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丹羽鋤彦について

2017-02-25 09:14:47 | 日記
 「横浜市史資料室紀要第1号編集協力(K)ウインダムには次のようなことがらの記述がありましたので、投稿いたします。
 氏は、明治期から昭和期に活躍した土木技師で、横浜新埠頭の実質的な設計監督者となるなど、日本における港湾工学の権威であった。ちようど丹羽と鮫島は大蔵省土木技師の先輩・後輩の関係にあり、1920年(大正9年)4月に丹羽の三女満津子と鮫島が結婚したことで「親子」の関係を結んだ。
 そのような経緯もあって丹羽の資料群は鮫島資料とともに旧横浜市史編集室に寄贈された。鮫島茂文書には、横浜関連の資料以外にも港湾関係や土木関係の資料が豊富に含まれており、今後の幅広活用が望まれる。
 さて、丹羽の関連資料には、1923年(大正12年)9月の関東大震災に関する「震火災の一周年を迎いて、東京市河港課員報」という資料が存在する。同資料は丹羽が課長を務めた東京河港課が震災の一年後に作成したもので、震災当時の東京市役所の活動を知ることができる。また、1923年(大正12年)11月参与会議第1回帝都復興院という資料群からは、震災直後の帝都復興論も窺える。
 それらの資料から東京市の応急対応や帝都復興計画の分析が可能である。また、そのことは横浜の「関東大震災」研究にも繋がってくる。
 横浜の関東大震災を考察する上で、東京の動向を見過ごすことはできない。その理由は大きく三つあり、第一に横浜の罹災滋状況を相対化する比較対象となる点、第二に国地方からの応援が東京の存在と密接に関わっていた点、第三に横浜の復興も帝都の復興の帝都復興計画の一部に組み込まれた点である。今後、横浜だけでなく、東京を含めた広域的な視点から横浜の関東大震災を分析する必要があろう。
 当時、丹羽は後備陸軍歩兵伍長の身分で、日露戦争中は招集対象にあったが、大蔵省の申請によって兵役免除となっている。その理由は「其計画(横浜港整備―引用者)施行等諸般ノ責任ヲ負フモノナルヲ以テ一朝戦時事変ニ際シ招集セラル、トキハ俄二他人ヲシテ代ラシメ難ク勿チ同部事業上ニ支障ヲ来シ候コト不少候」というもので、横浜港の整備に不可欠な人物となっていた。以後、丹羽は臨時横浜港設備委員や大臣官房臨時建築課長を歴任し、工学博士の学位を取得していた。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(偉人達の業績標)

(丹羽鋤彦氏の業績標)

(象の鼻の変遷)天然の防波堤

(横浜港の変遷)

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