「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
元弘三年(1333年)5月、新田義貞の軍が鎌倉に攻め入ったとき、北条高時は、小町の邸を出て、父祖代々の墓所である東勝寺にたてこもった。
150年もの間、にぎわい栄えた鎌倉の中にある邸や店は、すべて一面に焔の海となってしまった。
北条高時は、この焔煙のうずまく有様を望み見つつ、一族縁のつながる者総勢870余人と共に、自刃したのであった。
北条氏執権の歴史の最後の悲惨な一こまは、実に此の地にて演じられたのである。
(参考)
北条一族の最期
太平記巻十より関係個所を次に引用する。
去る程に、(由比ケ浜)在家ならびに稲瀬河の東西に(新田義貞の軍勢が)火をかけたれば、折りふし浜風烈しく吹きしいて、車輪の如くなる炎、黒煙の中にとび散って、十町二十町がほかに燃えつくこと、同時に二十余箇所なり、猛火の下より源氏の兵乱入りて、とほうを失える敵どもを、ここかしこに、射伏せ切り伏せ、あるいは引き組んで差ちがえ、あるいは生けどり、分どりさまざまなり。
煙に迷える女、わらんべども追立られて火の中、堀の底ともいわず、逃げ倒れたる有様は、これやこの帝釈宮の戦に、修羅の眷族ども、天帝のために罰せられて、剣戟の上に倒れ伏し、阿鼻大城の罪人が、獄卒の槍にかられて、鉄湯の底に落ち入るらんも、かくやと思い知られて、語るにことばもさらになく、聞くにあわれを催して、、皆泪にぞむせびける。
去る程に、余煙四方より吹きかけて、相模入道殿の屋形近く火かかりければ、相模入道殿八千余騎にて、葛西ケ谷に引きこもり給いければ、諸大将の兵どもは、東勝寺にみちみちたり。(中略)総じて、その門葉たる人283人、我先きにと腹切って、屋形に火をかけたれば、猛炎さかんに燃え上り、黒煙天をかすめたり。庭上門前になみいたる兵共これを見て、あるいは自ら腹切って、炎の中へとび入るもあり、あるいは父子兄弟刺しちがえかさなり臥すもあり、血は流れて大地にあふれ、漫々として洪河の如くなれば、かばねは行路に横たわって、累々たる郊原の如し。死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ねれば、この一所にて死する者、すべて870余人なり、このほか、門葉恩願の者、僧俗男女をいわず、聞き伝え聞き伝え泉下に恩を報ずる人、世上に悲しみを催す者、遠国の事はいざ知らず、鎌倉中を考うるに、すべて6千余人なり、ああこの日いかなる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蜜懐(ひきこもりがまんする心)一朝に開くるを得たり。
(東勝寺)
北条氏の菩提寺である東勝寺については、その位置について明確に指摘できるまでに至っていなかったが、昭和50年の発掘調査によって、はじめて、位置、規模なとせが明るみに出るようになった。調査の実際を目のあたりにし、また調査報告をたよりにしたりして、ありし日の東勝寺を想見してみると次のようになる。
東勝寺橋をわたって、「東勝寺旧蹟碑」に向って坂をのぼって行くと、右手にかなりの広さの草地があるが、このあたりが、およそ650年の昔、北条氏一門の終焉の地、東勝寺のあったところである。
草地が住宅で終わるところで、右の草地へ住宅沿いに折れて入ると、①のあたりで、2メートルたらずの、地下から寺の入口と思われる石畳の坂道が見つかり、その石畳の脇には、鎌倉石5段位つみ重ねた石垣も出て来た。そしてこの石垣も、その積み方が一般の寺の石垣様式とはちがって、堅固な積重ね方は、まさに山城の石垣を思わせるものであった。寺は同時に館、とりでの働きをするものである。
石畳の坂を進んで、住宅に沿って左折れするあたり②の所では、法条家の家紋(三つうろこ)のついた瓦が堀りだされ、そのあたりは門があったと推定された。その奥に入って③のあたりは、1メートル余りの土を掘りとると、岩盤があらわれ、多くの柱穴や溝のあとが数多く見出された。土台のしっかりした岩盤に穴をあけて柱をたてた建物のあったことは、もはや歴然とした事実となった。その岩盤からすこし離れて、④のあたりには、小さな堂のあった遺跡が見つかったし、その堂址の東の方からは、厚さ30センチにも及ぶおびただしい炭と灰の層⑤があらわれ、大火災のあったことのまぎれもないあかしとなった。
今これらのあとは、再び土で覆われ、往時の遺跡は地下に埋められてあるが、この地に立つと、北条高時以下一族郎党が、悪銭苦闘の末、ついに力つきて、この伽藍に火をかけ、猛火の中に亡びていったその怨念の深さを思い、憶惻と胸を打たれる思いがする。
発掘あとの草地から少しのぼると、「東勝寺旧蹟」の碑があるが、その左奥が腹切やぐらと言われるところであって、小さな供養塔の下には、おびただしい戦死者を集め、埋められているのではないかと考えられている。このやぐらについても、発掘調査の計画がたてられていると聞くので、この結果から、またあらたに往時を偲ぶあかしが日の目を見るようになるであろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。
(東勝寺旧蹟の碑)
(東勝寺旧蹟への階段)
(東勝寺旧蹟の告知標)
(切腹やぐら)
