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桑ケ谷療養所跡についてNO66(西9)

2019-04-20 09:26:22 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 今をさかのぼる七百年の昔、永仁年間(1293年~1299年)、鎌倉幕府の執権であった北条時宗公が、極楽寺の僧である良観房忍性上人に命じて、貧民救済の目的のもとに療養所を設けたのは、この桑が谷戸であったという。また文永年間(1264年~1275年)に大旱魃(かんばつ)によるききんのとき、粥(かゆ)のたきだしをしたのも、此の地であったという。その後、年はすぎ人はかわって、今は当時をしのぶ何も無くなってしまった。ただここに立って、静かによき人のよき業をふりかえってみると、松風と共に教えられるものがあるので、ここに桑が谷の歴史を伝え、当時をしのぶようすとしたい。
 極楽寺の由来書に、「凶年にはうえた人を、深沢が谷に集めて、粥を施して救った」とか、「北条時宗は、上人を招待して教え受けた折、上人は、時宗に病人をいたわることは、仏門の最良のわざであると語ったので、時宗は深く心に感じ、桑が谷に治療所をつくり、国中の病人を集めて治療をした」とあるのが、そのあかしとなるであろう。


(桑ケ谷療養所跡の碑)

 {参考}
 文永、文仁のころの災害
 年表
西  暦 元   号 災        害

1257   正嘉元 ・ 八 ・ 二三  鎌倉大地震
       神社仏閣すべて倒壊、人屋愼倒、中、下馬
の辺地裂け、中より火災燃え出る。
     
1258  同  二 ・ 正 ・一七   鎌倉大火
       秋田域介義景宅より出火、寿福寺全焼、八
幡宮の一部も焼失
    一〇 ・一六   鎌倉甚雨、洪 屋宅流失し、人溺死する
     
1259  正元 元  諸国大飢餓疫病流行
     
1260   文応 元 ・ 四 ・ 二九  鎌倉大火
       長楽寺前より亀ケ谷まで火災
 
         六 ・  一   鎌倉暴風雨・洪水 河辺の人家、大部分流
失、山崩れで、人多く圧死する。
       
           六 ・  五  雨止みの祈禱をする。
           八 ・  五  鎌倉甚雨・大風・地震
     
1263   弘長 三 ・ 三 ・ 一八  鎌倉名越焼亡
         八 ・ 一四   雷鳴大風雨大風で、樹木家屋倒壊、由比が浜
に打ちよせられた破損船数十艘 諸国の災害
甚大      
 
          八 ・ 二六   鎌倉甘縄辺火事
          八 ・ 二七  大風雨による大波由比が浜の船沈没、死人汀
に寄る、鎮西の船六十一艇艘、伊豆の海に漂
流      
      
         一一 ・ 二二  鎌倉小町焼亡
         一二 ・ 一〇  鎌倉若宮大路焼亡
         一二 ・ 一七  鎌倉荏柄社前火事
     
1264  文永 元 ・ 四   諸国農民の庸役を、農時の時は禁止する
        二 ・ 三 ・  九  鎌倉大地震
          六 ・ 一〇  鎌倉亀ケ谷・泉ケ谷山崩れ
        三 ・ 正 ・ 二五  鎌倉佐々目ケ谷焼亡
           六 ・ 二四  鎌倉大地震
     
1271      八   諸国旱魃
     
1290 正応 三 ・ 二   百姓に農事外の課役をすること、人身売買等
を禁ず
           一二  円覚寺火災
     
1292      五 ・ 四 ・ 一二  鎌倉大地震岩に打たれた死者二千七百余人 
      
     
1293  永仁  元 ・ 四 ・一三  鎌倉大地震社・寺・民家の倒壊多数、死者二
万三千余人
       
     
1295        三 ・一一   勝長寿院火災
     
1296       四 ・ 二 ・  三  鶴岡八幡宮焼失
     
1297        五 ・ 三 ・  六  永仁の徳政令が出る
     
1293  永仁  元 ・四 ・一三  鎌倉大地震社・寺・民家の倒壊多数、死者二
万三千余人
      
     
1295       三 ・一一   勝長寿院火災
     
1296      四 ・二 ・  三  鶴岡八幡宮焼失
     
1297      五 ・三 ・  六  永仁の徳政令が出る

     



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