこともあり、彼にとっては何より現実からの逃避を考えていた。昭和19年7月になって戦争が末期的様相を示し、東京が日々空襲の危険に脅かされるようになると写生のために、かつて遊んだ西多摩の御岳に疎開した。
 昭和20年5月牛込若宮町の自邸が戦災で焼失すると疎開していたこの地を永住の地と定め、農家の古民家を移築し、また、彼の好みの画室を建て、これを偶庵と呼んだ。すっかり環境に融けこみ、周辺を歩き回り写生に余念がなく、穏和な玉堂を円熟せしめ、自然を題材にした多くの傑作を残すこととなった。また、余技として詠んだ歌集は4巻までも刊行したが、画集は生前には一つも出版を許さなかった。画檀の巨匠である彼の画業回顧録展も各方面から企てられたが、玉堂は遂に一つも許さなかった。
 むしろ玉堂は、師の橋本雅邦の回顧展を催すことを自分の念願としていた。それは、師に酬いる意味もあったが、今の時代に忘れがちな東洋的画法を改めて認識せるためでもあった。その彼の希望は、昭和32年東京国立博物館で達成されることになり、玉堂は、私費を投じて画録を作り、関係方面に配布し長年の責務を果たしと喜んでいた。最後まで、自分の回顧展を企てることを許さず昭和32年83歳でこの世を去って行った。
 没後のの昭和33年の秋に、川合玉堂遺作展委員会の手によって、国立美術館・高島屋で行われ、同時に川合玉堂作品図録も刊行されていました。
 また、昭和20年に御岳の居宅は、玉堂美術館として、青梅に保存されている。加えて、富岡の川合玉堂アトリエは、横浜教員委員会生涯学習文化財課に問い合わせたところ、大正6年から大正12年の6年間住まいにしていたと返答がありましたので申し添えます。

(川合玉堂別邸を門から内部)

(公開中止のお知らせ)

(ボランティアー募集)

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