元弘三年(1333年)5月、新田義貞の軍が鎌倉に攻め入ったとき、北条高時は、小町の邸を出て、父祖代々の墓所である東勝寺にたてこもった。
150年もの間、にぎわい栄えた鎌倉の中にある邸や店は、すべて一面に焔の海となってしまった。
北条高時は、この焔煙のうずまく有様を望み見つつ、一族縁のつながる者総勢870余人と共に、自刃したのであった。
北条氏執権の歴史の最後の悲惨な一こまは、実に此の地にて演じられたのである。
(参考)
北条一族の最期
太平記巻十より関係個所を次に引用する。
去る程に、(由比ケ浜)在家ならびに稲瀬河の東西に(新田義貞の軍勢が)火をかけたれば、折りふし浜風烈しく吹きしいて、車輪の如くなる炎、黒煙の中にとび散って、十町二十町がほかに燃えつくこと、同時に二十余箇所なり、猛火の下より源氏の兵乱入りて、とほうを失える敵どもを、ここかしこに、射伏せ切り伏せ、あるいは引き組んで差ちがえ、あるいは生けどり、分どりさまざまなり。
煙に迷える女、わらんべども追立られて火の中、堀の底ともいわず、逃げ倒れたる有様は、これやこの帝釈宮の戦に、修羅の眷族ども、天帝のために罰せられて、剣戟の上に倒れ伏し、阿鼻大城の罪人が、獄卒の槍にかられて、鉄湯の底に落ち入るらんも、かくやと思い知られて、語るにことばもさらになく、聞くにあわれを催して、、皆泪にぞむせびける。
去る程に、余煙四方より吹きかけて、相模入道殿の屋形近く火かかりければ、相模入道殿八千余騎にて、葛西ケ谷に引きこもり給いければ、諸大将の兵どもは、東勝寺にみちみちたり。(中略)総じて、その門葉たる人283人、我先きにと腹切って、屋形に火をかけたれば、猛炎さかんに燃え上り、黒煙天をかすめたり。庭上門前になみいたる兵共これを見て、あるいは自ら腹切って、炎の中へとび入るもあり、あるいは父子兄弟刺しちがえかさなり臥すもあり、血は流れて大地にあふれ、漫々として洪河の如くなれば、かばねは行路に横たわって、累々たる郊原の如し。死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ねれば、この一所にて死する者、すべて870余人なり、このほか、門葉恩願の者、僧俗男女をいわず、聞き伝え聞き伝え泉下に恩を報ずる人、世上に悲しみを催す者、遠国の事はいざ知らず、鎌倉中を考うるに、すべて6千余人なり、ああこの日いかなる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蜜懐(ひきこもりがまんする心)一朝に開くるを得たり。
(東勝寺)
北条氏の菩提寺である東勝寺については、その位置について明確に指摘できるまでに至っていなかったが、昭和50年の発掘調査によって、はじめて、位置、規模なとせが明るみに出るようになった。調査の実際を目のあたりにし、また調査報告をたよりにしたりして、ありし日の東勝寺を想見してみると次のようになる。
東勝寺橋をわたって、「東勝寺旧蹟碑」に向って坂をのぼって行くと、右手にかなりの広さの草地があるが、このあたりが、およそ650年の昔、北条氏一門の終焉の地、東勝寺のあったところである。
草地が住宅で終わるところで、右の草地へ住宅沿いに折れて入ると、①のあたりで、2メートルたらずの、地下から寺の入口と思われる石畳の坂道が見つかり、その石畳の脇には、鎌倉石5段位つみ重ねた石垣も出て来た。そしてこの石垣も、その積み方が一般の寺の石垣様式とはちがって、堅固な積重ね方は、まさに山城の石垣を思わせるものであった。寺は同時に館、とりでの働きをするものである。
石畳の坂を進んで、住宅に沿って左折れするあたり②の所では、法条家の家紋(三つうろこ)のついた瓦が堀りだされ、そのあたりは門があったと推定された。その奥に入って③のあたりは、1メートル余りの土を掘りとると、岩盤があらわれ、多くの柱穴や溝のあとが数多く見出された。土台のしっかりした岩盤に穴をあけて柱をたてた建物のあったことは、もはや歴然とした事実となった。その岩盤からすこし離れて、④のあたりには、小さな堂のあった遺跡が見つかったし、その堂址の東の方からは、厚さ30センチにも及ぶおびただしい炭と灰の層⑤があらわれ、大火災のあったことのまぎれもないあかしとなった。
今これらのあとは、再び土で覆われ、往時の遺跡は地下に埋められてあるが、この地に立つと、北条高時以下一族郎党が、悪銭苦闘の末、ついに力つきて、この伽藍に火をかけ、猛火の中に亡びていったその怨念の深さを思い、憶惻と胸を打たれる思いがする。
発掘あとの草地から少しのぼると、「東勝寺旧蹟」の碑があるが、その左奥が腹切やぐらと言われるところであって、小さな供養塔の下には、おびただしい戦死者を集め、埋められているのではないかと考えられている。このやぐらについても、発掘調査の計画がたてられていると聞くので、この結果から、またあらたに往時を偲ぶあかしが日の目を見るようになるであろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。
(東勝寺旧蹟の碑)
(東勝寺旧蹟への階段)
(東勝寺旧蹟の告知標)
(切腹やぐら)
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