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生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡について

2016-07-09 13:28:47 | 日記
 関内桜通りをJR関内駅から港方向へ進んだ本町通りと交差する右側に「生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡」の碑がありましたので、「炎の生糸商中居屋重兵衛 著者荻原進」によると次のような事柄が記述されていましたので、投稿いたします。
 中居屋重兵衛という名は、一般にはほとんど知られていない。ただわずかに郷里の群馬と横浜の一部の人々に伝えられてきた。いわば歴史の流れの外に置かれた人物であった。諸説まちまちの幕末時代に生き、そして死んでいった一介の商人であっただけに、事情も雲間に隠見する蚊竜のそれに似て、断片的にしか人間像がつかめない。歴史的事実の実像虚像が幕末史中の人物であるがため、実像も一層謎に包まれた部分が多い。
 彼のことが群馬県で紹介されたのは、昭和4年の「群馬県吾妻郡誌」であった。それも、横浜中居屋の店に勤めていた小林という老人が生家を訪れて、大正時代に話した聞書が主であった。生家がその後火災にあい、一切の伝記資料を焼失したことも一つの原因であったし、42歳で横浜から突然姿を消し、伝承では、その店は幕府に接収されてあっと言う間に没落したために、まとまった関係資料もほとんど残されかったことも、また見逃されて来た一つの原因をなしていた。
 しかし、日本の事実上の近代の夜明けの拠点となった横浜開港関係の資料の中には、中居屋重兵衛にふれたものが早くに伝えられていたが、横浜開港で突如現われながら、巨星地に墜ちるように勿然として横浜から姿を消してしまったため、いつの間にか横浜でも忘れさられていた。
 群馬県の草津温泉の近くにある吾妻郡嬬恋村三原、それが彼の誕生地である。彼は文政、天保といった近世の第二次繁栄期の社会情勢の中で成長した。郷里中居村は、天下の名湯として知られた草津に近かったこともあり、全国的に酔って、離農離村者がふえた。そのあと一転して天保の飢餓というショックによる不況よって彼の生家の家産も傾いてきた。その中で、彼は必至に努力奮闘したが思うように回復は成らなかった。
 そうした現実の中で、村を出て江戸で新しい活路を見いだそうとした。幸い、江戸には母方の親戚である和泉屋善兵衛が居たので、そこに身を寄せて第二の人生に命をかけた。この江戸在住時代に商人道を会得し、ただ利益追求のありきたりの商人ではなく、学問の研究にも没頭し、行動が国土的な政商の面にまで及んだ。
 そのころ、江戸と京都の東西を拠点として、天下は騒然としていた。将軍世継ぎにからんだ幕閣の争いや、倒幕と佐幕という体制の革新に対する二つの大きな流れなど国内問題はその去就さえわからないまま推移して行った。
 一方には、鎖国を破って通商を迫るアメリカやロシアなどの諸国がしきりに近海に出没して我が国に近づき、海防問題、開国の是非論とともに大きな外患とった。そうした不安定な内憂外患の社会の中で、重兵衛は、倒幕開国論を選んだのである。
 数多い横浜進出の商人の中で、際立ってその商才と商魂を評価され、浜第一の豪商であった中居屋重兵衛が、もし明治までいきながらえたとすればどんな活躍と社会的地位を得たか誰しも興味を抱くであろう。常に時代の先端を開拓し、水先案内をしてきた偉材が、花火のように消えたその生涯はまことに波乱万丈であった。そこにまた現代人に訴えるものがあるゆえんであろう。という事などの記述がありました。
 「開国の先覚者 中居屋重兵衛 著者 佐々木杜太郎 発行者 菅貞人」には、“人はその生きた時代によって作られ、また時代は人によってつくられる。すべての歴史は人が生み出したものである。”とあったので、併せて投稿いたします。

(生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡の碑)

(生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡付近)

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