「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
永安寺(ようあんじ)は二階堂が谷(やつ)にある。関東管領足利氏満が開き、開山は雲芳という僧であった。雲芳和尚は、名を周応と言い、夢想(窓)国師の法を受けつぎ、建長寺の瑞林庵の始祖である。
氏満は、応永五年(1398年)11月4日に亡くなり、法号を永安寺壁山全公と称した。永安寺の寺号は、この法名に基づいている。
氏満の孫の持氏は、時の将軍足利義教と不和となり、戦いとなったが敗れ、勢いきわまって此の寺にこもって自殺した。時に永享十一年(1439年)2月10日であった。
此の日に、寺は兵火にかかって、その姿を失ってしまった。この地は、実にその永安寺のあとである。という記述がありました。
建立場所
参考「永安寺」
瑞泉寺の門前に向って右の谷にあるこの寺は、臨済宗の禅寺であって、開山は雲芳周応で、鎌倉御所であった足利氏満(初代基氏の子で応永五年(1398年)に残)の菩堤を弔うために建立されている。
永享十一年(1439年)時の鎌倉御所足利持氏は、上杉憲実に攻められて、一族もろともこの寺で自害している。
寺には、長春院とか、早雲庵などの塔院があったと伝えるが、この寺がいつのころに廃寺となったかは明らかでない。
堂の庭という一段高いところは、三重の塔があったところであろう。などという記述がありました。
(永安寺址の碑)
永安寺(ようあんじ)は二階堂が谷(やつ)にある。関東管領足利氏満が開き、開山は雲芳という僧であった。雲芳和尚は、名を周応と言い、夢想(窓)国師の法を受けつぎ、建長寺の瑞林庵の始祖である。
氏満は、応永五年(1398年)11月4日に亡くなり、法号を永安寺壁山全公と称した。永安寺の寺号は、この法名に基づいている。
氏満の孫の持氏は、時の将軍足利義教と不和となり、戦いとなったが敗れ、勢いきわまって此の寺にこもって自殺した。時に永享十一年(1439年)2月10日であった。
此の日に、寺は兵火にかかって、その姿を失ってしまった。この地は、実にその永安寺のあとである。という記述がありました。
建立場所
参考「永安寺」
瑞泉寺の門前に向って右の谷にあるこの寺は、臨済宗の禅寺であって、開山は雲芳周応で、鎌倉御所であった足利氏満(初代基氏の子で応永五年(1398年)に残)の菩堤を弔うために建立されている。
永享十一年(1439年)時の鎌倉御所足利持氏は、上杉憲実に攻められて、一族もろともこの寺で自害している。
寺には、長春院とか、早雲庵などの塔院があったと伝えるが、この寺がいつのころに廃寺となったかは明らかでない。
堂の庭という一段高いところは、三重の塔があったところであろう。などという記述がありました。
(永安寺址の碑)
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