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横浜製鉄所跡の碑について

2016-05-21 08:42:01 | 日記
 JR京浜東北線石川町駅を下車して関内方向に100メートルほど歩くと「横浜製鉄所跡の碑」があったので、神奈川県史近代現代偏によると次のような記述があったので、投稿いたします。
 元治元年(1864)目付栗本瀬兵衛門は、参政酒井飛騨守に招かれ、幕府海軍の帆船翔鶴丸の修理をフランス人技師に頼んでくれるように懇請された。栗本は交遊のあったカシュン書記官やその筋から面識のあったフランス駐日公使レオン・ロシュに信用があったからである。栗本はすぐ横浜へ至りロシュに依頼したとところ、ロシュはフランス東洋艦隊提督ジョーライスの意見をきき、士官ドロートルや職工を十数人派遣し、機関の修繕や修理に協力した。
 その工事の交渉にあたっていた栗本が関税からの帰途、騎馬であとを追ってきた勘定奉行小栗上野介から呼び止められ、相談を受けたのが、先年佐賀藩から幕府に献上された蒸気船用諸機関一式の利用についてであった。
 小栗の話では、献上機関の三分の二は、横浜港の石炭庫に運ばれ、残りは長崎港にあるが、この機械を活用して相模の狢ケ湾(三浦群長浦湾)にドックや製鉄所を建設しようとしてすでに測量まで行ったけれども、その方面に熟練者がいないため企画倒れに終わった。小栗は、栗本に翔鶴丸を修理するのに功のあったドロートルなどを使って長浦湾でドックを建設するようにと頼んだのであった。
 栗本はただちに小栗を伴い、ロシュを訪れ意見を求めたところ、公使はジョーライスの助言によりドロートルよりも旗艦セミラミス号の蒸気士官ジンソライを推せんした。佐賀藩献上機械を鑑定した結果、これらの機械は、全体に小型であり馬力も小さいので小修理には適するが、ドックを造るような大修理工事には向かないので、むしろ横浜近傍に据え付け小船の修理に使用すれば便利であろうと報告した。
 栗本は小栗と相談し、フランスの友好的な態度に信頼し、その技術をもとに、鍋島閑艘の意志を生かしてその献上機械で艦船修理工場をつくることに決めた。長崎に残っていた機械も全部横浜に取り寄せ、ジンソライの調査検分を経て建設のはこびになったのが、横浜製鉄所である。
 慶応元年(1865)2月横浜本村を選び横浜製鉄所は起工され、同年8月完成した。慰臨丸遺米使節がアメリカから購入してきた工作機械をも加えて据え付け、艦船修理とともに工業伝習をもあわせて目的とし、フランス技師に依存するので、ドロートルが首長に就任した。日本側の担当者はそれまでの因縁から栗本瀬兵衛が任命された。などの記載がありましたので、投稿いたします。
 なお、平行して水深の深い横須賀に本格的なドック建設の計画が進められていることを申し添えます。

(横浜製鉄所跡の碑)

(横浜製鉄所跡の碑周辺の背景)

(横浜製鉄所跡の碑周辺の背景)

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