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ホテル発祥の地

2016-04-06 13:00:50 | 日記
 JR関内駅方向から大桟橋通りを海に向って歩いて行くと横浜情報センター横に、ホテル発祥の地と云う碑があったので、「横浜もののはじめ考」横浜開港資料館編集・発行によると、つぎの様なことがらが記述されていました。
大桟橋上海の英字新聞、「ノース・チャイナ・ヘラルド」の万延元年(1860年)3月10日号に、2月24日付けで、横浜ホテルの開業広告が出ている。これが横浜最初のホテルである。経営者は、オランダ船籍の帆船ナッソウ号船長、フフナーゲルであった。ナッソウ号は安政6年11月頃横浜で売却され、その後、貯蔵船として利用されている。おそらくフフナーゲルとともに、相当数の船員が上陸してホテルの運営に従事したものと思われる。横浜ホテルが、日本人から、船の名前をとって「ナッショウ住家」などと呼ばれたのはそのためであろう。英公使オールコックを始め、シーボルト父子、亡命中のバクーニン、画家のハイネやワーグマンらが7ここに投宿した。
 1863年10月一旦閉鎖され、翌年2月キャリェール商会の手で新装開店したが、慶応2年大火で焼失し、再建されなかった。
 その他のホテルとしては、ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルとインターナショナルホテル1862年7月、横浜ホテルでボーイをしていたジャマイカ生まれで英国国籍の黒人、通称マコーリー男爵が86番で創業した。1864年カーティスが買い取り、コマーシャル・ホテルと改称する。カーティスは、1868年、その経営をトムプソンに譲り、18番にインターナショナルホテルを開いた。
 また、アングロ・サクソン・ホテルは、1863年11月頃、イギリス蒸気船リームーン号の元主任ステュワード、ジョン・トーマスが71番で開業したが、翌年には倒産したらしい。
 さらに、グランド・ホテル「ガゼット50年史」に収録されているイートンの回顧談によると、1867年頃、ホイが20番゜でホテルを開業しょうとしたが、何者かに殺害されたため、未完成のままであったという。その建物を写真家ベアトが買い取り、グリーン夫人が賃借して、明治3年に開業したのがグランド・ホテルであるが、中断、ベアトらの出資によって改装され、明治6年8月、スミスを総支配人として新装開店する。サルダの設計により隣接の18番・19番に新館を増築、横浜を代表するホテルに成長するが、関東大震災で倒壊した。
 昭和2年、県や市の出資により、山下町10番に新しいホテルがオープンした。公募の結果、グランド・ホテルにちなむホテルニューグランドという名称が選ばれたが、両者の間に継承関係があるわけではない。
 一方、クラブとして、横浜ユナイテッド・クラブとクラブ・ホテル
 「ヤング・ジャバン」によると、1863年10月頃、スミス中佐の手で、居留民も参加できる組織として、66番に共同サービス・クラブが設立された。元治元年の横浜居留地覚書第9条に基づき、英国国籍以外の軍人や居留民にも門戸を開き、新たに海岸通り5番に設立されたのが、横浜ユナイテット・クラブである。宿泊施設を備えていたので、ホテルの機能も持っていた。
 人名録によると、会長としてファン・ピューレンの名が登場するのは明治11年版、英国人ではなく米国人である。クラブ・ホテルが登場するのは17年版からクラブのステュワードを務めいたハーンが、クラブの土地か建物を賃借して経営を始めたものである。
 また、ジャーマン・クラブは、「ガゼット50年史」によると、1863年12月161番に設立された。1869年4月173番に新築移転する。ドイツだけではなく、他の国籍の居留民も会員になれることが出来た。共同サービス・クラブガイングリッシュ・クラブとも呼ばれたのは、これと対比してのことだろう。
 さらに、「市史稿」及び「事物起源」によると、明治6年頃、県令大江卓、参事山東直砥、高島喜右衛門、三井組の社員らによって設立され、休暇の折に「演舌会」などを催したという。これが日本人による横浜最初のクラブとされる。その後活動が中断していたのを、10年に「港内の大商人」たちが再建したとなっていました。
 (注) 文面中に〇〇番とあるのは、居留地の外国人貸地番号であります。平成28年3月日投稿参照ください

(ホテル発祥の地碑)

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