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ブラントについて

2017-02-18 08:36:04 | 日記
 プラントは交通手段として京浜間にその計画に大きな影響を与えた。プラントは、イギリス人で明治元年(1868年)建築土木技師として、日本沿岸に洋式灯台を建設するために来日。横浜居留地の改良計画に関わり、下水道の敷設、街路の舗装、横浜公園の設置、日本大通りの計画設計、吉田橋の鉄橋への架け替えなど多くの功績を残した。
 彼は、日本の経済の自立を守るために、外国人に鉄道の敷設権や経営権を渡すべきではないと主張し、建設資金が不足する際には外債を募集すべきと進言しました。この結果、鉄道建設はブラントの意見に基づいておこなわれ、彼がイギリス人であったためでしょうか、実際の鉄道建設工事はイギリス人の実業家や技術者を巻き込みながら進められた。 
 政府がイギリスの東洋銀行に鉄道建設資金の調達を委任したのは明治3年(1870年)のことで、東洋銀行はロンドンで日本の公債を発行し、建設資金30万ポンドが調達されました。また、建設資材はイギリスで購入されることになり、モレルをはじめとする建設技術者もイギリス人を中心に雇われました。
 工事が始まったのは明治3年(1870年)4月25日この日、東京の汐留周辺から測量が始まりました。また、5月3日からは横浜からも測量が始まり、その後、神奈川宿周辺の海岸部で鉄道用地の埋立が進められました。建設工事が本格化したのは明治4年(1871年)に入ってからで、同年11月には横浜から多摩川までの鉄道が完成し、翌年3月には品川までの工事が完了しました。
 こうして明治5年(1872年)6月12日我が国最初の鉄道は品川と横浜の間で仮開業しました。また、同年10月14日には新橋と品川間の鉄道も完成し、新橋駅と横浜駅で盛大な鉄道開業式がおこなわれました。完成した鉄道は約29キロメートル、新橋と横浜との間に品川、川崎、鶴見、神奈川の4つの駅が置かれました。
 その後、鉄道利用者は急増し、明治6年(1873年)の鉄道利用者は140万人を越えました。また、明治13年(1880年)代に入ると、旅客だけでなく貨物輸送も増加し、明治19年(1886年)には年間8万4千トン以上の貨物が鉄道によって運ばれました。鉄道開通後、京浜間では乗合馬車や蒸気船の利用はなくなっていきましたが、横浜港と首都東京は鉄道によって,以前より強く結びつけられました。
 鉄道の敷設によって、横浜や東京の人々の生活空間は一気に広がり、女性や老人でも気楽に東京へ、横浜へと出掛けることが出来る時代になりました。

(横浜の偉人達の業績標)

(ブラントの業績標)


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