「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
今をさかのぼる七百年の昔、永仁年間(1293年~1299年)、鎌倉幕府の執権であった北条時宗公が、極楽寺の僧である良観房忍性上人に命じて、貧民救済の目的のもとに療養所を設けたのは、この桑が谷戸であったという。また文永年間(1264年~1275年)に大旱魃(かんばつ)によるききんのとき、粥(かゆ)のたきだしをしたのも、此の地であったという。その後、年はすぎ人はかわって、今は当時をしのぶ何も無くなってしまった。ただここに立って、静かによき人のよき業をふりかえってみると、松風と共に教えられるものがあるので、ここに桑が谷の歴史を伝え、当時をしのぶようすとしたい。
極楽寺の由来書に、「凶年にはうえた人を、深沢が谷に集めて、粥を施して救った」とか、「北条時宗は、上人を招待して教え受けた折、上人は、時宗に病人をいたわることは、仏門の最良のわざであると語ったので、時宗は深く心に感じ、桑が谷に治療所をつくり、国中の病人を集めて治療をした」とあるのが、そのあかしとなるであろう。
(桑ケ谷療養所跡の碑)
{参考}
文永、文仁のころの災害
年表
西 暦 元 号 災 害
1257 正嘉元 ・ 八 ・ 二三 鎌倉大地震
神社仏閣すべて倒壊、人屋愼倒、中、下馬
の辺地裂け、中より火災燃え出る。
1258 同 二 ・ 正 ・一七 鎌倉大火
秋田域介義景宅より出火、寿福寺全焼、八
幡宮の一部も焼失
一〇 ・一六 鎌倉甚雨、洪 屋宅流失し、人溺死する
1259 正元 元 諸国大飢餓疫病流行
1260 文応 元 ・ 四 ・ 二九 鎌倉大火
長楽寺前より亀ケ谷まで火災
六 ・ 一 鎌倉暴風雨・洪水 河辺の人家、大部分流
失、山崩れで、人多く圧死する。
六 ・ 五 雨止みの祈禱をする。
八 ・ 五 鎌倉甚雨・大風・地震
1263 弘長 三 ・ 三 ・ 一八 鎌倉名越焼亡
八 ・ 一四 雷鳴大風雨大風で、樹木家屋倒壊、由比が浜
に打ちよせられた破損船数十艘 諸国の災害
甚大
八 ・ 二六 鎌倉甘縄辺火事
八 ・ 二七 大風雨による大波由比が浜の船沈没、死人汀
に寄る、鎮西の船六十一艇艘、伊豆の海に漂
流
一一 ・ 二二 鎌倉小町焼亡
一二 ・ 一〇 鎌倉若宮大路焼亡
一二 ・ 一七 鎌倉荏柄社前火事
1264 文永 元 ・ 四 諸国農民の庸役を、農時の時は禁止する
二 ・ 三 ・ 九 鎌倉大地震
六 ・ 一〇 鎌倉亀ケ谷・泉ケ谷山崩れ
三 ・ 正 ・ 二五 鎌倉佐々目ケ谷焼亡
六 ・ 二四 鎌倉大地震
1271 八 諸国旱魃
1290 正応 三 ・ 二 百姓に農事外の課役をすること、人身売買等
を禁ず
一二 円覚寺火災
1292 五 ・ 四 ・ 一二 鎌倉大地震岩に打たれた死者二千七百余人
1293 永仁 元 ・ 四 ・一三 鎌倉大地震社・寺・民家の倒壊多数、死者二
万三千余人
1295 三 ・一一 勝長寿院火災
1296 四 ・ 二 ・ 三 鶴岡八幡宮焼失
1297 五 ・ 三 ・ 六 永仁の徳政令が出る
1293 永仁 元 ・四 ・一三 鎌倉大地震社・寺・民家の倒壊多数、死者二
万三千余人
1295 三 ・一一 勝長寿院火災
1296 四 ・二 ・ 三 鶴岡八幡宮焼失
1297 五 ・三 ・ 六 永仁の徳政令が出る
