相馬次郎師常之墓についてNO51(裏5)
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
相馬師常は、千葉介常胤の第二子で、相馬氏をつぎ、巽荒神社の辺に邸を有していた。
元久2年(1205年)11月15日、67歳で端座し、合掌したままで往生をとげたが、仏縁をもつ僧、俗人が多く集まって、その師常を拝したという。
いわやの中の宝篋印塔は師常の墓である。
{参考}
相馬師常(1139~1205年)
千葉常胤の第二子で、治承4年8月、頼朝が石橋山に敗れ、安房(千葉県)に渡ったとき、師常は、父常胤に従って頼朝に味方した。時に41歳。その後、頼朝の奥州征伐にも軍功をあげ、奥州行方郡を賞として与えられている。
師常は、鎌倉駅から寿福寺に向かう途中の右側、横須賀線との間にある異荒神のあたりに住んでいたと言われ、また寿福寺の隣にある八坂神社は、もと相馬天王と言われていて、師常が自分の屋敷に勧請したのであるが、それが再々の移転で、今の地に扇が谷の氏神としてまつられているのである。
晩年は念仏行者として常心と号し、その往生のようすが端座し合掌したままであったというので、人々がその往生の姿を拝しに集まったと言う。などと云う記述がありましたので、投稿いたとします。
(相馬次郎師常之墓の碑)
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
相馬師常は、千葉介常胤の第二子で、相馬氏をつぎ、巽荒神社の辺に邸を有していた。
元久2年(1205年)11月15日、67歳で端座し、合掌したままで往生をとげたが、仏縁をもつ僧、俗人が多く集まって、その師常を拝したという。
いわやの中の宝篋印塔は師常の墓である。
{参考}
相馬師常(1139~1205年)
千葉常胤の第二子で、治承4年8月、頼朝が石橋山に敗れ、安房(千葉県)に渡ったとき、師常は、父常胤に従って頼朝に味方した。時に41歳。その後、頼朝の奥州征伐にも軍功をあげ、奥州行方郡を賞として与えられている。
師常は、鎌倉駅から寿福寺に向かう途中の右側、横須賀線との間にある異荒神のあたりに住んでいたと言われ、また寿福寺の隣にある八坂神社は、もと相馬天王と言われていて、師常が自分の屋敷に勧請したのであるが、それが再々の移転で、今の地に扇が谷の氏神としてまつられているのである。
晩年は念仏行者として常心と号し、その往生のようすが端座し合掌したままであったというので、人々がその往生の姿を拝しに集まったと言う。などと云う記述がありましたので、投稿いたとします。
(相馬次郎師常之墓の碑)
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