今をさかのぼる七百年の昔、永仁年間(1293年~1299年)、鎌倉幕府の執権であった北条時宗公が、極楽寺の僧である良観房忍性上人に命じて、貧民救済の目的のもとに療養所を設けたのは、この桑が谷戸であったという。また文永年間(1264年~1275年)に大旱魃(かんばつ)によるききんのとき、粥(かゆ)のたきだしをしたのも、此の地であったという。その後、年はすぎ人はかわって、今は当時をしのぶ何も無くなってしまった。ただここに立って、静かによき人のよき業をふりかえってみると、松風と共に教えられるものがあるので、ここに桑が谷の歴史を伝え、当時をしのぶようすとしたい。
極楽寺の由来書に、「凶年にはうえた人を、深沢が谷に集めて、粥を施して救った」とか、「北条時宗は、上人を招待して教え受けた折、上人は、時宗に病人をいたわることは、仏門の最良のわざであると語ったので、時宗は深く心に感じ、桑が谷に治療所をつくり、国中の病人を集めて治療をした」とあるのが、そのあかしとなるであろう。
(桑ケ谷療養所跡の碑)
{参考}
文永、文仁のころの災害
年表
西 暦 元 号 災 害
1257 正嘉元 ・ 八 ・ 二三 鎌倉大地震
神社仏閣すべて倒壊、人屋愼倒、中、下馬
の辺地裂け、中より火災燃え出る。
1258 同 二 ・ 正 ・一七 鎌倉大火
秋田域介義景宅より出火、寿福寺全焼、八
幡宮の一部も焼失
一〇 ・一六 鎌倉甚雨、洪 屋宅流失し、人溺死する
1259 正元 元 諸国大飢餓疫病流行
1260 文応 元 ・ 四 ・ 二九 鎌倉大火
長楽寺前より亀ケ谷まで火災
六 ・ 一 鎌倉暴風雨・洪水 河辺の人家、大部分流
失、山崩れで、人多く圧死する。
六 ・ 五 雨止みの祈禱をする。
八 ・ 五 鎌倉甚雨・大風・地震
1263 弘長 三 ・ 三 ・ 一八 鎌倉名越焼亡
八 ・ 一四 雷鳴大風雨大風で、樹木家屋倒壊、由比が浜
に打ちよせられた破損船数十艘 諸国の災害
甚大
八 ・ 二六 鎌倉甘縄辺火事
八 ・ 二七 大風雨による大波由比が浜の船沈没、死人汀
に寄る、鎮西の船六十一艇艘、伊豆の海に漂
流
一一 ・ 二二 鎌倉小町焼亡
一二 ・ 一〇 鎌倉若宮大路焼亡
一二 ・ 一七 鎌倉荏柄社前火事
1264 文永 元 ・ 四 諸国農民の庸役を、農時の時は禁止する
二 ・ 三 ・ 九 鎌倉大地震
六 ・ 一〇 鎌倉亀ケ谷・泉ケ谷山崩れ
三 ・ 正 ・ 二五 鎌倉佐々目ケ谷焼亡
六 ・ 二四 鎌倉大地震
1271 八 諸国旱魃
1290 正応 三 ・ 二 百姓に農事外の課役をすること、人身売買等
を禁ず
一二 円覚寺火災
1292 五 ・ 四 ・ 一二 鎌倉大地震岩に打たれた死者二千七百余人
1293 永仁 元 ・ 四 ・一三 鎌倉大地震社・寺・民家の倒壊多数、死者二
万三千余人
1295 三 ・一一 勝長寿院火災
1296 四 ・ 二 ・ 三 鶴岡八幡宮焼失
1297 五 ・ 三 ・ 六 永仁の徳政令が出る
1293 永仁 元 ・四 ・一三 鎌倉大地震社・寺・民家の倒壊多数、死者二
万三千余人
1295 三 ・一一 勝長寿院火災
1296 四 ・二 ・ 三 鶴岡八幡宮焼失
1297 五 ・三 ・ 六 永仁の徳政令が出る
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